Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

ガソリンを燃やす。俺は東北を行く。

 バイクでガソリン燃やすの楽しすぎる。俺はバイクでガソリンを燃やし続けるため、2024年5月3日、北へ向かった。

1.ガソリンを燃やす。俺は東北を行く。

(1)5月3日:川崎~いわき市浪江町石巻

 クソほど仕事を残して迎えたゴールデンウィークである。業務上のやらかしと叱責で完全に精神が終わってる状態であるが、移動速度に比例して人間の記憶の忘却は加速するという信仰の下、朝4時30分頃に愛と殺人のシティ川崎を出発する。

 出発した時点で気づいたが、バカ寒い。ゴールデンウィーク期間中は夏日が続くと天気予報で聞いていたので暑さ対策を優先したが、当然のように未明の空気は冷たく、速度に比例してその鋭さが増していく。バカだからそのまま首都高に入り、時速100キロメートルの冷たさに切り刻まれながら、そのまま常磐道へ。ゴールデンウィークはまだ微睡みの中にあるようで渋滞もなく、スムーズなアクセルとともに体温が削り取られていく。日の出とともに気温が高くなることを信じながら東へ東へと向かう。

 寒さとニコチン摂取欲のせいもあって1時間弱ごとに休憩を取る羽目になり、守谷SA、美野里PA、中郷SAに寄る。中郷SAで寒さ対策に持ってきたレインコートを着る。遅すぎる。ここらへん、寒さと飲み過ぎたコーヒーのせいでトイレも近くなっており、持論である「ツーリングはトイレと喫煙所を探し続ける旅」をまたここでも証明していた。

結局日本の道を堪能するには400ccがいちばん良い。

 出発から3時間半ほどでいわき市に到着する。インターチェンジを降りて、水田に囲まれた県道を走る。感動の極みである。バイクで走っていて一番気持ちがいいのは田舎の片側一車線道路だ。田畑が望める道もよいし、道路沿いにトステムやYKKAPの看板があるとなおのこと良い。自動車整備工場や開いているのかよくわからないガソリンスタンド、畳屋や寝具店なども趣深い。高速や峠道を走っているときよりも、県道を走っているときがいちばん「日本」を感じるぜ。そうだろ? それに比べたら都会の道はカスや。明治通り靖国通りも、人間が生きる道路ではない。

 農家の方々が田植えの準備を進める水田を抜けて、海岸方面へと出る。空間に違和感。草木の生い茂る海沿いの道路は先ほどとは打って変わってその道路沿いに何も生活感がない。車の往来は見られるが、かなり寂しい空間だった。

 長い文章を書くのが面倒になってきたので、ここからは訪問したスポットごとに紹介する。

①薄磯海岸

 最初の目的地であるいわき震災伝承みらい館に向かう途中、道を間違えた先で見つけた偶然見つけた海岸。空と大地でかすぎ。世界の終わりってこんな感じらしい。

世界の終わり。
②いわき震災伝承みらい館

 薄磯海岸の見える高台にある資料館。主にいわき市沿岸部における津波被害と防災に関する資料・情報を展示している。入館は無料。

 入館して最初に最初に10分ほどの被災者や災害対応にあたった市民たちのインタビューや証言を視聴できる。この後訪問するどの資料館にも言えるが、震災関係は特にこうした当事者の語りを重視しているようだ。また、各インタビューについて、被害に対する被災者の感情的な言葉もありつつも、最終的には災害に対する具体的な対策について被災者らが言及するところも共通しているように思う。

 一階が大きな展示ホールとなっており、空中の大きなスクリーンには震災当時の映像がループ再生されている。展示の構成としては、地震被害のメカニズム、いわき市における地震津波被害の実態といった地震津波に直接関係するものから、防災や避難生活に関する展示も多く見られたほか、福

島第一原子力発電所事故とその影響に関する展示も多く、原発事故がいわき市の生活や産業にも大きな影響を与えたことを記録している。

 二階は、先ほどの薄磯海岸をはじめとする地区一帯が見渡せる展望エリアになっている。海岸を走っているときは道路にあまり生活感を感じなかったが、整備された高台方面には結構な数の新しめの家屋が見られて、ここもひとつの生活空間だというのが実感できる。

 一時間ほど滞在して、次の目的地に向けて出発、国道6号線を北上する。

いわき震災伝承みらい館
③特定廃棄物埋立情報館リプルンふくしま

 いわき市から一時間ほど北上して双葉郡富岡町の国道六号沿いにある同資料館に到着する。最初施設に気づかず一度通り過ぎてしまった。ちなみに地形のためまったく見えないが、東へ1、2キロの場所には福島第二原子力発電所があるらしい。

 東日本大震災および福島第一原発の事故後に発生した、放射能汚染のリスクを持つ廃棄物とその処理に関する展示を行っている。運営主体は環境省のようだ。実際の「特定廃棄物」の法的定義はもっと細かいがここでは割愛する。

