Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ③

まえがき・モチベーション

 酒が回っているうちに下書きを書いてしまおう。

 筆者はそんなに頻繁を映画を見ない。最後に映画に見に行ったのは4月の終わりか5月のはじめだったかに渋谷のアップリンクで『サウルの息子』を見たのが最後である。かれこれ一か月は劇場に通ってないっぽい。ついでに言っておくと『サウルの息子』はホロコースト映画として本当に名作なので機会があれば見てほしい。

 

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 いやまあ映画を見る時間がない訳ではない。新入社員にそんな大きな仕事も任されないし定時に上がって列車に揺られて駅前の映画館に行ってレイトショーを見たり、そんなこともできないわけではない。

 でもそうしないのは筆者にそんな映像に対する飽くなきモチベーションがないからである。1時間も2時間も映像の前に座ってられるかってんだ。それ相応のモチベーションか、もしくは空前絶後の退屈にない限り筆者は映画を見ない。仕事が終わったら自宅に戻ってtwitterニコニコ動画をだらだら見て寝る時間になってそれで終わり。その時間を使って本を読むなり映画を見るなりすればいいのだがそこまで張り切れない。映画を見るのも本を読むのも労力が要る。死ぬのか、俺は。

 なんで映画を見るってそれは暇を潰すためだ。映画を見ることを目的にして映画を見るのは、なんか違う気がする。「俺は映画を見るために映画を見るんだ!」って人がいるならそれを止めはしない。そういう楽しみ方もあると思う。コンテンツの楽しみ方なんて人それぞれだ。本を読むために本を読んだっていいしアニメを見るためにアニメを見たっていいと思う。最近はアニメを見るにも労力が要るようになってきた。俺は、死ぬのか。

 暇を潰すためとはいえなんで映画なんて見るのだろう?TUTAYAなんかで借りればそりゃ旧作100円だったりするけど劇場では1500円やら1800円取られたりする(もう学生料金じゃない)。そんな大金を払って2時間近く席に縛り付けられて映像を見て、何が楽しいんだろう?俺は何を買っているんだろう?ハイソな人類への切符がチケットについてくるなら喜んで買うだろうけど、生憎そんなものはついていない。

 「この映画を見て人生についての見方が変わった」なんて感想は聞きたくない。たかが数時間の映画を見て変わる人生観とかそんなものははじめからゼロに等しい。映画に影響されまくりな筆者の言えたことじゃないけど、映画なんてそんなものだと思う。リュミエール兄弟は別に人類の生を変えるためにシネマトグラフを手に『ラ・シオタ駅への列車の到着』を撮ったわけじゃないだろうし、ジガ・ヴェルトフは確かにフィクションの在り方を問いながら『カメラを持った男』を撮影したかもしれないが人類のことなんて一つも考えていないだろう。

 どうして映画なんて見るのだろう、このことについては深く考える必要はないかもしれないし深く考えるべきではないのかもしれない。「そこに映画があるから」なんて陳腐な答えは期待してないし拒絶するべきだ。

 この前劇場に足を運んだとき、予告で『シン・ゴジラ』の映像が流れた。監督を務める庵野秀明がその中で「面白い映画を撮ろう」みたいなことをスタッフに言っていたが、面白ければぼくら(注:大きな主語)は劇場へ足を運ぶのだろうか。よくわからない。つまらないことは考えないことにする。

 

 今回は感想ではなく筆者のオススメ映画を何作か挙げていきたいと思う。面白いってことがよくわからなくなってしまったのでそれぞれの作品の感想を書いたり紹介をすることで作品の魅力を筆者に再認識させることが今回の目的となっている。最近は小説を書いても何が面白いのかわからなくなってしまった。鬱かと言えばそんなことはなく筆者の精神も肉体も極めて健康なので安心してほしい(あなたが安心する必要はない)。

