Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

室賀厚作品レビュー企画(第3回):『SCORE』

バックナンバーは一番下です。参照するのか?

 

はじめに

前回更新から2日だぞ。大丈夫かこのペース。

今回紹介するのは1996年公開の『SCORE』です。松竹系で室賀監督の劇映画デビュー作。『レザボア・ドッグス』が『男たちの挽歌』です。またかよ。でも俺は室賀監督作品群最高傑作だと思ってるよ。

『SCORE』

 

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『SCORE』(1996年)

公開:一九九六年(一部では九五年公開とされるが先行公開と推測。全国公開は九六年一月なのでこれを正とした)

制作:松竹第一興行、バンダイビジュアル

製作:奥山和由

脚本:室賀厚・大川俊道

出演:小沢仁志、江原修、小沢和義宇梶剛士、高野みゆき、水上竜士、宮坂ひろし、他

 

あらすじ:

 舞台は現代、東南アジアのどこかの国。

 懲役刑を受けていた銀行強盗のプロ・チャンス(小沢仁志)は犯罪組織のボス・大佐(宇梶剛士)の裏工作により釈放される。大佐に借金を抱えるチャンスに再び強盗をさせるのが大佐の目的だった。新たに仲間三人も加えて、チャンスは宝石強盗を計画、実行しこれを成功させる。

 後は郊外の廃工場で大佐から金を受け取るだけだったが、その途中にイカれたヒッチハイク強盗のTJ(小沢和義)に目をつけられて宝石を奪われてしまう。更に仲間内でも宝石の独り占めを狙って裏切りが起き、廃工場は欲望渦巻く熾烈な銃撃戦に飲み込まれることになる。

 

レビュー:

 前回『ザ・ワイルド・ビート』のレビューで紹介した通り、前作を小沢仁志に紹介された奥山和由がそのアクション演出を気に入って実現した企画。本作が室賀厚にとって劇映画デビューとなる。

 作品の筋も前作から変わらず、『レザボア・ドッグス』なビジュアルと男たちの裏切りをファクターに『男たちの挽歌』みたいな銃撃戦とドラマを組み合わせたアクション映画となっている。

 見ていると感じることだが、時間の経過が非常に速い。セリフでストーリーを進めることがほとんどなく、基本的にアクションだけで画面を転がしていくので画面のテンポが異常に良い。

 逆にセリフはほとんどキャクターを紹介するため、あるいは場の演出に使われている。キザったらしい、あるいはアニメチックなキャラクターたちがキザったらしい言葉を吐き続けるので「そんなヤツおらんやん!」「アニメじゃん!」など叫び続けることになるが、そういう尖ったところが気にってるから見てんだよこっちは。なお劇場公開後に月刊シナリオ(一九九六年二月号)で室賀厚と大川俊道の対談インタビュー記事が掲載されているが、両名とも脚本についてはストーリーよりもアクションに重きを置いた、アクションを見せるための映画と割り切っているようだ。また、当初は大川が全面的に室賀の脚本のリライトを行ってから撮影を始めたが現場で室賀がアクションのためにバンバン脚本を変更したとのこと。そんな話を月刊シナリオでするな。

 正直、そうしたアクション重視の面があるためどうしてもアクションの比率が低い前半部は結構退屈な印象を受ける。特に外から乱入してきて物語をひっちゃかめっちゃかに掻き回すヒッチハイク強盗のカップルはそのどぎついキャラクターも相まってなかなか応える。勝手な推測としてカップルの女・沙羅のキャラクターは奥山和由の提案っぽい。それまでの室賀作品には見られないキャラクターだが、奥山製作の『いつかギラギラする日』(一九九二年、深作欣二監督)で荻野目慶子が演じるイカれた女に似ててなんか邪推しちゃうんだよな。それと、沙羅を演じた高野みゆきについては何も情報がない。本作と同時期に公開されたジュブナイルホラー『地獄堂霊界通信』(一九九六年、監督:那須博之)にわずかに出演しているらしいが、それ以上のことはとりあえずネットではほとんどわからなかった。

 後半のアクションシーンはしかし溜めていただけあって見ものだ。明らかに不要なほどでかいショットガンを振り回す宮坂ひろしや、恐らくフィリピン現地で採用したであろう謎の殺し屋三人組、それに対抗する主人公たちはバチバチチョウ・ユンファを憑依させて二丁拳銃やら台車突撃射撃(?)で敵を蹴散らしていく。そしてどこかで聞いたことのあるようなキザなセリフ、最高! 個人的に気に入っているのは小沢が「チャンス」の名の由来を回収した後の宮坂とやる殴り合いのような銃撃戦です。

(どうでもいいが劇中銃弾何発もぶち込まれてシャツが赤くなっても小沢や江原が生き生きしているのはやっぱりこの映画のダメージシステムがFPSみたいに時間経過回復方式を採っているからだろう)

 ラストには思い出したように『レザボア・ドッグス』要素が復活する。いきなりここでドラマになる⁉ と思いながらも、こういう終わり方でいいのよとも思う。そっからシームレスに突入するかっけえロックとエンディング。こういうのでいいのよ。あるとき、本作が初見だという人々に見せたら「まさか最後〇〇じゃないよね?」と見事に最後の演出を言い当てられて感動したことを覚えている。

 再び月刊シナリオのインタビュー記事に戻るが、アクション優先という脚本も、突き詰めて言うと室賀のやりたいことを優先させた映画でもあるという。室賀の先輩でありドラマ脚本の経験も厚い大川も「お行儀のよい」脚本を用意することはできたかもしれないが、そうではなく室賀の尖りまくったアクション演出に対する感性を絞り切った結果生まれたのが本作だろう。

 更にそこに北野武ソナチネ』、石井隆『GONIN』など切れ味のある九〇年代バイオレンス映画に深く関わってきた奥山が関与することで作家性とエンタメ性の両立にまとまりができたのかもしれない。ある意味、九〇年代のオリジナルビデオにおけるバイオレンスを駆けてきた室賀厚と大川俊道と、劇映画における九〇年代バイオレンスをプロデュースしてきた奥山和由という二つのバイオレンスの合流なのかもしれない。

 

 劇場公開にあたって、本作は製作費を抑えて可能な限り広告宣伝費に資金を回すという特異な戦略が採られている。これが功を奏して、(一部で)話題作となり、一九九六年の第五十回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、第十七回ヨコハマ映画祭の新人監督賞および、出演俳優陣について審査員特別賞を受賞している。

 この賞以後室賀厚は映画関係の受賞から離れてしまうが、本作の俳優陣は後の室賀作品にも長らく出演し、北野軍団のようなキャスティングが続くことになる。特に江原修(現在は江原シュウ名義)はこの後に室賀厚の劇映画二作目となる『THE GROUND 地雷撤去隊』で主演に起用され、以後も多くの室賀作品に重要な役で出演している。

 本作に正式な続編はないが、小沢仁志が自ら監督した『SCORE2』がある。本作との繋がりは一切なく、室賀も関与していないのでほぼ小沢のオリジナル作品である。

 

 総括になるが、やっぱり監督やプロデューサーがやりたいことやってると見ている方も気持ちがいいという感想を持ってしまう。下手なことを考えず、脇道に逸れず、やりたいことをやる、そうした熱意とスタイルをひしひしと感じられるのが『SCORE』だろう。初期の北野映画もそうだが、隠しきれない作り手側の興奮であるとか熱意があると嬉しくなってしまう。別に「お行儀のよさ」は映画に求めていないのだ。むしろ、クリエイターはスクリーンの中で思う存分暴れてほしい。それをやっているのが『SCORE』の室賀厚なのだ。この映画にそうした室賀作品の醍醐味が詰め込まれているだろう。

 同時に、これは時代の映画でもあると思う。八〇年代末からのオリジナルビデオの隆盛、松竹における奥山和由の快進撃、経済面から個々の作家性の面でも勢いのあった映画界……そうしたノスタルジアに浸るわけではないが、一つの時代の映画として、その一端を垣間見ることのできる作品として、少し長めに紹介しておきたい作品だ。

 

おわりに

『SCORE』の視聴方法。一応は松竹系でそれなりにヒットした作品なのでDVDが流通しています。そう多くはないけどレンタルビデオショップにも並んでいるかも。今回はDVDを購入しての視聴。