 先ほどのいわての資料館のややしんみりとした雰囲気とはガラリと変わって、リプルンふくしまはかなりファミリー向けのデザインがされている。自分が訪れたときも(ゴールデンウィークだからだが)複数の家族連れがこの施設を訪問していた。ちょうど家族向けの企画などもやっていらしく、完全に独り身で訪問してきた明らかに独りでバイクに乗ってきたであろうコミネのライディングジャケットと三菱農機のキャップをつけた奇怪な男の扱いに職員が困惑しているのが見て取れた。何びびってんだよ。

 常設展示はややこじんまりとしており、かつ、子ども向けのデザインとなっているが、タッチパネル型の展示や映像展示も多く、意外に情報量は多い。周囲で子どもたちが展示で遊んでいる中、ひとりだけ廃棄物の運搬や処理の現場作業映像をずっと見ているおっさんになっていた。実際に現場で使われてるタブレットの展示たまんねえぜ。

 それから埋め立て処理後に発生する地下水の汚染リスクの展示が割と印象に残っている。埋めればそれで終わりじゃねーのと軽く思ってた節もあるので、この点は正しく学びが発生していた。

 屋外でも放射線のモニタリングを体験できるイベントを実施しているらしいが、時間の都合で参加できず。

 30分ほど滞在してから、ファミリー層から逃げるように退館し、再び国道6号線に乗って北を目指す。

 もうちょっと独身者にも優しい施設にしてほしいです。独身者に優しくする社会的なメリットは何もないよ。

リプルンふくしま
東京電力廃炉資料館

 ある意味、今回のツーリング最大の目的地である。リプルンふくしまからバイクで10分ほどの距離にある。二〇一八年に開館し、東京電力が運営する、名前の通り福島原発の事故および廃炉作業に関する資料の展示が行われている。

タイベック昔着たことあるけどクソ暑いんだよな。

 外観からはわかりにくいが内部はかなり広い空間になっており、二階は原発事故そのものの展示、一階は事故後の廃炉や除染に関する展示で、順序は二階の映像紹介からとなる。

 対応する職員全員腰が低く、映像ホールの挨拶でも謝罪から始まった。「ここに配属される社員は大変やね」とメーカー勤務サラリーマン目線で見ていた。そういえば自分が就活生だったとき、東電の会社説明会でもはじめに社員の謝罪からスタートしたことなんかも思い出していた。

 原発事故の紹介では、地震発生から津波到達、非常用電源を喪失した後、1号機、3号機、4号機が水素爆発し、その後全プラントが冷温停止するまでの時系列などが事細かく紹介されている。ここで個人的に気づいたことは、1~4号機それぞれで発生するトラブルやタイミング、炉のコンディションが微妙に異なり、それ故に対応も極めて複雑で緊急的に限られた人員でコントロールするのは非常に困難だっただろうということだ。4つの複雑なシステムを持つプラントがそれぞれバラバラに、急速にトラブルを加速していく様を目前にしながら、職員はどれだけ冷静に対応できたのだろうか。しかも、全交流電源を喪失していることから原子炉の状態を確認する術は極めて限られており(制御室のあらゆるレベルゲージやインジケータが信頼できないってマジでなんだよ)、その中では対応を進めることはおろか、対策を考えることも困難だったろうと、完全にプラント勤務者の視点でそんなことを考えていた。

 また、展示の中で特に重視されていたのは、原発事故が「防げた事故であった」という考えと反省であった。「人智の限りを尽くせば防げる事故であった」という言葉は、めちゃくちゃ科学に対する信仰が強いなと思ったが、事故に対する会社責任を表現する上では最大級に強い表現だろう。

 事故の原因について、「安全意識の欠如」や「リスクの過小評価」といった抽象的な語が用いられるパターンはよくあるが、では具体的に何が原因だったのか、という点については今までのメディアや報道であまり目にすることがなかったように思う。展示では、「事故の背後要因分析」というボードで事故要因に関する整理を行っていたが、これもメーカー勤務者からするとかなりしんどい内容になっている。他社や他国の事例から学ぶ姿勢がなかった、既に安全性は確立されたと思い込んでしまう正常バイアスといった安全意識における問題や、コストや稼働率を重視した結果協力事業者へのアウトソーシングに偏り自社内における管理技術が不足していたという技術力不足の問題、地域やステークホルダーとのリスクコミュニケーション不足といった問題が取り上げられており、大なり小なり、プラントを持つ企業にとっては耳が痛い内容になっている。

これが分析できてる企業がどれだけあるのかって話。

 二階を一周すると最後にあるのは原発事故に立ち会った関係者へのインタビュー映像であった。実際に事故当時の対応にあたった作業員へのインタビューなどを複数視聴することができる。その全部を見ることはできなかったが、福島出身で、その地元に取り返しのつかない災害を発生させてしまったことを後悔している社員の映像が特に記憶に残っている。福島第一原発に勤務する作業員には、ある意味当たり前だが、地元出身が多くいたことを気づかされるが、それよりも同時に、企業に雇用され、ただ日々任された仕事をこなしていただけなのに、ある日突然数多の人間の生活基盤を破壊してしまった災害の当事者になってしまった労働者が多くいることを知った。労働者個人にこの事故の責任があるわけではないことは当然ながら、しかし、郷里を汚染された地に変えてしまったというその苦しみは想像を絶するだろうと、映像を見ながら一労働者としてしんどさの中に沈んでいた。