 紹介する順番に特に意味はないけれど、思いついた順なので無意識的に筆者のランキングになっているかもしれない。一応映画監督一人につき一作というきまりはある。

 また、ここで映画をオススメする理由は先述した通り極めて私的な理由によるものなので誰が見ても面白いとかそんな普遍性は考えていない。このブログを見て該当の映画を見たがつまらなかった、なんてことに対して筆者は一切責任を負わない。その点をご了承願いたい。

 とりあえず、思いついたのは下の5本。その内1本を紹介させてほしい。たぶん全部べた褒めになるのでそういうのが苦痛な人はブラウザバックしてほしい。

 

エミール・クストリッツァアンダーグラウンド

アレクサンドル・ソクーロフエルミタージュ幻想

北野武キッズ・リターン

原一男ゆきゆきて、神軍

ヴェルナー・ヘルツォーク『小人の饗宴』

・ヴァルター・ルットマン『ベルリン・大都市交響楽』

 

エミール・クストリッツァアンダーグラウンド』(1995年)

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 今まで見てきた映画で最高のヤツは何かと尋ねられれば、筆者は間違いなく『アンダーグラウンド』を第一に挙げる。前回の記事では繰り返して見るとつまらなかったりする映画、そんな話をした気がするがこれは10回見ても飽きない映画だ。上映時間も170分と結構長いがそんなものは関係ない。最後まで映像の中に引き込まれながら見続けることができるし、見終わったあとには凄まじい感覚(感動とはまた違うかも)が残る。

 そこまで褒めておいて、じゃあ具体的に何の映画なんだというとかつてバルカン半島にあった地域・国家ユーゴスラヴィアの歴史を題材にした映画である。ユーゴというと内線・紛争が直観的に思い出されるかもしれないが、紛争に至る前も第二次世界大戦中の対独パルチザン社会主義時代といった重厚な歴史を持っている。『アンダーグラウンド』はそんな重厚な歴史を、クストリッツァの濃厚な映像技法で映画としてまとめたものだ。

 こう言われると、「ユーゴスラヴィアなんてよく知らんしハードル高そうだしペダンチスト死ねや」と言われるかもしれないが、筆者自身この映画を見るまでユーゴスラヴィアについてちゃんと理解しようとしたことがなかったので安心してほしい。周囲の人に勧めてみたところ、みんなユーゴを知らなくてもかなり楽しんでもらえていた記憶がある。

 それもそのはずで、この映画には「ユーゴスラヴィアという国家への追憶と語り」という性格がある。紛争という歴史から、外国人からは「悲しい」とか「陰鬱」とかそんなイメージの跋扈するユーゴスラヴィアだが作中で描かれるユーゴスラヴィアには笑いがあり怒りがあり喜びがあり悲しみがある。感情豊かなユーゴスラヴィアの人々が描かれ、単なる歴史叙述ではなく「記憶の中のユーゴスラヴィア」を描き出しているように思う。だから、ユーゴの歴史を知らなくとも視聴者は一人一人のユーゴスラヴィアの人々に接近することが可能だ。

 余談、監督のエミール・クストリッツァは「ユーゴスラヴィア人」を自称するほどのユーゴスラヴィア主義者で、この映画もそんな性格から政治的論争に巻き込まれてしまった。それが理由でクストリッツァは一時映画を撮るのをやめてしまった。その後、政治的・歴史的性格を排した黒猫・白猫を撮影するがこちらも最高に面白いのでいつか紹介したいと思う。

エミール・クストリッツァ黒猫・白猫』、1998年

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 ユーゴとそこに住んでいた人々の歴史・記憶がクストリッツァのカオスな喜劇・悲劇手法をもって次々に展開されていく。荒唐無稽、ナンセンス、そう思う人もいるかもしれないがこの無限に殴られ続けるような映画がクセになる。

 しかし、先述した通りユーゴスラヴィアには「紛争」という歴史がついて回る。紛争がどんなものだったかはよく記憶していなくとも視聴者のほとんどはそれを念頭にスクリーンに視線を送らねばならないだろう。第二次世界大戦社会主義時代を経て「戦争」という章題が画面に映った瞬間「ああ、やっぱり」という気分にならざるをえない。