次回は何も考えてません。そろそろ立て続けに見るの辛くなってきたな。

バックナンバー

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室賀厚作品レビュー企画(第2回):『ザ・ワイルド・ビート 裏切りの鎮魂歌』

前回はこちら

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はじめに

今回は室賀厚監督の『ザ・ワイルド・ビート 裏切りの鎮魂歌』のレビューです。本当は時系列順にやりたいんですけど、『ブローバック』シリーズの後に撮ってる『LONG GOOD-BYE VENUS スウィート・スキャンダル 激射!!ソープランド講座』(1992年)はまだ入手していないので飛ばします。

もうタイトルからし香港ノワールかよ!みたいな感じですが『レザボア・ドッグス』です。室賀作品見てると全人類が『レザボア・ドッグス』見てる前提で世界がつくられてる気がしてくるよ。ジョン・ウーもちゃんとあるよ。

 

ザ・ワイルド・ビート 裏切りの鎮魂歌』

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ザ・ワイルド・ビート 裏切りの鎮魂歌』(1994年)



公開:一九九四年

制作:ジャパンホームビデオ

製作:升水惟雄

脚本:室賀厚 原案:小沢仁志

出演:小沢仁志、ハント敬士、寺島進、山西道広、水上竜士、松山鷹志ほか

 

あらすじ:

 警察に囚われたある男を奪い返すために、ギャングのボス大佐(山西道広)によって、銀行強盗のプロ・バンク(小沢仁志)をはじめとする五人の男が集められた。強奪に成した際の報酬は五十万ドル。強盗を生業としてきた男たちは、互いに不信感を持ちながらも強奪を成功させる。

 しかし、五十万ドルを独り占めしようと、大佐が報酬を持ってやってくるまでの間に、男たちはそれぞれ裏切りを考え始め、そして実行する。次々に銃撃が起こる中、更に男たちの知らぬ別の殺し屋がやってきて男たちに襲い掛かる。しかも奪い返した男ビッグマウス(水上竜士)は、今回の作戦が大佐による策謀であると告白し、男たちは何を信じるべきか混乱に陥っていく。

レビュー:

 ビジュアルもストーリーも基本的にタランティーノの『レザボア・ドッグス』へのオマージュで構成されているので『レザボア・ドッグス』じゃん! と叫んでいいです。でもレザボアのあの黒スーツも、限定的な舞台空間も低予算との戦いの中で生まれたものだし、五百万円で撮られた本作でオマージュするのも理にかなっている気がしないでもない。

 ただしレザボアのように男たちの心理戦をメインにするのではなく、本作のメインはやはりジョン・ウーを参考にしたガンアクションにあって、正直裏切り要素はストーリーを動かす装置でしかない。小沢仁志が殴って蹴って跳んで撃つ! 『ブローバック』シリーズから見せ続けるリアル嗜好のガンエフェクトとアクションの切れ味はここでも発揮される。ただ大きく違うのは、『ブローバック2』では大量の銃器と火薬を使ってバカみたいな火力を画面に映していたのに対して、本作ではせいぜい短機関銃のUZIが強力な火器として登場する程度で、基本的にはベレッタやガバメントといった拳銃でのガンアクションが多い。格闘やナイフといった要素も『ブローバック』シリーズにはあまりなかった要素だ。そう火力を抑えめにしつつも、スタイリッシュなアクションやテンポによってガンアクション演出の切れ味は向上しているように思う。二丁拳銃をはじめとして、大きく横っ飛びしながら銃を撃つアクションや、足元の拳銃を蹴り上げてキャッチするアクションなどは、(結局香港ノワールなんだけど)のちに監督する『SCORE』や『DOG FIGHT』にもほとんどそのまま引き継がれている。

 また、過激なバイオレンス描写も、それまでにはなかったものだ。後半の拷問シーンは、レザボアにおける拷問シーンと同じポジショニングをさせているようだが、静かに暴力を振るうレザボアとは対照的に本作ではスプラッターみたいな暴力描写で思わずびっくりしてしまった。

 スタイリッシュなバイオレンスアクションと、どぎついバイオレンス演出、同じ暴力でもグラデーションのある演出力を本作では見て取ることができ、単純な銃の暴力一辺倒だった前作からの変化と、のちに劇映画やVシネに進出する上でのその下地を感じることができる。

 のちに紹介する室賀監督の代表作『SCORE』は、小沢仁志が当時松竹で活躍していたプロデューサー・奥山和由に本作紹介したところ、奥山が気に入って劇映画化を進めたことで実現した映画だ。基本的な脚本・構成は変わらず、キャストもほとんど変わっていない。その意味で本作は『SCORE』の原型となる作品でもある。

 

おわりに

この前北野武映画オールナイト上映会が新文芸座でやってて「やっぱ北野映画レビューもやりてえよな~」とか考えてたけど、今更北野映画やる意味もない気がするんだよ。やるならピンポイントで『その男、凶暴につき』から『HANA-BI』までだと思う。

次回はたぶん『SCORE』のレビューです。今年もう2、3回見てるんだけどまた見るのか……。

同じ映画何回も見てその回数覚えてるのキモいからみんなはやっちゃダメだよ。

室賀厚作品レビュー企画(第1回):『ブローバック』シリーズ

はじめに

 映画レビューを始めるためにスタートしたような気がするこのブログも、筆者がKINENOTEに移行してしまったがためにすっかりスカスカになってしまった。

 別にこのブログがどうなろうが関係ないが、立ち上げたものは立ち上げたものなりに有効活用したいなと思う今日のころごろ、いつも通り見た映画(厳密に言うとオリジナルビデオ)のレビューをKINENOTEに書こうとしたら作品登録がなかった。なのでこっちにレビューを掲載することにした。掲載することにして、兼ねてから今回見た作品の監督である室賀厚氏の作品を体系的にレビューしたいなと常々考えていたので、シリーズ化することにした。基本的にはKINENOTEに投稿するものと同じだが、KINENOTEだと体系的に映画監督の作品群についてレビューすることが難しいので、このブログを活用する。こうしてこのブログは機能する。機能、機能ってなんだ。

 また、機会あれば同人誌なりそういうハードの形でレビュー本も作れたらなとも思う。なかなかそういうのは難しいが、言っておかないと忘れるので今ここで宣言しておく。

 

室賀厚監督について

 一旦ここで室賀厚監督について紹介だけしておきたい。

 室賀厚氏は1964年大阪生まれ。明治大学の映画サークルで大川俊道に出会い、師事。卒業後はジャパンホームビデオ株式会社に入社し、会社での映像制作に加えて自主製作映画やアニメ脚本の分野で活動していた。1987年に集英社主催のビジネスジャンプ映像大賞で自主制作作品『HELP ME!』がグランプリ受賞。これが契機となってジャパンホームビデオで『ブローバック 真夜中のギャングたち』(1990年)を監督しオリジナルビデオ作品としてデビュー。1995年には当時の松竹で活躍していた奥山和由とともに『SCORE』(1995年)で劇映画デビュー、同作は第50回毎日映画コンクールスポニチグランプリ新人賞、第17回ヨコハマ映画祭の新人監督賞および審査員特別賞を受賞した。以降もオリジナルビデオ作品や劇場公開作品をコンスタントに制作し続けている。

 

 ここから個人的な室賀作品群全体に対する印象。

 90年代の東映Vシネを先駆とするオリジナルビデオ流行時代に、香港ノワールに影響を受けたバイオレンス・アクション作品を得意とした監督…………そう言うとなんか格好よく聞こえるが、悪く言ってしまうと低予算のB級アクション映画ばかり作っていた監督だ。香港ノワールの影響、というよりもオマージュ(完全に意識的に演出しているのでパクリというのは憚られる)が非常に多く、ジョン・ウー男たちの挽歌』シリーズ、クエンティン・タランティーノレザボア・ドッグス』、リュック・ベッソンニキータ』などの名作バイオレンス映画、ほかジョン・フォードの西部劇などからの引用が多々見られる。

 作品として文芸性であるとか社会性であるとかはほとんどなく、基本的にエンターテイメントとしての映画に振り切っている。そのためバイオレンス映画だけではなく漫画作品の実写化やホラー・ゾンビ映画、ヒューマンドラマに起用されることも少なくない。