 一方で、「人智の限りを尽くせば防げる事故であった」という、今回の事故を人災と見なす考え方は、福島以外の原発については「対応をすれば現在稼働している原発は維持可能」という論理にも持って行けるように思える、といか可能だ。資料館の展示全般も、原子力発電おけるリスクについては、チェルノブイリスリーマイル島の事故事例の展示に限られ、あくまで資料館のターゲットは福島原発事故のみとなっている。その点では、原子力事業に対する全般的な反省は見られず、当然と言えば当然だが、原子力事業そのものは悪ではないという、東京電力の企業的スタンスも隠れていると言えるだろう。

 二階の事故に関する展示を見終わり、一階に降りる。一階では先述の通り事故後の廃炉に関する資料展示がメインとなっている。メルトダウンにより発生したデブリ(熔解した核燃料がコンクリート等の構造物と融合して固まったもの)を観測したり、取り出したりするためのロボット技術や、2023年にも話題になったALPS処理水の海洋放出に関する技術・情報、そのほか廃炉作業の労働環境とその改善などに関する展示が行われている。

 この展示についても、正直「うまく進んでいるから心配するな」と暗に言いたげな雰囲気を感じ取ってしまう。実際、2050年までに廃炉を完了させるというロードマップが掲示されているが、デブリ除去関連の技術展示を見ていると(その研究開発が進んでいるのは十分理解するが)本当に出来んのか? と疑問視せざるをえない。労働環境は改善されているというが、ニュースを検索すると作業員が廃液を浴びて病院に搬送されたという記事が出てきたりする。他の震災伝承館で映されていた被災した高齢者へのインタビューにあった「生きているうちに廃炉は見届けられないだろう」という言葉とリンクして、かなり厳しい気持ちになってしまう。

 事故の詳細な展示や、安全管理に関する反省の意識は感じられつつも、原子力事業に対する振り返りがない点や、実際に現在進んでいる廃炉作業が展示の通り明確な未来のあるものなのか、疑問を感じざるをえない、そんなもやもやする、ある意味資料館としての機能を十分に発揮している資料館であった。

 富岡町を出て再び国道6号線を北上していく。

こういうの撮影しがち。
⑤道中・国道6号線

 6号線をバイクで走って行くと、道路脇に「この先帰宅困難区域につき通り抜けできません」と表示された看板を複数見ることができる。交差点の手前に置かれており、進入が禁止された道路の先を見るとバリケードや警備員がいることがわずかに見えた。おおよそ、その先は福島第一原発に繋がる道路になっている。

 福島第一原発自体は道路からは、その地形上国道方面から直接見ることはできない。北上しながら、その1、2キロメートル右手(東)に離れたところにあるらしいというのは地図でわかるが、その程度である。近隣の山や浜辺まで進出すればある程度は視認することができるらしいが、今回はそこまで移動する時間的余裕もなかったし、あまりこの地域を遊ぶように右往左往するのは(今更ながら)不謹慎だろうと思ったので、やめた。

 通過する富岡町大熊町双葉町浪江町は未だに帰宅困難地域が設定されている。6号線沿いには家屋や商業施設を頻繁に見ることができたが、人が住んだり、利用している様子は見られず、家屋や地形を破壊し尽くした津波とはまったく異なる形で人間の生活基盤を破壊した放射能災害の特異性を実感することができる。

 他方、福島第一原発から数キロ離れたところにある道の駅なみえは、ゴールデンウィークの観光客で大混雑状態であった。2020年に営業を開始したこの施設には、子どものための遊具なども整備されていたり、屋台やら大道芸人やら完全な行楽地と化しており、さっきまで走っていた寂しい風景からは一気にギャップを感じることになった。

 スケジュールでは本来ここで地元グルメか何か食べてえ

と思っていたが、あまりの混雑ぶりにフードコートも近づけず、地元のパン屋で買ったメンチカツパンと缶コーヒーとタバコを昼食にして、三十代独身男性はひとりまた道路にバイクで飛び出すのであった。

東日本大震災原子力災害伝承館

他の伝承館にはなかった「原子力災害」の語。

 道の駅なみえから車で10分程度の場所に東日本大震災原子力災害伝承館がある。今回訪問した資料館・伝承館の中でも最大の建築物かもしれない。隣には双葉町産業交流センターという大きなハコモノ施設が並んでいる。こっちの交流センターにいくつか食堂があったのでここでメシ食えばよかったと後悔する。なんやかんやいっても地元のメシは食べたいものである。浪江町の地元グルメは焼きそばらしい。

