Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ④

まえがき・「邦画はクソ」なのか?

 今回は特定の作品についてだらだらと書き記すのではなく、特定のジャンルについて書いてみようと思う。ジャンルの区分け、そもジャンルとは何かという不毛な定義論争は吹っ飛ばしていくのでそういうのは期待しないでほしい。
 んで、何故そんなことをするのかと言えば、最近周りで(と言ってもネット上の話なのだが)「邦画はクソ」という言葉をよく目にするからだ。そんな言葉はずっと昔から言われてるだろうし、それに対する反駁も昔から行われているだろうから今更筆者がごにゃごにゃ小うるさいペダンチズムを展開する必要は全くないのだが、相変わらずこのブログは極めて個人的なモチベーションに基づいて書かれているのでそういった外的な状況は考慮されていない。
 話が逸れている。「邦画はクソか?」と問われても筆者は首を縦にも横にも降ることはできない。そりゃそうだ。人はそれぞれ好き好みがあって、人によって好きな映画も異なる。前にも言った気がするけど、映画は観客それぞれの主観の中で完成する(こんなことを言った覚えはない)。なので「邦画はクソである」という客観的判断を下すことはできないし、そんなことは映画の神様にも無理だろう。
 けれど、そんなことを言ってると「では『邦画はクソである』という言葉も主観上では成り立つのだな?」と言われてしまうかもしれない。言われてしまう、でもいいけれど、ちょっと待ってほしい。それは些か性急すぎるというものだ。このブログを発端にそんな言葉を安易に口をして誰かと口喧嘩になられたら別に困りはしないけど筆者の良心が痛む。筆者はこれでも人並みの倫理観を持っていると自負している。
 筆者の良心を傷つけるためにそんな言葉を吐くのは構わないけど、本当に「邦画はクソである」と思って「邦画はクソである」と宣言するのは、だから、性急すぎると言ってるんだ。「邦画はクソである」という言葉を見たとき、筆者はなんとなくそんな思いがしたのでこのことについて考える必要があると思った。「本当に邦画はクソなのか?」と考える必要があると思った。
 先に言っておくと、先に言ったようにこの問いは不毛である。先に言ったから理由はそれを参照してほしい。ここには有意義な議論も主張も存在しない。あるとすれそれはあなたが勝手にそう思ってるだけだ。
 いい加減本題に入ろう。そんなわけで今回は「邦画はクソ」というか「邦画」に対する筆者なりの考えを述べていく。次からすぐに本論。論と呼べるようなものじゃないが。前書きが長すぎたことを謝ておく。既にあなたはここまでに1000文字強も読んでしまってるではないか!
 