 また、B級映画の宿命であるが室賀作品の多くは低予算の雰囲気に満ちている。しかし、逆に言うと数多の低予算作品とその監督たちが出現した90年代オリジナルビデオから現在まで現役監督を続けられている、起用されているという点で映画の経済性についてある種のセンスを持っている監督なのかもと勝手に推測している。

 

 何か鋭い切れ味である大傑作であるとか、質量のある超大作を作る監督ではない。映画に関する受賞も『SCORE』を除いてほとんどない。マジでなんでこの監督の作品に惹かれるかわからないが、今書いたようにこのブログの筆者はマジで室賀厚作品が好きだったりする。今一度、室賀厚作品の魅力を解体していきたい。

 

企画についての備忘録と注意事項

本企画を執筆していくにあたって、いくつかメモを残す。

・レビュー対象作品は「監督:室賀厚」とクレジットされている作品に限定する。それ以外の形で制作に関与している作品は、レビュー中で言及する場合はあるが作品単体としてはレビューしない。

・基本的に未視聴の読者を想定しているが、ネタバレや物語の核心に触れる記述を避けることはしない。室賀作品を紹介する目的もあるが、作品群の体系的なレビューを主たる目的とするため、必要な場合はストーリーを詳述することがある。

・主にネットで情報収集しているため、情報の確実性は担保できない。可能な限り正確な情報の記載に努めるが、噂や推測の域を出ないものもある。その場合はそのことを明記する。

 

『ブローバック 真夜中のギャングたち』

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『ブローバック 真夜中のギャングたち』1990年


公開:一九九〇年

制作:ジャパンホームビデオ

製作:升水惟雄

脚本:石山真弓、伊藤理生

出演:竹内力柳沢慎吾、相田寿美緒、竹中直人、ほか

 

あらすじ:

 強盗を生業とするジョー(竹内力)とパク(柳沢慎吾)は、違法カジノの売上に目を付け、ある夜強盗を実行する。強盗は成功し二人は大金を手にするが、ジョーは強奪した金品の中に謎のフィルムが混在していること発見する。そのフィルムはカジノを運営する裏組織が進める巨大な偽札ビジネスの重要資料だった。ジョーとパクは二人の恋人であるレイ(相田寿美緒)を連れて街を脱出しようとするが……。

 

レビュー:

 室賀厚の監督デビュー作。デビュー作からジョン・ウーのパクリをしちゃいかんのよ。

六十分程度の作品だが、最後二十分がほぼすべて銃撃戦のためこれがやりたかったんだろうなというのがひしひしと伝わる。最初に述べておくと、この「撮りたい」という意志を画面から感じられるのが室賀作品の醍醐味だろう。

 日本語と英語が不自然に飛び交う国籍不明の街であるとか、廃工場での熾烈な銃撃戦とか、上述したジョン・ウーをはじめとするアクション映画へのオマージュの多用、気取ったセリフ回しなど、のちの多くの室賀作品に共通する世界観やスタイルが既にちらちらと見られる。

 ストーリーはあってないようなもので、役者の演技も忍耐を強いられるレベルだが、徐々に慣れるので問題ではない。アテレコの巧拙だとか、英語の発音を気にするヤツは室賀作品見ないだろ。柳沢慎吾柳沢慎吾だし、当時二十六歳の竹内力も既にオーラがある。ヒロイン役の相田寿美緒は、八十年代から九十年代初頭に掛けて活動していたモデル・女優で、カネボウのCMのほか映画やドラマにも出演していた。九三年にプロ野球選手の荒木大輔と結婚して引退している。他にも脇役で竹中直人が出演しているが、一人だけ演技力が違うために逆に違和感がある。

 前述した通り作品の三割が銃撃戦に費やされる。ギャングにしては過剰すぎるほどの重火器たちが一斉に吠える! 全然当たらない! 当たっても何発食らおうが死なない男たち! どういう感情で見ればいいのかよくわからない!

 それは置いておいて、ガンエフェクトや流血の表現は『クライム・ハンター』シリーズから始まるリアル路線を踏襲している。銃弾の貫通であるとか排莢のシーンをこれでもかと映す。あれ撮るの面白いんだろうな。『クライム・ハンター』(一九八九年)は室賀の師にあたる大川俊道柏原寛司が監督と脚本を担っており、三人は後に映画制作会社KOMを設立することになる。ここらへん九十年代におけるオリジナルビデオ/ガンアクション・エフェクトの歴史を感じられて良い(竹内力も『クライム・ハンター』出てたしね)。でも最後にバズーカ持ち出すのはどうやってもコントだろ。

 作品として何か光るものがあるわけではないのだが、今でも活躍する俳優たちの若かりし頃であるとか、九十年代ガンアクションの歴史、室賀作品の原型など(オタク的な視点ではあるのだが)を覗ける点で、見てみることに少しばかりは意義があるかもしれない。俺は好きです。

 

『ブローバック2 夕陽のギャングたち』

 

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『ブローバック2 夕陽のギャングたち』(1991年)

公開:一九九一年、(オリジナルビデオ)

制作:ジャパンホームビデオ、松下プロ

製作:升水惟雄、松下順一

脚本:大川俊道

出演:竹内力、吉田美江、菅田俊、ハント敬士、

マイク・モンティ、松山鷹志、ほか

 

あらすじ:

 前作で五十万ドルを強奪してギャングの追跡を振り切ったジョー(竹内力)とパク(松山鷹志)はフィリピンにいた。マニラを目指して悪路を車で進む中、突然武装したゲリラに襲撃され、パクは射殺、ジョーも重傷を負わされる。ジョーはマニラでパクの過去の恋人がいるという店に逃げ込むが、既に店は変わってレイ名乗る女性(吉田美江)とが経営していた。ジョーはレイに一命を助けられると、武装ゲリラへの復讐のために、レイを半ば無理矢理連れて追跡を開始する。途中警察によって窮地に陥っていたところ、元犯罪捜査官で現在は賞金稼ぎを稼業とするラッツ(菅田俊)に助けられ、同じく武装ゲリラを追う目的を共有することからジョーは協力を持ち掛けられる。

 

レビュー:

 何故か潤沢な予算を手に入れた室賀監督が撮影したのはシリーズ作でありながらキャストも世界観もすべて破壊する一大スペクタクル戦争映画だった。この頃のオリジナルビデオって結構予算あるよね。

 前作で五十万ドルを奪ったところは繋げているが、主人公の相棒パクは前作の柳沢慎吾から松山鷹志に変更した上で開幕に射殺し、前作ヒロインは完全に主人公の記憶から消し去られ、その名前だけを引き継いだ新ヒロインがそのポジションを上書きしてしまったようだ。こういう無茶苦茶な設定の上書き、香港映画っぽい。

 しかし作品のクオリティは底上げされており、前作ではあるんだかないんだかわからなかったストーリーも、脚本家に室賀の先輩であり師である大川俊道を迎え入れたことでコンパクトながら起伏のある物語にまとまっている。俳優たちの演技の面でも前作ではあまり見どころのなかった菅田俊をメインに持って来て渋い男を演じさせ、交代したヒロインの吉田美江は前作の相田寿美緒と同じくモデル出身ながらしっかりとキャラのある演技を見せてくれる(なんかハードルが下がっている気はするが)。

 ただそれ以上に、室賀監督が撮りたかったのは「戦争映画」というジャンルだろう。前作ではジョン・ウーのような香港ノワールを目指していたのが、本作では『地獄の黙示録』のようなベトナム戦争映画を目指しているようだ。東南アジアの奥地で白人の軍人が武装したコミュニティ作ってたらそれは『闇の奥』なんだよ。

しかも、『地獄の黙示録』と同じく本作はフィリピンで撮影されている。フィリピンは後の室賀作品でも結構な頻度で出てくるほど、室賀監督のお気に入りのロケ地のようだ。海外ロケと聞くと多額の資金が必要のように思えるが、日本で人件費の掛かるキャストやスタッフを用意するよりも、現地でスタッフやエキストラを日雇いのように用意する方がコストを低く抑えることができる。戦争アクションのような大規模で危険な撮影をする場合にも日本よりフィリピンの方が、その自由度が高いというメリットがある。また、室賀作品に見られる無国籍な世界観も、アメリカとアジア双方の色彩を併せ持つフィリピンという空間がマッチしている。