 紛争によってそれまで主人公たちが構築してきたものは決定的に、完膚なきまでに破壊されてしまう。それまでにも多くの犠牲があったが、紛争はその上を行く。救いはどこにもない。戦火に燃える教会では自殺者が鐘を鳴らし、キリスト像の周りをガソリンに焼かれる死体が電動車椅子に乗って回り続け、ユーゴスラヴィアの血は大地に染み込んでを流れる。もう最悪である。全てが絶望の中にあり、これで物語はすべて終わったと思う。「ああ、やっぱり」と思いながら視聴者はエンドロールを待つだろう。

 そうじゃない。ラストシーンは度肝を抜く。初見の視聴者は「なんじゃこりゃ!?」と思い、既に視聴していた観客は「これを待っていた!」とニヤニヤするだろう(個人的な感想)。詳細は省くが、最後の最後に語られる「苦痛と悲しみなしには、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』、と」という言葉はこのラストシーンとともに映画史に残る最高のセリフだろう。

 

 個人的な話、筆者が歴史好きで特に歴史・記憶論(歴史を記憶するとはどういうことか、記憶はどのように表現されるか、みたいなヤツ)が大好きだったのでこの映画はそりゃもうドツボだったのだが、先にも述べた通り誰が見ても面白い映画となっている。

 そこで、なんでこれが面白いんだろうと考えてみるとそれはたぶんこの映画が理解可能/不可能の境界上にあるからだろうととりあえず思った。

 クストリッツァの映画はどれもリアリティとファンタジックの間を行くようなものばかりだ。『ジプシーのとき』『ライフ・イズ・ミラクル』『パパは出張中!』……これらの作品群はいつもこちらの想像力を上回ってくる。常に観客はクストリッツァのカメラに殴られ続ける。しかしそれは不条理ではない。殴られながら、なんとなく観客はカメラが映すそれを理解できる。なんじゃそりゃ、と殴られながらもなんとなく納得する。マゾヒストかよと思うかもしれないが長時間イスに縛られ続ける映画を見るヤツなんてたいていマゾヒストだしその指摘は的を得てると思う。

 この、理解不能から理解可能への越境こそクストリッツァ映画の面白さなんじゃないかなと個人的に考えている。理解できることばかりの映画なんて見ていてもつまらないだろう。逆に不条理に殴られ続ける映画はやはり辛い。余談。ふと思ったのはアレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を!』だ。一応、映像とセリフへの注視に全身全霊を掛ければ画面の中で何が起きているか理解できないこともないのだが、それでも全体の10%くらいしかわからないし(そも全体が把握できないのだが)そんなことを140分近くやってられない。殴られ続けるのが趣味、という方は見るといいなじゃないかな。筆者もそんなところが少しあるので一応オススメしておく。

アレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を!』(1998年)

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 理解の範疇の境界線上にある、これが面白さの理由の一つかなと思う。ハリウッド批判みたいで嫌なのだが、ユーゴスラヴィアをはじめ第三世界映画にはそうした想像力を超えてくる作品が多いように思える。読者の方も、こんな駄文からクストリッツァ作品や第三世界映画に触れてもらえればと思う。もちろん、つまらなくても筆者は責任は取らない。けれど『アンダーグラウンド』の面白さだけは保証したい。

 

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SUPER8』は、そこまでオススメしない。ただラストの情景だけは一級品。それくらい。

 

おわり

 一作品くらいの紹介がやっぱりちょうどいい気がする。労力もそこまで必要にならないし。二本書こうとするのはやはり無謀だった。いつも二本立てで上映してくれる早稲田松竹様やキネカ大森様には頭が上がらない。

 どうでもいい個人的な話をすると筆者は『アンダーグラウンド』からユーゴスラヴィアに興味を持って色々調べたりユーゴスラヴィアラノベを書こうとしたりしている。もし文フリやコミケでそんなものを売っているところを見てもセルビアボスニア・ヘルツェゴヴィナの大使館に通報したりせずそっとしてあげてほしい。