 伝承館の周辺地域は極めてフラット、平面的な空間が広がっている。土色の空き地がずっと連なっている風景を見たとき、最初は田畑かと思ったが、よく見ると住宅地の跡地であることがわかり、ぞっとする。ガレキなどが撤去され、すべて整地された後に残ったのがこの空間らしい。

 また、伝承館の周囲は福島県復興祈念公園として整備が進められ、計画では伝承館の他に追悼のための丘や広場、防災林、住宅地域跡地の保存などが予定されている。ただ訪問時点ではまだ十分に工事が進んでいないようで、公園の完成は当分先の様相であった。伝承館前の広場から海側に建設された防波堤を望むと、その幾何学的なヴィジュアルに、空間感覚がおかしくなりそうだった。

俺はこの2日間このフラット空間に狂わされる。

 伝承館に入る。常設展示を見学するには料金600円であった。金取るんきゃ、と一瞬思ったが、QUICPayなど電子マネーに対応している驚きが勝った。

 他の資料館・伝承館と同様に最初は映像ホールで概要映像を視聴する。円筒型のホールはかなり空間的に広く、空間を目一杯に使った映像が流れる。俺以外の来館者は当然のようにほとんど家族連れだった。10分程度の映像では福島原発の簡単な歴史と、震災・原発事故に関する紹介という構成だ。終映後、常設展示エリアへと進むことになる。

またこういうの撮影してる。

 ここでも目を引くのは被災者への直接のインタビューであった。家族を津波で亡くした住民や、災害対応にあたった行政職員へのインタビューが、映像として多く展示されている。津波被害に関する展示ももちろんだが、福島第一原発事故に関する展示も非常に多い。震災当時、避難した住民から行政に対しても、放射能災害について確実な情報が乏しく、不安感が強かったことがよくわかる。

 また、福島県が伝承館を運営していることもあって、健康リスクや地場産業への風評被害についての展示も重視しているようであった。展示の一例として、福島県が実施したアンケートより、子どもを外で遊ばせることを控える家庭が震災直後はほとんであったという回答結果は、原発事故が広い地域ででの子どもの家庭教育に大きな影響を与えているという点で、なかなか衝撃的であった。原発におけるリスクとは、国家的なエネルギー需要の問題や、被災地域の放射能汚染以上に、多角的で根が深いものであるということを痛感させられる。

 構成の内、最後は福島の復興に関する展示となっている。国家と行政が考える長期的な復興プランが説明されているが、やはり伝承館から見える景色は、その輝かしい未来をそのまま信じさせる気にはなれない。別の施設で見た、原発事故により避難を余儀なくされた住民の「故郷の復興を願っているが、もう二度と故郷に帰ることはない」という言葉が、復興の難しさの一端を示すものとして、記憶に強く残っている。

 別フロアには新聞社が震災当時撮影した報道写真が数多く展示されている。このフロアは無料で閲覧できるようだ。避難所で家族と再会した住民の姿や、瓦礫の中で遺体を搬送する警察官や自衛隊員の写真が掲示されている。目を引いたのは特に、帰宅困難地域に一時帰宅する避難民を映した写真で、どこにでもありそうな家のリビングにタイベックを来た家族が家財を回収しに来た際の写真だった。その家のリビングは実家のようなどこか懐かしい雰囲気があり、そんな家がタイベックなしには入れないような環境になっている、そんな画が強い威力を発していた。

一枚一枚が結構でかい。

 展示を見終わってから、再び伝承館前の広場に出ると、やや日が傾きかけて温かな日差しが、目一杯に広がる芝生に降り掛かっていた。その芝生の上で団らんとしている一家の姿が空間の設計に一致しすぎて、独り三十代独身男性は感動していた。バイクでガソリンを無駄に燃やしているヤツより、小さな子どもを震災伝承館に連れて教育の機会を与えているパパの方が絶対に偉い。俺は泣いた。

何も言えねえ。
⑦震災遺構・浪江町立請戸小学校

 当初は時間的に厳しいかなと思っていたが、ギリギリ間に合いそうだったので急ぎバイクで請戸小学校を目指す。震災伝承館からの道は、土と草、停まったままの重機以外何もない空間が広がっており、本当に人類が破滅した後の世界はこんな景色が広がっているのかもしれないとしんみりしていた。しかし道が封鎖されていたりして、広い空間の中、遠くに見えたり近くに見えたりする請戸小学校に辿り着く道が見つけられず、カフカの『城』に出てくる主人公の気分になっていた。

なんもねえ。

 ようやく到着して受付へ。見学時間は残り30分程度と言われたが、自分の他にもかなりの訪問者がいたし、そんな長居するわけでもねーしなと舐めた態度で入館する。

 請戸小学校は海岸から数百メートルしか離れていない立地にあり、震災当日は津波が直撃し校舎のほとんどが破壊されたが、児童の避難に成功し、全員が奇跡的に生存したことで注目された学校である。震災による被害を後生に伝えるため、被災した姿そのままを残す「震災遺構」として今日まで保存・展示されている。