こうしたフィリピンロケのメリットは後に『SCORE』や『GUN CRAZY』にも生かされることになるがそれはまた別のお話。

 そんなこんなで、本作は「戦争映画」を目指しているわけだが、「戦争映画」とは火力のために撮られる劇でもある。少なくともこのフィリピンではそうなのだ。

大量のフィリピン人エキストラが三十万発ライフルを撃ち(どうやって数えたんだ? しかも一切当たらん)、ダイナマイトが爆発し、ヘリが飛んでバズーカを撃つ!(機内でバズーカを撃つな!)挙句の果てにミニガンを抱えた竹内力武装ゲリラを一掃する。なんだこれは。

 劇としてまとまりがよくなったのかと思ったら帳尻を合わせるように火薬とアクションが出鱈目なインフレを見せて、やりたいことやっているようで、俺は好きです。

 

おわりに

 いかがでしたかもクソもねえが、ちゃんと〆よう。

 『ブローバック』シリーズは1においてジョン・ウーへのリスペクト、2ではフィリピンロケと、のちの室賀作品群に繋がる作品の色彩や方法論が既に確立?されていることが伺える(もちろんフィリピンロケがマカロニウエスタンみたいに当時のオリジナルビデオ業界では一般的なものだったのかもしれないが)。

 また、東映Vシネの登場とともに盛り上がりを見せ始めたオリジナルビデオ時代の雰囲気や、今も広く人気を誇る竹内力竹中直人柳沢慎吾など多くの俳優・タレントの若かりし頃を見られるのも、ノスタルジックな見方ではあるのだが一つ面白いところだろう。

 個人的な反省。大川俊道柏原寛司との繋がりが深いってことは『太陽にほえろ!』とか『西部警察』、『あぶない刑事』なんかのテレビドラマの影響も大きそうなんだよな。履修しておく必要があるかもしれない。あとあんまりジョン・フォードとかの西部劇も観ていないのでカバーしておきたい。

 最後に、『ブローバック』シリーズの視聴方法についてだが、手っ取り早いのはGYAO!でレンタルすることだろう。値段も110円とやたらと安い。DVDは廃盤で、ネット上ではわずかにVHSの流通を見つけることができたのみである。もし中古DVD見つけたら連絡ください。よろしくお願いします。

全体について考えている

はじめに

先日、1年間くらいちびちび書いてたユーゴスラヴィア魔法少女小説の長編が書き終わった。書き終わると大抵半日から2日間「もう書きたくねえ〜〜〜」と嘆いてから「なんか仕掛かってないと気持ちわりい〜〜〜」となって次の作品を書く羽目になる。なので今また新しい話を書こうとしている。

 

何か書くときはとりあえず曖昧でもいいのでテーマ性を考えるようにしている。

なので、今回はそうした創作をする上でのテーマ性について、筆者の思考の整理のための文章となる。この記事の目的はここで宣言されています。

 

書き終わった小説は、とりあえずは個別性みたいなものをテーマにしていたと思う。より詳しく言えば「全体に対する個別」だったのだが、まだ構成校閲も終わってない、完成してない作品についてとやかく言うのは良くないのでここでこの話は終了する。

ただし、安易なアイデアではあるのだが、今度はテーマを反転させてみて、全体性について書いてみたいなと思った。なので、全体性について、今までに触れた作品を介しながら思考を整理していきたい。

 

『天気の子』とファシズム

ファシズムだとかいう語を使うと定義は何だ云々言われるのであまり使いたくない。ここではこの語について厳密な定義はしないが、とりあえずは

特定の社会全体の利益を中心として、社会に所属する個々人の自由が制限されるシステムやそれを希求する思想

程度には考えてもらえればいいと思う。

 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 

 

全体性について考える契機となったのは新海誠監督の『天気の子』(2019年公開)を見て若干キレかかったことからだ。なぜキレたのか? オタクを拗らせた独身男性サラリーマンが劇場でカップルたちの囁くような会話が聞こえ続ける空間に一人置き去りにされたからか? そうではなく、このアニメ映画に極めてファシズムに近い何かを感じたからだ。

 

もう公開から1年経ってるので、読者もある程度作品について知っているだろうと勝手に前提してネタバレもやっていく。今更1年前の作品についてうだうだ語るオタク男性の言論を文字通りご笑覧しろ。

 

『天気の子』は田舎を飛び出しで東京にやってきた家出少年と天候を操作できる不思議な力を持つ少女の邂逅から始まるボーイミーツガールなセカイ系に属するアニメ映画だ。セカイ系ということで「ぼくと彼女」の関係性が「世界の破滅」と密接というか直接関わってくる。詳細は割愛するが主人公は彼女を救うか世界を救うかの二択を選ばされて、悩んだ挙句前者を選択する。故に世界(ここでは東京)は破滅的なエンディングを迎えつつも、彼女との再会を果たした主人公は「大丈夫だ」と宣言して「ぼくと彼女」の関係性はハッピーエンドを迎える。

 

何が「大丈夫」なんだーーーーーーッ!!!?!!?!!!?!

 

俺もう許せなくって…………

 

Take it easy...

セカイ系の特徴として、「ぼくと彼女」と世界の運命が直接結びつき、本来であればその間に分厚く介在するであろう大人たちの社会が捨象されているということが挙げられる。例えば少年少女の両親や家庭が描かれないことや、警察などの行政があたかも存在しなかったり影の薄いものとして物事が語られたりする。

本作でもその色は強い、むしろ意識的でさえある。未成年しか存在しない食卓、信頼ならない警察や児相、不安定な擬似家族……とりあえず、作品の性格として大人たちの社会は信頼されていない(大人たちが不在で貧しくても楽しく暮らしていける、みたいなネオリベラリストが考えそうなその「楽しい貧困」の描写はなんなんだよ)。

今までセカイ系(イリヤとか)だとそれなりに大人たちも葛藤していて、ただ大人たちには世界を変える力はなくて、最終的にはカタストロフの中に飲み込まれてしまうと中立的なポジショニングだったが、本作だとなんだか社会というシステムが悪だと敵意を向けられている。警察も児童相談所も敵であって、追いかけてくる大人たちから逃げなくてはいけない。そこまで社会を忌避する姿は少し唐突すぎる。既存の社会がそこまで嫌いなのか? それと、社会は主人公たちに非常に無関心だ。世界の秘密について知っているのは主人公とヒロインだけで、東京に住む一般的な市民たちはそんなこと知らず、ヒロインの犠牲に無邪気に喜ぶ。

そして、だからこそ主人公は世界=全体ではなく彼女を選択すると、そういう構図に見えてしまう。絶対的なヒロインというよりも、社会から離脱していくように。特徴的なことに、主人公の方向性は非常に内向的で、無理解を感じておきながら外に理解を求めることがほとんどない。

 

これは極めて個人的なジャストアイデアに過ぎないのだが、「ぼくと彼女」、あるいは「ぼく」について突き詰めていくと、究極点において反転が起きて「ぼく」という小さな問題が「全体」の問題と置き換えられてしまう、反転してしまうと考えている。

具体的な例として、「自分とは何か」について悩んだ若者たちが最終的にはハルマゲドンという「全体」の終わりと再生を夢見たオウム真理教であるとか、決定的な敗戦と国家の破滅を経験してナショナリティを損なわれたドイツ国民が自身の誇りを追い求めて第三帝国やら生存圏という野望に到達したナチズムがあると思う。

己とは何か、のような素朴で小さな疑問が一気に世界の話と接続したとき、唐突にその世界観は世界に対して暴力的になる。

 

(現代日本に跋扈するネット右翼も、ある意味そうした個の問題から全体への飛躍なのではないかと思ってる。多感な思春期にネット右翼になる者はなんとなくわかるし、会社員という身分"だけ"の自分や引退して何者であるのかよくわからなくなった中高年だとか、そうした自己の問題が単純明快に「国家」という全体に直結してしまうのではないか。一方でこういう曖昧なアイデンティティだけをキーとしてこの問題について語るのは、上述したナチズムも含めて危険ではあると思うのでアイデアレベルだとここでは逃げの姿勢を取っておく)

 

オウム真理教もナチズムも単純に社会を捨象したわけではなく、むしろ既存社会への敵意を剥き出しにして、地下鉄にサリンを散布したり、ツィクロンBをシャワー室に散布して社会の浄化を目指す。驚くべきことにサリンナチスの発明であったりする。