邦画と「暴力」

 極めて個人的な意見なのだが、「暴力」を描くことに関しては日本映画はピカイチのセンスを持っていると思っている。
 別にフランス映画の暴力は下手くそだとか、ハリウッドの暴力は安っぽいとか言うつもりはないし、ましてや『暴力を描かないから、安直なラブロマンスしかやらないから最近の邦画はつまらないんだ!暴力を描け!BPOもPTAも地獄に堕ちろ!』と言う気は毛頭ない。
 じゃあ何が言いたいんだと言うと「日本映画は暴力を描くのがうまいなあ」という極めて素朴な感想である。それ以上でもそれ以下でもないし、それ以上にもそれ以下にもならない。
 予防線はここまでにしておく。
 暴力を描いた邦画って何?と問われるとそらもう一杯ある。海外だって一杯撮ってるし日本で撮られてない理由はない。でもまあ日本独特というとヤクザ映画とかそれなんじゃないかなと思う。『ゴッドファーザー』や『パルプ・フィクション』、『グッドフェローズ』とかマフィアものは海外にたくさんあるけど、マフィアとヤクザがイコールかと言えばあまりそうも言えなさそう。そこらへんは社会学者にでも聞いてほしい。
話を元に戻す。個人的に日本映画で暴力が軸にあるものと言うと先にも言った「ヤクザ映画」、それに「戦争映画」、加えて「時代劇」のこの3つが主要ジャンルになるかなと思った。
 注意してほしいのはすべてのこれらのジャンルが須く「暴力」をテーマにしているわけではないというところ。人情やら反戦やらなんだってテーマになる。ここで言ってる「暴力」はそんな哲学的な問いじゃない。俺はアーレントじゃない。
 でもこれらのジャンルの作品の中で「暴力」は重要なプレゼンスを持ってる。映画とは違うけど『水戸黄門』は最後必ず助さん格さんが悪代官一味をボコボコにしてから印籠を出すし(最初から出せよ)、まあ、他の2ジャンルについては例を出す必要はないかと思う。重要なのは暴力がストーリーの展開上欠かせないものかつ見せ場にもなるということだ。
 そんで、最初に戻るのだが、その暴力の見せ方が日本映画は非常にうまいなあと思うのが今回の筆者の極めて個人的な意見というか感想になっている。
個々の事例から全体の答えを見出すことは不可能なのだが、正解間違いはどうでもいいのでそんな感じに例を出していこう。
 とりあえずいちばん最初に思いついたのが北野映画なのでそこをスタート地点にしたい。個人的に邦画の中で一番好きな映画監督がたけしなのでまあそうなる。
 

北野映画・極めて感情的な無表情の暴力

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北野武ソナチネ』(1993年)

 

 北野映画はやっぱり最高の暴力映画だ。老害臭いが特に初期の頃の作品群はずば抜けて暴力を書くのがうまいと思う。『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA-BI』……。気に入ってるのはたけしや主要人物の暴力が大抵無表情な暴力となっているところだ。「ナンダトコノヤロー!」と絶叫しながらたけしがグーパンかましても、あんまりその人間の感情は拳に出てこない(気がする)。たけしの演技が下手なのかもしれない、でもあれわざとやってる、演技なんじゃないかと筆者はそう思っている。出てこないから、むしろ暴力の裏に隠れた哀愁とか不条理とか様々なものを垣間見ることができる。無表情な暴力、先に挙げた3作のラストはまさにそれだったんじゃないかなと。
 北野映画の中でいつもプレゼンスを持っているのはあの「哀愁」だ。それが暴力の演出に生きている。どんなに苛烈な暴力であっても、その背景には茫漠としたメランコリーが潜んでいる。『HANA-BI』は特に「哀愁」について意識的だったように記憶しているし、『キッズ・リターン』も「暴力」と「哀愁」が密接した作品だった。
 無表情の暴力は、逆説的ではあるけれど極めて感情的な性格を帯びる。何もないからこそ、逆に茫洋とした意味が与えられるのかもしれない。
 「無表情の暴力」「静寂な暴力」を撮れる映画監督はそう多くないと思う。前回ユーゴスラヴィア映画の話をしたときに紹介しておけばよかったのだが、『沈黙の戦場』のクリスチアン・ミリッチはそれだったかもしれない。無表情に、また静謐に暴力が展開されていく点、また画面内の色彩に統一性がもたらされている点では北野映画と雰囲気を同じにするものがあるかもしれない。

 

クリスチアン・ミリッチ『沈黙の戦場』(2007・クロアチア)

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 ただし、『沈黙の戦場』が徹底して無表情なのに対して北野映画はどこか「笑い」を、つまり表情にバリエーションを富ませていることを見逃すことはできないし、今更ではあるけれどこの「笑い」も北野映画の中では暴力と関連して重要なトピックだ。元々コメディアンなんだからまあそうなのだが。
 なんかの本で読んだ気がするのだが、「笑い」も「暴力」も本質的には不条理を出発点としている点で同じだ。風雲たけし城とかを持ち出す気はないけれど、やはり人が笑うのは不条理があるからだ。
 北野映画での「笑い」を思い出してみる。そりゃそんなシーンはいくらでもあるけれど、個人的にやっぱりコレと言いたくなるのはたけしがロシアンルーレットを試して笑うところだ(『3-4x10月』の事務所襲撃シーンも悪くないけど)。