 校舎の一階内部は完全に破壊され、津波の壮絶な威力を10年以上経った今でも見学することができる。この威力を持つ津波に飲み込まれたら絶対に助からねえだろうなと、ぐちゃぐちゃになった教室を見ながら思う。教室や体育館(2011年3月に予定していた卒業式の準備がそのまま残っている)、給食室などをぐるっと校舎の外を回るようなルートで、見学する。途中途中に説明用のパネルがあるのだが、外国人観光客が熱心にスマホでパネルの文章を翻訳しながら見学していたので、俺は感動した。お前は強い。

破壊された教室。

 二階に上がると、屋内展示エリアとなっており、浪江町の被災状況などを記録した展示を見ることができる。印象的なのは、震災前の町の姿を児童が再現したジオラマだった。ジオラマに再現された町には多くの住宅と、その住宅に住んでいた人の名前を見ることができるが、特に住宅の多かったエリアは、先ほど自分が道に迷ってうろちょろ走っていた何もない空白地帯であった。

津波に消えた町。

 住宅があった地域は既に整地され、津波の被害を知ることはもはやできない。その事実が薄ら寒い恐怖を覚えさせるが、逆にこうして震災遺構として小学校が残っていることは、記録、あるいは記憶として重要な意味があると実感することができる。

 ちょうと展示を見終わったところで閉館時間となった。請戸小学校を後にするが、その途上はやはり何もない真っ平らな寂しい土地ばかりであった。浪江インターチェンジを目指して内陸に進むと、住宅街に入るが、まったく人の姿は見えず、これもまた生活感の乏しい町の中を走ることになる。

 インターチェンジから常磐道に乗って、宿を予約してある宮城県石巻まで一気に走る。

誠実であることは常に美徳だ。

(2)5月4日:石巻~釜石~陸前高田石巻・女川

 石巻で一泊して、正直2日目はどういうルートで三陸方面を回るか一切計画していなかった。行きたい場所の一つであった岩手県釜石市が、宿泊地からもっとも遠かったため、そこから攻めて海岸を南下しながら震災伝承館や震災以降を巡ることにした。

 GW2日目も晴天である。

 石巻から三陸沿岸道路を使って一気に釜石まで進出する。最初に釜石の鉄の歴史館で仕事を思い出しながら鬱になって、その後再び三陸沿岸道路で南下する。このときルート設定を間違えたため、行くはずだった気仙沼を通過してしまった。まあ気仙沼の大橋(気仙沼湾を跨ぐバカでかい橋)を往復できた上に、気仙沼の街並みを一望できたのでよしとする。

 もしかしたら、福島にもあったのかもしれないが、三陸地域の一般道を走っていると、そこかしこに「ここから過去の津波浸水区間」という道路標識を見ることができる。海の見えない山沿いを走っているときも、これを見ることができるし、登り坂では「では今まで見てきた住宅地は何だったんだ?」と、驚きと戦慄に襲われることになる。

釜石の高炉のジオラマずっと撮影してるおっさんがガラスに映っている写真(鉄の歴史館)
高田松原津波復興祈念公園

完璧な空間。

 今回のツーリング先でトッッッップクラスに空間設計が完璧であった。最初は同公園にある東日本大震災津波伝承館を目的地として計画していたため、広大に整備された公園の存在をよく認知していなかったので、望外の邂逅となった。

 元々国道45号線沿いにあった道の駅タピック45と松林と砂浜の景勝地高田松原の観光エリアであったが、震災と津波によって地域一帯が壊滅した後、整備されたのがこの公園だ。再建された道の駅と震災伝承館を中心に、広大な広場や防波堤、複数の震災遺構を包括しているのがこの復興祈念公園である。

 震災伝承館では、岩手県における震災・津波被害の展示の他に、特に防災や復興対応に関する展示に力を入れているようであった。地域の消防団や消防・警察、自衛隊の震災当時の活動や、その関係者へのインタビュー記事などが充実させられていた。特に、東北地方整備局が実施した「くしの歯作戦」はひとつのルームを使って集中的にPRされている。同作戦は震災と津波で破壊された三陸地方の交通網を早期に復旧させ、沿岸部への救援物資・人員の輸送ルートを確保したことで高く評価されている。伝承館では、当時の資料の他、指揮を執った東北地方整備局長へのインタビューなどが上映されている。

 こうした公的な組織による防災対応の展示に、市民目線での防災に関する啓発的な企画が続く。震災を伝承する意味のひとつを、現実的・具体的な防災に繋げるというロジックは、すべての伝承館で共有されている。

 

 資料館を出た後、海岸に向かう道へ出る。景色がいきなりでかすぎる。フラットな緑の芝生に、視界を横切る巨大な防波堤、防波堤まで伸びる一本の白い道。まるで神殿のようなデザインが「祈り」と「鎮魂」を目的とした空間であることを強く意識させられる。防波堤まで歩くが、やたらと長く感じる。来て良かったと思った。

 献花台が用意された防波堤からは復興公園が見渡せるほか、海側には復興後に植樹された松林と砂浜を見ることができる。この景色が非常に良い。また、広田湾を望むとリアス式海岸の特徴である狭い湾の入り口を見ることができる。あそこから津波が押し寄せたのかとイメージしてしまう。