『天気の子』における主人公の選択がそれらとまったく同じかと言えば大いに異なるものだろうと批判は全然できるが、どこか似た匂いを感じ取ってしまう。

地下鉄サリン事件も、ホロコーストも、一つの絶対悪として捉えられるべき事件であるが、そこに至った動機については必ずしも完璧な悪意が存在したわけではないし、むしろそこには純朴な世界観が信仰や信条として存在していたはずだ。その純朴さ、素朴さこそが暴力への近道だ。リンチして総括を促せば真なる共産主義者として再覚醒可能だと考えた森恒夫を例に出したりしたいが、めんどくさいのでやめておく。

 

兎にも角にも、誰も振り向いてくれない群衆の中を走り、銃口を向けてくる大人たちに敵意と銃口を向けて、「ぼくと彼女」を選択する『天気の子』のその純朴さに、筆者はとんでもない暴力性を感じた。(そもそもとして、トロッコ問題みたいな不条理な問いを主人公にぶつけてる作り手と観客こそ最も暴力的なのでは? という問いについては余力があったら別に記述する。)

 

ファシズムは、その素朴さゆえに「全体のためを思って」という形を取るが、同時に日本とドイツがそうなったように「全体がめちゃくちゃに破壊されても構わない」という素朴な狂信でもある。

主人公の選択は文字通り全体がどうなっても構わないというものだった。その選択はしかも葛藤のない疾走で、さらに、破滅の後に主人公が苛まされる姿はほとんどないし、大人たちは「世界なんか昔から狂っていた」「以前の姿に戻っただけ」だとそう開き直りを主人公に伝えて慰める。そうして、世界を終わらせた責任を主人公は取らないまま、願いの通りにヒロインと再会して「ぼくたちは大丈夫だ」と宣言する。

世界を大変な目に遭わせておいて、「あれは仕方なかった」とか「実はあの行為は正しかった」などと開き直る構図はどこかの国でも見たことあるよなあ?! 自己の責任に対する修正主義的なその姿勢を肯定する術を筆者は知らない。

 

「『天気の子』の主人公が破滅に対して無責任である」という批判に対して「そんな責任を負わされたらそれこそ自由でなくなってしまう。これは自由の話だ」と昔どこかで反駁されたことがある。あやふやな記憶だけど。

全体の帰結に対する責任の要求は決して抑圧やファシズムではない。むしろファシズムこそ全体に対して無責任で、デモクラティックな体制下におけるあなたの選択には少なくない責任が付随する(だから全体はあなたの選択に回答する責任が生じる)。その責任を抑圧と呼ぶのは戦後民主主義に対する挑戦だぞ。オラッ

 

 

 

…………………くそが、

 

 

何が「大丈夫」なんだーーーーーーッ!!!?!!?!!!?!

 

全体に対する素朴で無責任な態度はファシストのそれだぞ!!!!!!!!

 

責任=戦後民主主義から逃げるな!!!!!!!!!!!!

 

観客も無責任と無関心を肯定してんじゃねーよ!!!!!!!!!!!!

 

お前が!!!!!!

 

お前らが!!!!!!!

 

ファシストだッ!!!!!!!!!!!!

 

 

これは完全に個人の偏見ですが、新海誠、日本が戦争状態に突入した際にめちゃくちゃ素朴な戦意高揚アニメとか作りそう。上述した物語の暴力性に加えて、あの神道に対するスピリチュアルな感性が特にそれを予感させる。

 

せかいをとりかえしておくれ、ベイベー

答えを見つけたい。ここでいう答えとは全体を如何に考えるべきかということ。

『天気の子』を観てからずうっともやもやし続けていて、それはつまり『天気の子』の素朴な個から全体への反転と選択に対する無責任さに対してどう抵抗していけばいいのかと勝手な問題意識を立てていた。そんなにまじめに考えたたわけではないが。

 

普遍的で唯一無二の「君」

昨年末あたりから聴き始めたポエトリーラップが一つ、回答を導き出すためのきっかけとなった。具体的な作品としては春ねむりのアルバム『春と修羅』だった。

春と修羅※通常盤(CD)

春と修羅※通常盤(CD)

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2018/04/11
  • メディア: CD
 

 

春ねむりの紡ぐリリックも非常に素朴かつ、全体と個別という二元性が根底に存在しているように聞こえる。特にトラック「せかいをとりかえしておくれ」は名前からわかる通り世界についての素朴な叫びを歌ってみせる。

目を引いた?(耳に残った?)のは「世界=全体」に対する「ぼくと君」の存在の有り様だ。春ねむりの歌う「君」は間違いなく「ぼく」にとってかけがえのない唯一無二の存在なのだが、それは特定の「君」ではない。性別や国籍、名前によって特別化される誰かではなく、言ってしまえば誰でもある普遍的な「君」について歌い、そして同時に「せかいをとりかえしておくれ、ベイベー!」と叫ぶ。

最初に聞いたときは「ぼく」「君」「世界」のそれぞれの対立構造かと思っていたのだが、それと同時に「ぼく」と「全体」の関係性があるように聴こえてきた。

この曲のpvがまさしくそのことを特に表していて、それぞれ関係性のない人々の顔つきが連続して映される。何か共通項をもった人々ではなく、今そこにいる君が歌の世界で語られる君なのだと、少なくとも筆者はそう解釈した。

 


春ねむり「せかいをとりかえしておくれ」Music Video

 

この関係性は次のアルバム『LOVETHEISM』に収録されている「愛よりたしかなものなんてない」でより色濃く出現する。

サビの歌詞「everything is my world, everything is your world!」がその好例で、もう僕も君も世界も一体化して、一つの有機的な全体を形成している。PVもそうした視点で見てほしい。

あと、重要なのはセカイ系では世界を救うのは彼女の犠牲であったのが、春ねむりの世界では「ぼく」が犠牲になろうとする傾向が強い。アルバム『アトム・ハート・マザー』収録の「いのちになって」『LOVETHEISM』の「海になって」、『春と修羅』表題作、などは、それまでセカイ系だったらヒロインが背負っていた概念化を自己が選択する展開になっている。

 

全体についての思考の射程と自己犠牲の精神が、『春と修羅』の元ネタだからそうなのだが、宮沢賢治の思想が非常に強い。『グスコーブドリの伝記』。あと谷川俊太郎の『二十億年の孤独』。

 

LOVETHEISM

LOVETHEISM

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: CD
 

 

アトム・ハート・マザー

アトム・ハート・マザー

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2017/06/07
  • メディア: CD
 

 

 全体について考える

こういう構成を音楽として聴いたとき、「まず個別の有機的な集合体としての全体について考えよう」というのが思考の到達点であり、スタート地点になった。

個別の「ぼく」や「ぼくと君」についてひたすら考える、もしくは個別について考えてから全体を考えようとすると、問題が反転して素朴で暴力的な全体観に到達してしまう。それは回避したい。

しかしこの「個別の集合体」としての全体は思考する上でうまく機能しなさそうだった。それは結局、大量の「ぼく/わたし」を希釈してソリッドではなくむしろリキッドな全体として認識しているに過ぎない。ここでいう「ぼく/わたし」は目に見えない何かで、結局のところ暴力的な全体への志向に繋がるように思えた。例えると、「腐敗した政治への反逆行為によって政府は確かに転覆されるかもしれないが、それによってそれぞれ生活している人々の生が破壊されるので反逆行為は容認できない」というようなロジックだ。これはこれで、緩やかな自死を全体に強要している気がする。

もっと実体的な全体を考える必要がある。

全体は曖昧で輪郭のない雲や霧みたいな存在ではなく、確かに輪郭は見えないが今そこに確認しうる森や海のような実体的でエコロジカルな存在だと認めることが重要なのえはないかと思う。

春ねむり作品における「世界」はおおよそ「宇宙」のイメージで語られる。青く光る宇宙から地球上で呼吸をしている君までそのすべてが宇宙であり世界だ。言うまでもなく、森や海以上にエコロジカルな世界だ。セカイ系作品におけるどこかその存在自体が曖昧な「世界」と違って、「宇宙」は厳然としてそこにあるし、何よりも「ぼくと君」も宇宙という全体の一部だ。一部だから、コミュニケーションが可能だったりする。

この実体性と双方向性がキーになる。「ぼく」は「君」や「世界」のために犠牲を選択できる主体性を持ちつつ、つまり「ぼく」という存在に根ざしたまま他者とのコミュニケーションに身を投じていく。宇宙も音と光を発してメッセージ問い掛けたり、愛を伝えてきたりする。

全体と個別のインタラクティブな関係性。それはつまり現実にはめ込むとデモクラティックな政治体制に繋がる。個人の選択が全体に帰結し、全体はその選択に責任を持って回答して帰結する。この繰り返し。理想的でイデアのようなそれであることは重々承知しているが、イデアを描けるフィクションであるからこそこのインタラクティブな「ぼく」「君」「世界」の関係性、三位一体について表現していくべきなのでは?

