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印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

ルノワール、フィルム、フレーム

視覚とフレーム

 この文章はルノワール展の感想ではない。

 先日国立新美術館でやってたルノワール展に行ってきた。

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 正直、絵画を見るための審美眼なぞ持ち合わせていないので結局時代背景とか考えるだけで終わる。『ムーラン・ド・ギャレット』には近代市民社会における公共空間の登場と市民としての女性が描かれていて~とか必死に考えるのは絵画の鑑賞法をよく知らないからに過ぎない。絵を見ろよ。

 ほんで、頑張って絵を見ようとするのだが、そこでなんとなく気づいたのは額縁の存在感。当然ながら、展示されている絵は必ず額縁に入っている。けれど、中には肝心の絵以上の面積を持つ額縁とか、やたらと凝った意匠の額縁とかあってやたらと気になる。そこで色々また思いつき始めたのだが、だから、絵を見ろよ。

 フレーム。

 絵画に限らず、映画や演劇、アニメや漫画といった視覚文化においてフレームはガチのマジで重要だ。スクリーン、舞台、テレビ、コマ割り……。スクリーンとアスペクト比が一致してない映像を想像できる?舞台の存在しない演劇を想像できる?コマ割りの存在しない漫画を想像できる?だいたいこういうのはアヴァンギャルドな人たちが挑戦してきたことだから現代だとなんとなく想像はできてしまうかもしれない。

 フレームの機能は視線の集中と同時に境界の決定にある。フレームがあるから観客はどこに視線を向ければいいかわかる、対象が「作品」であるとわかる。絵画をひたすらくっつけるようにして並べてしまうとどこからどこまでが作品であるのかわからなくなってしまう。フレームは、対象が「作品」であるかを決定する。ここでわかることは観客は基本的にフレームの存在を前提に作品を鑑賞しているということだ。無意識的にと言い換えてもいい。額縁を見るために美術館を訪れる人間なんてそういないだろう。

 額縁・フレームというか境界に対する無意識のうちの認識。マグリットの下の絵とか例示にはちょうどいいかもしれない。

 ルネ・マグリット『人間の条件』(1933年)

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 この絵の中には絵画を絵画足らしめようとさせる積極的なフレームが存在せず、ただ周囲との違和感という消極的な理由によってキャンバス上の絵画は絵画として認識される。下のやつも同様。

ルネ・マグリット『Euclidean Walks』(1955年)

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 少し調べたら部屋の内部は人間の内面で外部を写し取る無意識・精神が云々とかいう絵画評論が一般的とか出てきてこれもうわかんねえな。

 あと、美術館で額縁見てるとほぼ必ず凹の形を取ることに気づいたけど、これも鑑賞者の視線を中心(絵画)に寄せていくためかなと思った。凸になって飛び出てくるような絵画なんて見たことない。そうすると額縁の効果が薄くなるからかなとなんとなく思ったので、誰か今度実験してみてください。

 映画とフレーム

  既に述べているように映画においてもフレームは重要な存在だ。スクリーンはどこからどこまでが作品なのか、広い映画館の中でどこに視線を向ければいいのか教えてくれる。(「映画館でスクリーンに目を向けないバカがいるかよ」)。

 スクリーンは額縁じゃなくね?と思うかもしれない、実際スクリーンのみを映画におけるフレームとして定義するのは無理があると思う。映画におけるフレームとなるとまた面倒なのだが、個人的には映画館という空間そのものがフレームになるのではないかと思う。演劇における舞台と同じっぽいけど演劇は全然わからないのでその道の人に聞いてください。

 フレームとしての映画館は現代よりも映画が出現したばかりの20世紀初頭の方が顕著でわかりやすい。下の画像は1930年代アメリカの映画館、演劇用の劇場をそのまま映画館に改装したような空間だ。

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 重要なのは、今の映画館と比較して装飾が仰々しいほどに施されているにも関わらず結局視線は中央の真っ白な平面(スクリーン)に無意識に向けられるということだ。

 ちょろっとだけ先に話を出していたが、絵画の額縁は凹の形を取る。それは中心に視線を集めるため、光の井戸として機能するためだが映画館にも同じことが言える。上のような装飾マシマシ映画館も現代のシンプルなつくりの映画館も構造的には絵画の額縁と一緒なのだ。視線がスクリーンの方向へ集中する錘の形をしている。スクリーンはキャンバス、映画館そのものは額縁として考えることができるかもしれない。

 

 うだうだとした話をしよう。映画におけるフレームの構造がここ最近どんどん変化してきている。3D、4DX、IMAXとか、なんか色々出てきた。またこの話かよ。一応付け加えておくと3D映画自体は既に1920年代に劇場で上映されたことがあるし1953年にもヒッチコックの3D映画『ダイヤルMを廻せ!』が上映されている。とりあえず最近の3D映画の潮流の源としてはたぶん2009年の『アバター』かなと思っている。

アルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』(1953年)

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 話を元に戻す。4DXやIMAXといった新しい上映形態が目的としているのはだいたい”臨場感の増幅”だろう。立体映像・立体音響による抱擁、4DXに至っては触覚まで刺激してくる。観客は映画の世界に連れ込まれることを強制される。

 スクリーンから観客へ、この方向性は今までになかったものだ。今まで観客は勝手にスクリーンに映る映像を勝手に見ていればよかったから、むしろ逆に”観客からスクリーンへ”という方向性があったんじゃないかと思う。

 臨場感の増幅はフレームの破壊に他ならない。フレームが生み出す境界なんて臨場感を目指す立場からしたら邪魔でしかない。映画館が破壊されてしまうとなると、あと観客に残ってるのは身体しかない。映画館というフレームをふっ飛ばして身体で直接感覚する映画。身体がフレームとして機能するかどうかはまた別の話ということで。

 「フレームを破壊するからIMAXも4DXもクソ」と言いたい気持ちがないわけではないけれど言ったところで何も意味はないのでやめておく。むしろ、今までの映画は美術や演劇と同じ視覚文化としてそれらと並列になって存在していたが自らフレームを破壊することで今後どのような形態を取っていくのか、さらにはフレームの消失に対して観客の無意識はどのような対応を取っていくのかということだ。映画館で席に座ったらスクリーンに視線を移すのが当たり前、その当たり前が変わる可能性がある。言い過ぎか、でも映画が生まれてたかだか100年ちょっとでしかない、100年で形成された伝統やら慣習なんてものは簡単に吹き飛ぶ。10年後、映画館の観客はどのように映画を見ているかなんて誰にもわからないだろう。でもやっぱり筆者はアトラクションとしての映画館には耐えられそうにない(クソザコ

 

 そんなこんなを国立新美術館で考えていた。だから、ルノワールの絵を見ろよ。