 防波堤を歩いて行くと、メディアでも話題になった「奇跡の一本松」が見られる。震災前に7万本ほどあった松の内、唯一津波を生き残り、復興のシンボルとされた松の木である。ただし、実際には震災後しばらくして海水の影響で根が枯れてしまったため、現在見られるのは防腐処理や倒木対策など人工的な復元が施されたものとなっている。この奇跡の一本松の他、津波による被害を保存・記録する震災遺構として「陸前高田ユースホテル」「タピック45」「気仙中学校」「下宿定住促進住宅」を見ることができる。ただ、公園敷地が広大な上、それぞれの震災遺構も離れた場所にあるので、すべて見学しようとするとかなりの時間がかかる。

破壊された陸前高田ユースホテル。奥に「奇跡の一本松」が見える。

 伝承館の展示以上に、この復興祈念公園の空間設計に俺は喰らった。広大でフラットな空間に無機質な建造物が鎮座するそこは間違いなく祈りの場だった。同時に記憶・記録としての機能を有し、過去と未来を接合する点としてこの巨大な復興祈念公園があることに、海岸で釣りを楽しむおっさんたちや母親と遊ぶ子どもを見ながら川崎市川崎区からわざわざ中型バイクで来た独身男性は独り感動していた。

世界の完成例(1)

世界の完成例(2)
②震災遺構・大川小学校

 高田松原復興記念公園と同様に、予期しない衝撃を受けたのがこの大川小学校だった。

震災遺構・大川小学校

 陸前高田市を出てひたすら南下し、再び宮城県に入る。国道398号線に入り、北上川河口に出ると、その穏やかな川面に昼下がりの陽光が降り注ぎ、美しい大河を沿うように走ることになり、正しいツーリングの楽しみ方を久々に思い出しつつ、「ドナウ川みてーじゃん」と意味不明な感想をヘルメットの中で叫んでいた。なんでドナウ川なんだよ。

 

 北上川を跨ぐ新北上大橋を渡るとすぐに大川小学校に辿り着く。駐車場は大型バスも複数台駐車できるように設計されておりかなり広い。

 大川小学校は同小学校における被害を伝える伝承館と、津波に破壊された校舎、犠牲となった児童たちを追悼する祈念碑が建てられている。犠牲者。昨日訪問した請戸小学校とは真逆に、この大川小学校では全校児童108名中74名が死亡・行方不明、教職員も11名中10名が死亡するという悲劇に見舞われた場所である。

二階の教室の天井まで破壊されたことがわかる。

 恥ずかしい話、その情報をほとんど知らないまま、同地を「震災遺構のひとつらしい」という程度の事前情報で訪問してしまった。故に、伝承館の展示でその被害を知ったとき、当初うまく理解できず、ようやくその意味を理解したとき、外に見える破壊された校舎が、ずっしりと重い質感を持ち始めた。

 最初、大きな犠牲を出したことが理解しづらかったのは、校庭の目の前に小さな山が見えたことも理由のひとつにあった。登れば10メートル以上はありそうで、津波から逃れるには十分な避難ポイントのように見えた。そのような地形にありながら、多数の犠牲者が出ることは不可解に思えた。

 事故に対する疑問、という姿勢はこの大川小学校の展示全体にも現れている。震災当時、校舎から避難した児童と教員は、隣接する山ではなく新北上大橋のたもとに向かったとのことだった。確かに校庭に比べるとやや海抜の高い場所になるが、津波から逃れるには十分でなく、移動の途中で津波に被災、先述した犠牲を出すことになる。この学校側の避難対応について犠牲となった児童の遺族は疑問を持ち、その後遺族らは行政に対して民事訴訟を起こしている。学校側の対応の是非を争点としたこの訴訟と裁判はドキュメンタリー映画にもなっており、映画に関する新聞記事なども伝承館で読むことができる。気になったのは、遺族が「なぜ事故が起こったのか」という真相を追及するためには裁判という方法以外になかったこと、裁判をする上で損害賠償という形で児童たちの命に値段をつけなければならなかったこと、損害賠償を請求することで遺族たちに誹謗中傷が多数寄せられたこと、などの遺族に知られた厳しい環境であった。

 基本的に、今までの伝承館は震災と津波を巨大な自然災害と捉え、福島原発事故を除いて、その犠牲や被害に特定の責任を追及するような姿勢を見せていなかった。しかし、大川小学校は責任のために戦う姿勢を見せている点で、他の伝承館とは異なるやや特異な立ち位置になっている。

(ここらへんは原爆被害に対する広島と長崎の態度のギャップにも類似しているなと雑な感想であるが思った。)

 他方、こうしたアグレッシブな姿勢について、否定的な遺族がいることも展示は示している。「真相を知りたい」という遺族の言葉を掲示すると同時に「これ以上関わりたくない」「忘れてしまいたい」という言葉、あるいはそもそも何も語ることのない遺族の存在も、伝承館は説明している。大川小学校の校舎についても、震災被害を後世に伝えるために保存すべきという意見と、震災被害を思い出して辛いので取り壊すべきという二つの意見が対立している。