だから、もっと会話していくべきだと思った。全体とコミュニケーションするためにはメディアが必要で、そのために社会は存在している。「社会ともっと会話しろ!!!!!!」というと陳腐に聞こえるかもしれないが、社会には様々な叫びがあってそれは全体の在り様の表象であるから、耳を傾けるべきなのだ。「世界は昔から狂ってるかもしれない」が、狂っているなら狂っている世界に対して応答するべきだ。開き直って、破滅的な選択をして、責任を回避するのではなく、社会を介しながら世界と対話し、自己の責任を遂行していくべきだ。それは難しい態度で息が詰まるかもしれないが、ファシズム体制下で窒息しないためには呼吸するための努力が必要になる。

これも一つのジャストアイデア。個別の物語から全体の物語への飛躍は危険な暴力性を秘める話をしたが、全体から個別への収斂はその逆を取るかもしれない。それは世界の為に何ができるかとか、そういう犠牲と貢献の話ではなくて、世界と断絶せずに世界と自己のとの対話の中で自己の形を見つけていくという双方向性だ。

「この部屋だけがぼくらの本当の世界だ」そう言えたのならよかったのかもしれないが、世界の在り様はそうではないし、そんなことはありえない。「ぼく」は無数の他者とのインタラクティブなコミュニケーションの中で決定していくものだろう。

おわりに

この記事は自己啓発のために書いているのではない。筆者の創作のための文章だ。

社会的なアクチュアリティのためにあれこれ考えているわけではない。

ただひとつ、創作行為も一つのコミュニケーションなんだよなあと再確認したりしている。己の考えたこと、己の思ったことを、文章やイラストの中で表現していくこと。非常に個人的な行為だと今まで考えてきたが、そうでなくて、もっと他者的なものと考えてよいのかもしれない。

その意味で、メタ的ではあるのだが、全体について色々考えたことを創作にしてみてえなと徒然思った。

#俺が死んだら四九日迄の間一日一作ずつ絶対に視聴してほしい映画四十九作品シリーズ

勢いで入れたので順不同でいいです。

 

1日目:北野武その男、凶暴につき

 

2日目:クストリッツァ『ジプシーのとき』

 

3日目:パラジャーノフざくろの色』

 

4日目:深作欣二県警対組織暴力

 

5日目:北野武『BROTHER』

 

6日目:ゲルマン『フルスタリョフ、車を!』

 

7日目:メイレレスシティ・オブ・ゴッド

 

8日目:ポン・ジュノ殺人の追憶

 

9日目:岡本喜八『日本のいちばん長い日』

 

10日目:北野武あの夏、いちばん静かな海

 

11日目:ライト『ベイビー・ドライバー

 

12日目:レフン『ドライヴ』

 

13日目:ラムジービューティフル・デイ

 

14日目:崔洋一『犬、走る』

 

15日目:クストリッツァ『パパは出張中!』

 

16日目:柳町光男『十九歳の地図』

 

17日目:サラフィアンバニシング・ポイント

 

18日目:ホドロフスキー『エル・トポ』

 

19日目:塚本晋也『野火』

 

20日目:カネフスキー『動くな、死ね、甦れ!』

 

21日目:深作欣二仁義なき戦い

 

21日目:深作欣二仁義なき戦い 広島死闘編』

 

22日目:深作欣二仁義なき戦い 代理戦争』

 

23日目:深作欣二仁義なき戦い 頂上作戦』

 

24日目:深作欣二仁義なき戦い 完結編』

 

25日目:ランズマン『SHOAH』

 

26日目:チアン・ウェンさらば復讐の狼たちよ

 

27日目:オッペンハイマーアクト・オブ・キリング

 

28日目:イヴァン・イキッチ『バーバリアンズ』

 

29日目:チャン・ジュナン『1987、ある闘いの真実』

 

30日目:ドラゴエヴィチ『ボスニア

 

31日目:石井隆『GONIN』

 

32日目:オリヴェイラ『階段通りの人々』

 

33日目:佐藤純彌『私設銀座警察』

 

34日目:ジャッキー・チェン『プロジェクトA』

 

35日目:スコセッシ『グッドフェローズ

 

36日目:塚本晋也『鉄男』

 

37日目:塚本晋也『鉄男2』

 

38日目:北野武『キッズリターン』

 

39日目:和田誠麻雀放浪記

 

40日目:クストリッツァ『白猫・黒猫』

 

41日目:岡本喜八『激動の昭和史 沖縄決戦』

 

42日目:ジュバニッチ『サラエボの花

 

43日目:ゲルマン『神々のたそがれ』

 

44日目:ジガ・ヴェルトフ『カメラを持った男』

 

45日目:タル・ベーラニーチェの馬

 

46日目:ヘルツォーク『小人の饗宴』

 

47日目:原一男ゆきゆきて、神軍

 

48日目:北野武ソナチネ

 

49日目:クストリッツァアンダーグラウンド

ノイズ、シューゲイザー、低体温。

いつも映画のことばかり書いているので今回は別のことを書きたいと思った。いつも、なんて言うほどブログを更新しているわけではないけれど、そう思う自由と権利を筆者は保有しているはずだ。

それと、そんなに映画も観ているわけではないので、話のネタを広げておくためにも別の引き出しを用意することが重要だと思考する。ブログを書くために趣味やるのだけはやめろ。なんか腹立ってきたな。

この記事の目的は上記のように映画以外にも継続的にテーマとして書けるものを用意すること、加えて映画以外について書くという行為について慣れておくこととしたい。したいが、以下の目的もある。本題に入るのが遅れるがお付き合い願いたい。

筆者がクソ天邪鬼のせいで普段あまり好きなことについて語ることが少ないのでその矯正も目的に含める。バカなのか?けれども、好きなことについて語るというのは非常に難しくて、安易な賞賛はチープさから皮肉に読めることさえあるので、慎重になりたい、そういうことには慎重でありたいんだよ。お前は「母さん父さんじいちゃんばあちやん俺を育ててくれた家族のみんなそしてお前にありがとうyeah」なんて言葉に感動するのか?それはともかく家族と地元は大事にしろよ。大学出るまでに大体養育費3000万円くらい掛かるからな。

嫌いなものを語る言葉は何万遍と用意できるが、好きなものを語る言葉はそう多く用意できない。枕草子の「をかし」って意味込められすぎだろ。エスキモーが雪を幾百もの語彙から表現するように、(筆者は)嫌いなものについては幾らでも表現することができるが、好きなものについてはそうでない。最近そのことをよく痛感する。

なので、好きなものについて語ることにしたかった。それで筆者が何か得するのかどうかはよくわからなかった。

前置きが長くなった。とりあえず筆者の趣味の一つであるっぽい音楽について好きを書いていきたい。

趣味というのはなんかしっくりこない。

音楽を聴く、という行為そのものはあまりしない。どちらかという生活の中で聴き流してる方が遥かに多い。びっくりしたんですが一人でいるときにイヤホン付けなくて大丈夫な人って結構いるんですね。筆者は基本的に私的な時間はイヤホン付けてないとダメになる人間です。耳元から音楽が流れていないと不安定になる。いや病気じゃないが、病気なのか?はっきりしない曖昧な映像。

というわけで筆者は私的な時間以外、基本的に音楽を聴き続

 

随時おすすめのバンド・アルバムを紹介していきます。

 

死んだ僕の彼女『hades(the nine stages of change at the deceased remains』(2015年、n_ingen RECORD)

 「hades 死んだ僕の彼女」の画像検索結果

音楽の感想の書き方全然わかんねえ。

 