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 このシーンで別にロシアンルーレットをすることに意味なんてない。命を張ることに意味は一切ない。けれど、気まぐれに自分の命を弄んでみせる、そのたけしの不条理な「笑い」は人間的でもあるけれどまた逆説的に究極的に無表情だ。
 また変なことを書いているので少し頭を使って書くことにする。
 自分のこめかみに銃を当てて笑えるのは、自分の生命の価値をわかっているからだ。わかっているからこそ、それを吹き飛ばすこと、吹き飛ばせることが面白く感じてしまう。そうか?面白いか?多分、観客は劇中のこのシーンのたけしを理解できないように思える。共感の対象なんかではなく、圧倒的にかけ離れた別次元の存在のように認識してしまうだろう。映画が始まってからそんな雰囲気はずっと続いているけれど、たけしは人間としてみなすのが難しいキャラクタとなっている。あまり表情変わんないし。
 非人間的な存在が「笑い」という最高に人間的な表情を見せる。この「笑い」は薄っぺらではあるけれどその薄っぺらの下には無限深の霧が満ちている。比喩表現で申し訳ないけれど、北野映画の構造はそんな感じじゃないかと思う。
 あと『その男、凶暴につき』を見返しながら思ったのはアクションシーンにそれほど華はないということだ。たけしが白竜を殺すシーンは到底「アクション」と呼べるようなものではない。それは徹底して「殺し」のシーンなのだ。他作品でもそうだけれど、スマートなアクションシーンは北野映画にはそれほどない。正直言って『ソナチネ』ラストの銃撃シーンはそんなにかっこよくはないだろ。それよりも最後の最後の車内での自殺シーンの方が最高だ。
 北野映画は徹底的に人を殺す。主人公だろうがヒロインだろうがモブキャラだろうがそこにいたら殺される。『ソナチネ』のエレベーターシーンを持ち出すのは野暮かもしれない。北野映画の「殺し」のシーンは「アクションシーン」の皮を被っている。「アクションシーン」なら俳優がどんな動きをするか、どんなふうに敵を倒し倒されるかと過程を重要視しながら撮られる(のだと思う)。けれど、北野映画の「殺し」はアクションは一応やるけどそれはオマケで「人がどんなふうに殺されるか」、つまり結果のその瞬間を徹底的に描こうとしているように思う。
 
 北野映画には「感情的な無表情の暴力」やら「無感情な人間的表情」だったり矛盾しているようだけれどそんなものたちが潜んでいる。そしてそれらがあの哀愁と静謐さを醸し出すと同時に暴力とのコントラストを生み出しているのではないかなと、ここまで書いてそんなふうに考えた。
 微妙に本題とズレるけれど、『あの夏、いちばん静かな海。』は極めて暴力的な映画だと思う。言葉を話せない・耳の聞こえない二人の悲恋というか別離を最高に静謐に、哀愁的に描いて「良いお話」にしてしまうのは、メタな見方だけれど他の北野映画と比較しても遜色ないほどに暴力的だ。個人的には『ソナチネ』『キッズ・リターン』に次いで好きな作品です。
 それと老害なので最近の北野映画はあんまり見てません。あしからず。
 

おわり

 本当はこのあと石井隆の『GONIN』とか他のヤクザ映画、もしくは東宝東映戦争映画を紹介しながら邦画特有の最高な「暴力」たちを紹介したかったのだがそれやると一万字くらい行きそうなのでやめてまた次回ということにした。長い映画が嫌われるように、長いブログも嫌われるものなんじゃないの。それと続きを書くかどうかはわからない。ただ北野映画について数千字語ったところで邦画の暴力を語れたとも思わないのでたぶんやる。
 ただし『帰ってきたヒトラー』やってるしそれを見る方が早いかも。
 
つづく