 震災被害全体と伝承というマクロな視点に立つと、個別の具体的な被害が見えづらくなる。個々の事例を詳らかに見ると、そこには実は助けられた命であったり、あってはならない誤謬があったかもしれない。しかし、あまりに甚大な被害においては、ある意味「お互い様なのだから」と、そうした個々の事例を追及することは忌避されているのではないだろうか。

 また、犠牲者・被害者は常にイノセンスでなければならないという意識も目立つように思う。避難所で静かにしている内は誰も何も言わず、メディアを通して同情が寄せ集められるが、ひとたび被害者としての権利を行使しようとすると途端に非難の目を向けられる。

 もし、具体的な防災や再発防止策を考えるなら、本来は個別の事例における誤謬や反省を指摘しなければならないのではない。しかし、それは同時に犠牲者や被害者の名誉を傷つける行為になるから、躊躇されるし、非難されてしまう。

 被害を記憶・記録することと、その上で防災を考えることが、犠牲者への祈りと鎮魂の意識によって阻害されてしまうジレンマ。他の伝承館では捉えることのできなかった、震災を伝承することの難しさが、大川小学校にはある。

 

 北上川を遡上しながら、女川方面へ向かう。

宮沢賢治の言葉がな
③震災遺構・旧女川交番

基礎から津波に破壊された旧女川交番

 石巻市に隣接する女川町に到着する。女川町には東北電力が操業する女川原子力発電所があり、広報センターに行こうかと思ったが時間の都合上やめた。

 女川の港と湾を望む公園の片隅に、ひっそりと置いてあるのが震災遺構として保存されている旧女川交番だ。津波により、鉄筋コンクリートの建造物が基礎から完全にひっくり返ったという、津波の途方もない威力を遺構からは知ることができる。尚、震災当日勤務していた警察官2名は住民の救護活動に出動し、無事生存している。。

 周囲には伝承館や資料館などはなく、遺構そのものと見学用通路に展示パネルがいくつかある程度になっている。個人的には、むしろこの震災遺構を目立たせないような意図があるように思えた。家族連れの子どもたちは隣接する公園で遊び、観光客のほとんどは道の駅で食事や休憩をしている。メインはそちらの観光・行楽施設で、旧女川交番はその空間の片隅を借りているように見えた。実際、旧女川交番は半分地下に隠れたように保存されており、周囲からはやや見つけづらい形になっている。先に訪問した大川小学校における取り壊しの意見を思い出すと、あえてそうしているのかなとも思った。生活の中に、どーんと震災遺構がそびえているというのも、住民からすると記憶の傷跡を常になぞられているように感じてしまうかもしれない。その意味で、ある種、震災以降を保存するだけ保存しておいて、あまり前面に出さないこの展示の形も十分にありえるのだろう。

 女川の街並みは、少なくとも旧女川交番から見ると津波の爪痕を見ることはなく、ひとつの港町として復活しているようであった。ゴールデンウィークだからだろうが、夕方とややピークを外れたであろう時間帯でも、道の駅には観光客がしっかりと入っており、目の前の道路も車の往来がある。

 比較してしまうのは、福島の浪江町双葉町といった浜通りだ。同じように原発に隣接し、津波被害に遭い、震災遺構も残る地域であるが、女川町が住民の居住環境や観光・行楽施設を整備しているのに対して、1日目に訪問した浪江町の請戸地区などは整地のみなされ人が生活するための環境整備は進んでいない(そもそも帰宅困難地域もある。)

 同じ被災地域でも、放射能災害によってここまで復興に差が出るものかと、今更ながら思いつつ、女川町から石巻市街へ向かう。

女川の養殖鮭を使った女川バーガー。バカうまい。日本のハンバーガーは全部これでいい。
石巻南浜津波復興祈念公園

 やってしまった、というのは最後に石巻にある「みやぎ東日本大震災津波伝承館」に行くはずだったのだが、時間を使いすぎて開館時間(16:30最終入場)に間に合わなかった。そのため、公園の駐車場にバイクを止めて、公園内を散歩する程度に留まった。

 駐車場横が遊具の集まるエリアだったため、子どもやその家族が遊んでいたが、そこから離れると途端に寂しい雰囲気になる。海側に伸びる新しい堤防と、内陸側の市街地を挟むこのエリアは広大な公園として整備されている。震災前は住宅が建ち並ぶ地域であった。福島や岩手でもそうだったが、途方もなく広いこのエリア全体がすべて被災したのかという驚きとやるせなさに襲われる。

 公園内には先述した伝承館のほかに、追悼式に使われる広場や公園全体を見渡せる小高い丘などが整備されている。また、地震津波・火災に被災しながらも児童の避難に成功した門脇小学校が震災以降として残されており、陸前高田市高田松原復興祈念公園と同様に「記憶・記録」と「祈り・追悼」をテーマにした設計となっている。