2,3年前から国内シューゲイザーにはまって、その時ちょうど始めた音楽配信サービスで見つけたバンドだった。それまではcoaltar of the deepersやきのこ帝国といったメジャーバンドを、または教養としてmy bloody valentineを聴く程度の認識だったシューゲイザーだけれど、このバンドで一気に加速したと勝手に記憶してる。

 

ノイジーなギターに浮遊感のある男女ツインボーカルを基調とするバントで、ジャンル的には先述した通りシューゲイザー、ドリームポップ(だと思う、音楽ジャンルの定義よくわかんねえ)。

 

特に好きなのはバンドのテーマ性で、今回挙げているアルバム他作品にも色濃く反映されているそれは「死」や「喪失感」だ。アルバムタイトルの"the nine stages of change at the deceased remains"が意味しているのは死体の変遷を無常観から描く九相図のことだそうです。

ある種、安易なクソサブカルが好みそうなテーマではあるけれど、少なくともこのアルバムにおけるテーマの一貫性には浅薄さを感じない。どろっとした血の池を白いサンダルでスキップするような感覚にやみつきになる。デカダンとポップの融合、確かに「サブカル」のそれではあるがサブカルチャーであることの醍醐味を十分に発揮していると思う。

筆者が特に気に入っているのは「彼女が暑くて腐ったら」と「吐く息(the last stage oh change at the deceased remain)」の2曲。前者は軽快ながらどこか鈍さを残すメロディに明るい男女ボーカルが彼女の死体その腐敗と喪失を歌う。ラストに駆け抜ける矛盾する喪失感が本当に良い。後者はそれまであったポップさを抜いて、冬の夜みたいな低体温のままひたすらに虚無を歌う。とんでもないエモーショナル。これも後半から高まってくるノイズが一層に低体温を引き立てる。ノイズの中に溶けそうな澄んだ旋律とボーカルをマジで感じてくれ。九相図の終焉に相応しい一曲と言える。

 

"死んだ僕の彼女"はこのアルバムのほかにもいくつかの作品を発表しており、imusicに加入している人ならだいたい聴けるはずだ(2012年のミニアルバム『underdrawing for three forms of unhappiness at the state of existence』はimusicに入ってないけどitunesで買えるから買ってください)。2017年に一度活動を休止したみたいだけど2019年現在はライブ活動やってるっぽいですね(公式HP、Twitterで確認してください)。フロントマンのishikawa氏が企画している"死んだ僕の石川"名義でリリースされているアルバム『幸せの谷の死体』(2016年)もあります。こちらは死んだ僕の彼女のメンバーにゲストを加えたアンソロジー形式の作品。

 

手軽に手に入る・聴くことができるのは下記の作品だと思うのでまとめておきます。

2songs + Cassette Tape E.P / 6songs From The Happy Valley,2007年

https://img.discogs.com/en-tzXWi2nGJPQyeQLa7ivbkCgg=/fit-in/300x300/filters:strip_icc():format(jpeg):mode_rgb():quality(40)/discogs-images/R-3479859-1332035300.jpeg.jpg

 

ixtab, 2010年

f:id:J_Makino:20190309105001p:plain

 

underdrawing for three forms of unhappiness at the state of existence, 2012年

f:id:J_Makino:20190309105237p:plain

 

 

幸せの谷の死体,2016年(※"死んだ僕の石川"名義)https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51zHRIfkQVL._SY355_.jpg

 

レーベルはすべてn_ingen record。

 

とりあえず一回聴いてみてください。

youtu.be

 

なんか後半布教色が強かったな。

極めて個人的な映画関連メモ⑥

まえがき

 昨年あたりから映画のDVD・BD、いわゆる円盤を買うようになった。

 

 それまでは余程「面白い!」と感じない限り円盤を買うようなことはなかったのだけれど、ふと「そんなにコストかからなくね?」と気づいたのでそうすることにした。発売直後のBDやプレミア付きのものはやっぱり高価だけれど、公開・発売からそれなりに時間が経っている作品は新品でもそこまでお高くないし、なんならレンタル落ちとか格安でネットショッピング・オークションに落ちている。

 そういうわけで、最近は「これ面白かったな」と感じたヤツでネットで割と安く買える作品は積極的にDVDを購入するようになった。

  この流れの中で購入したのがE・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』で、今回の記事は本作品と同じくクストリッツァの『アンダーグラウンド』との比較を交えながら感想をだらだら書いていきたい。

 

 ちなみに『パパは出張中!』のDVDはプレミア付きで若干高かった。レンタル落ち品で8,000円くらい。高騰する前に買え!!!!!

 

 ふと、円盤をあまり積極的に購入してこなかったのはメディアがいつか利用不可能になること、永久に保存できるものではないことを(我々の世代は)経験しているからかなと思った。小学生の頃、実家の本棚や収納ボックスの中に大量に入っていたVHSはどこにいったのだろう?実家の自室にはまだアジカンやオアシスのアルバムを焼いたMDが結構残っている。メディアは永遠でなくて、いつか買い溜めた円盤を視聴する手段も失われてしまう、そのことを我々は知っている。

 

 『パパは出張中!』/『アンダーグラウンド』比較—政治と家族、記憶化するユーゴスラヴィア

 ※ここからエミール・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』と『アンダーグラウンド』についてネタバレを含んだ記述がありますが俺はネタバレするな云々とかそういうの大嫌いなんだ。ネタバレでつまらなくなる作品は最初からつまんねえんだよ。"漢"なら作品全体の構成とワンカットワンフレームその一瞬に魂<お前>を燃やせ。

 

E・クストリッツァ『パパは出張中!』(1985年)パパは、出張中!

E・クストリッツァダーグラウンド』(1995年)

アンダーグラウンド

 『パパは出張中!』の感想として『アンダーグラウンド』も取り上げたのは両者には切っても切れない相関関係があると筆者が勝手に考えているからだ。だが、まずは『パパは出張中!』単体について紹介していきたい。

 

 舞台は1950年代初頭ユーゴスラヴィアサラエヴォ。主人公の少年マリクとその一家は比較的裕福な家庭で、戦争を経験したものの幸福な生活を送っている。けれども政治情勢は厳しく、当時のユーゴスラヴィアはティトーの独自路線をよしとしないソヴィエトと厳しく対立し、ユーゴ国内では親ソ的・親スターリン的な思想と言論が弾圧されていた。折しも運悪く、マリクの父親メーシャも浮気相手に何気なく呟いた言葉が災いして反体制派として逮捕、強制労働を課せられることになる。母親セナは子供たちに父親が帰らない理由を「出張中」として説明するが、家族の生活はどんどん変化していき……というストーリー。

 一見シリアスなストーリーにも見えるが、画面の中はそれほど暗くはなく、どちらかと言えばコメディドラマ的な色彩が強い。キャラクターたちは基本前向きで個性的、かつストーリーも自然なテンポで進行し視聴者にあまり心的負荷を掛けるような構成ではない。ただし口を開かせるだけの笑いに終始することもない。感情と関係の揺らぎ、人々の愚かさや懊悩も描かれており一定の枠にはまることはない。

 主人公一家に加えて好々爺という形容の似合う祖父やメーシャを逮捕する人民委員の義兄、移住先で「ユーゴ人」を自称するロシア人医師等様々なキャラクターが出演するが舞台は壊れることがない。魅力的なキャラクターたちを揃えて自然なテンポを維持しつつ時にそのフレームを超えるクストリッツァと脚本家のシドランのバランス感覚に辟易してしまう。

 上記のように本作はユーゴスラヴィアという国家・体制批判を含みつつコメディ色豊かに家族を描き切ってみせる。

 

 「ユーゴスラヴィアという国家」と「そこに生きる家族、もしくは共同体」という二つのテーマは『パパは出張中!』(打つの面倒くさいので以下"パ!")から10年後に撮られた『アンダーグラウンド』(以下"UG")と非常に共通しており、演出の面からも両作品の関係性は明瞭だ。一方でその共通性ゆえに差異も見えてくるし、そこからクストリッツァの1985年から1995年に掛けての思想の変化も捉えられるかもしれない。

 

 まず共通点から見ていく。マクロな視点に立てば、先述した通り両者には「ユーゴという国家」と「そこに生きる家族」の二つがある。パ!はただのノンポリ親父がただの譫言が原因で政治犯として逮捕され家族が引き裂かれる。UGでは戦争の中で家族が離散し、主人公クロは権力や富に固執するもう一人の主人公マルコに騙される形で地下に幽閉されてしまう。パ!は1950年代ユーゴにおける国家の弾圧を、UGは二度の戦争と共産主義者同盟体制下における抑圧を大きなテーマ背景がある。

 どちらも体制に対して批判的だ。パ!では父親のしょうもない理由での逮捕の他に、マリクの友人の父親が国家警察に逮捕されその後死亡する顛末が描かれる。虚飾にまみれた宣誓が読み上げられる共産党の地域大会にも性格の悪さが滲み出る。UGはパ!よりも少し薄いが、大根役者が演じる大げさなプロパガンダ映画の撮影や空虚な詩が詠われる共産党主催イベントなど、党と国家をよいものとしては描かず、皮肉の対象としている。

 

 ちなみにUG公開当初は「ユーゴスラヴィアを過度に称賛している」という批判があったらしいけれど、UGは共産主義者同盟による支配をシニカルに描いているし、パ!のより明確なユーゴ批判を見てたらクストリッツァがそんなお気楽ユーゴスラヴィア人でないとわかるんだよな。クストリッツァは確かに「ユーゴスラヴィア」をいい感じの意味で使ってたりするけど、ここで言う「ユーゴスラヴィア」は国家や地域についての語ではなくて「多様性を包括すること・共存すること」に基盤を置く文化・精神の一種だとおじさんは思うんだ。

 

 そして家族・共同体だが、このテーマをもっとも前面に押し出すのは両者ともラストにある。両方ともそれまで劇に出てきたキャラクターたちが一堂に会す結婚式を舞台をラストのそれに選ぶ。そこでは家族・親族・友人と様々な関係を持つ人々が集結し、問題の清算・総括(またはその逆)が展開される。パ!はなんとか元の住処に帰ってきたところを親族や友人らが出迎え、UGでは戦争の中で離散していった共同体が(現実ではないどこかで)復活し過去の清算を行う。離散からの集合大好きか?

 

 他にも気になる点はいくつかあるけれどキリがないし、共通点の列挙というのは本来もっと慎重にやるべき行為だと思い出しました。

 ともあれ、ユーゴという国家とその舞台の中で離別を経験する家族・共同体、そしてラストにおける過去の清算という構造が両者に共通していることはわかると思う。いや作品見ればわかるんだが。

 それで、ここからが書きたかったことなんですが、両者の違いについて、そこから勝手に妄想するクストリッツァ作品の思想の変化。

 

 文章が長くなるので簡潔にまとめるけれど、最大の相違点はラストの結婚式で交わされる許しについての質問への回答だ。どのような質問か?パ!はメーシャを逮捕し家庭をめちゃくちゃにしてしまった義兄がメーシャに許しの可否を問う。UGでも、血はつながっていないが兄弟のようなクロとマルコの二人が盃を交わし、クロを騙していたことについてマルコが許しを請う。流れはほとんど同じだ。

 兄弟分の所業によって苦難を味わったメーシャとクロ、二人の回答は以下のようになる。

 

メーシャ「忘れる。許すのは神だ」

クロ「許そう。だが、忘れないぞ」

 

 この違いは決定的だ、少なくとも筆者はそう思う。

 メーシャは許しの主体は自分にないと宣言してしまうし、罪そのものについての忘却さえ言い切ってしまう。許す/許さない、でなく罪そのものをなかったことにしてしまう。メーシャにとって義兄から受けた苦渋の経験はもはや彼にとって意味を持っておらず、ただ元通りにサラエヴォでの家族生活に戻るだけである。

 パ!は原則的に責任の所在を明確にしない。上記のように義兄の罪は罪そのものがなかったことにされるし、メーシャ逮捕の遠因となった浮気相手は自殺を試みるが失敗する。罪に対して明確な罰が下されることはない。もっともらしく言えば、義兄の罪が永遠に許されないこと、浮気相手は贖罪できずに生き続けることはある種の罰かもしれないが、ラストにそこまで悲壮感はない。誰も悪くなかった、すべて国家と時代が悪かった、「政治なんてクソくらえだ」、というのが結論と言えるかもしれない。

 他方、UGのクロはメーシャとは異なり、明確に許しをマルコに与えている上に、その罪について「忘れないぞ」とまで言い切ってしまう。劇中においてマルコが後半から確実に罪人・悪人として位置づけられている点もパ!とは異なる。

 パ!では許しもしないし記憶もしなかった政治による苦痛が、UGでは許しと記憶の対象となっている。この差は非常に大きい。

 

 ここで一度作品背景に立ち戻る。1985年から1995年の10年間にユーゴスラヴィアクストリッツァが体験したのは祖国の崩壊だ。

 1985年は既にティトーが死去し政治経済に不穏の影が差し迫っていたが、84年にはサラエヴォ五輪が開催されるなど、まだ安定した社会情勢を保っていた。けれども同時期から悪化する経済情勢と相まって民族主義が台頭し始める。これが90年代初頭に暴発しユーゴ構成国家・民族間での紛争へと発展していく。ボスニアは1992年に独立を宣言し、これを認めないセルビア人勢力と独立派のボシュニャク人(ムスリム)勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の紛争が勃発する。

 紛争は3年ほど続き、国際社会の介入もあって1995年に一応の決着を見せる。しかし、紛争による死者は20万人(当時の人口の5%弱)、ボスニア各地は戦闘によって荒廃、ユーゴスラヴィア国家もセルビアモンテネグロを残してほぼ分断されることになる。

 

  UGが公開されたのは1995年5月のカンヌで、同年10月にボスニア紛争は停戦に至る。既に旧ユーゴ構成国家の大半が連邦を離脱し、「ユーゴスラヴィア」は完全に解体されていた。

 UGもこの祖国解体の顛末が描かれている。WW2から始まり、ユーゴ紛争に終わる国家の歴史を寓話的に描き出すことによって、UGはユーゴスラヴィアという過去・記憶を総括しようとする。その総括として、UGでは主人公クロは「許そう。だが、忘れないぞ」と言葉にする。クストリッツァにとって既にこのとき「ユーゴスラヴィア」は記憶するべき、または歴史的判断を下すべき過去になっている。

 それと比較してみると、パ!は過去ではなく現在の話をしている。1950年代という舞台は撮影より30年も前の話ではあるが、ユーゴスラヴィアの国家・社会に生きる市井の人々を映し出す。まだユーゴはあるし、生活は続いていく。メーシャが義兄から許しを問われても、許しと記憶どちらも選択しないのは過去を総括する必要がないからだ。

 現在・現実としてのユーゴスラヴィアと家族を描く『パパは出張中!』、過去・記憶としてのユーゴスラヴィアを描く『アンダーグラウンド』、共通性を持ちクストリッツァ作品の醍醐味ともいえる要素を孕んだ両作品だが、ユーゴスラヴィアという時代への対照的な視点と変化に、ユーゴスラヴィアもしくはクストリッツァが経験した過去と記憶の総括が多分に含まれ、表現されているのではないだろうか。

 とりあえず筆者はメーシャからクロへの、この思想と視点の変化にエモーショナルを感じずにはいられない。今回の記事はそれが言いたかっただけです。

 

 今なんとなく思いついたことだけれど、パ!とUGの現在・過去の比較には演出の魔術性も深く関与しているような気がする。具体的に。現実にはありえないファンタジックな演出がUGでは多く見られるが、パ!では少年マリクの不可思議な夢遊病を除いてそうした演出はあまり見られない。ある種の寓話として描かれるUGと、現在について語るパ!を比較する上でクストリッツァ作品で多用されるそうした魔術的演出の有無は割と重要な意味を持っているだろう。ただ、魔術的なそれは1989年の『ジプシーのとき』、1992年の『アリゾナ・ドリーム』から決定的にクストリッツァ作品に現れてくるのでUG特有の表現ではない。どちらかというと魔術的なそれはUGが到達点で、UG以後は代わって動物のモチーフが多用されてくる(『黒猫・白猫』(1998年)『ライフ・イズ・ミラクル』(2004年))。特に2016年の『オン・ザ・ミルキーロード』では非常に動物のイメージが画面に現れる。筆者個人としては、コメディ的な動きと人間に対するシニカルさを同時に表現するUGから連なる寓話性の連続の一部として見ているけれど、考えがまとまらないのでここらへんにしておく。