 公園のすぐ南は工業地帯になっており、日本製紙の工場がもくもくと白煙を上げているのが見える。「祈り」「記憶」を目的とした公的な施設の充実だけでなく、工業・産業が復活していること、これは(言い方が悪いが)大衆的に、マスメディアがイメージする「復興」の形とは異なるかもしれないが、本来的には目指すべき地域社会の姿なのかもしれない。極端な話をすれば、日本のどこにでもある地域社会が再び被災した地域に、可能な限り防災機能を強化された形で再現されることが、本来的な意味の復興であるだろう。

遠くに工業地帯の白煙が見える。フラット。

 高田松原祈念公園や大川小学校のように、震災という過去を強くそこに刻みつける空間・建築を残すのか、それとも震災の記憶と記録を背景に溶け込ませた実体的な地域社会の復活を目指すのか、その過去と未来のバランスを東北の復興という途方もなく巨大な取り組みの中でどのように成立させるのか。もちろんその議論は既になされているし、これからも議論は重ねられていくだろう。福島原発廃炉は2050年頃まで掛かると言われているが、直感的にはその頃にもまだ廃炉作業は続いているような気がしてならない。「復興」とは、そう簡単に口にできる語ではないように思えた。

また次回やね。
⑤その後・帰路

 一旦石巻から仙台のホテルに移動し、そこで一泊してから東北道で群馬・高崎の実家を目指す。途中折角だからと赤城山を登ってゴールデンウィークの観光混雑に捕まる。最後の最後で、バイクで死にたくないと思ったので赤城神社で交通祈願のお守りを購入した後、実家に一泊してから一直線に関越自動車道で帰ろうとしたが、ナビがいきなり東北自動車道での帰宅を進めるのでそうする。直後に関越自動車道高坂SAあたりで大渋滞が発生していた。俺は大田強戸PAでカツカレーを食べる。高速道路でカツカレーを食べることは俺にとってある種の儀式となっている。練馬で関越道が途切れることを、俺はまだ正しく冷静に理解できていないが、俺は関越自動車道と国道17号・18号を心から愛してる。今年からは国道6号も愛そうと思う。

 

2.長すぎる「終わりに」。というか、終わらねえ

 旅行記でもなんでもないただの感想文なのでここで読み終えてもらっていいです。

 

 

 陳腐な言い方だが、東北の復興はまだほとんど進捗していない。ただバイクで道を走っただけのヤツに何がわかるのか、ともこの記事を読み返しながら思うが、ただバイクで道を走っただけでもそう感じたのが、今回の東北ツーリングだったのだから、そう言うしかない。

 特に復興がまったく途上であることを印象づけたのは福島原発周辺だ。福島県浪江町双葉町で見た沿岸部の殺風景は、震災当時の映像や資料館の展示以上に大きな質量をもってこちらの精神にのし掛かってきた。祈念公園のように整備された空間では、空間設計の意図の下で、「祈り」や「鎮魂」、「伝承」といったはっきりとした人為的な意味・目的を体感することができるが、ただひたすらに整地されただけの大地においては、そうした意味も感情も一切なく、ただただ無為の空間があるだけに感じるのみである。被災者や地域住民であれば、そこに昔生活があったことから、意味や感情を呼び起こすことができるかもしれないが、やたら遠くからやってきたまったく外部の人間には、そこに昔何があったかなど一切わからない。

 

 おおよそ、大きな災害が起きた後、それが人災か天災かに関わらず社会はその記憶・記録のために取り組む。実際的な目的として、それは再発防止のための具体的な手段となりうるからであるが、同時に忘却されることに対する恐怖があるからだろう。学生の頃に訪れたイスラエルホロコースト博物館(ヤド・バシェム)にはアウシュヴィッツ絶滅収容所から回収された設備や備品だけでなく、そこで虐殺されたユダヤ人たちのポートレートや氏名が記録されていた。莫大で幾何学的な虐殺によって統計的な死に追いやられてしまう個々人の生と死を、個別の記憶として押しとどめようとする抵抗運動の一種だった。

 今回のツーリングで訪れた伝承館の多くには被災者への個別インタビューとその映像が多く展示されていた。また、タイミングが合わずどれも参加できなかったが、必ずといっていいほど「語り部」による震災当時の出来事を生の声で伝えるイベントが、各地の伝承館で開催されている。展示室のポスターに書かれた説明文のような、非人称の誰でもない語り手による不特定多数への語りではなく、特定の生きている人間が特定の生きている人間に語りかける行為によって、個別の記憶の伝承は強化されるという考えがバックにあるようだ。これは広島における原爆被害や、沖縄における戦争体験の伝承においても通じる。

 こうした「語り部」によるナラティヴについては賛否がある。敢えて否定的な考えをする。端的に言えば、伝承したところで記憶はコピーされない、ということだ。俺のばーさんは高崎の畑で草むしりをしているときにグラマンの機銃掃射を受けてなんとか逃げ延びたという話をよくするが、何度聞いてもその記憶を正確に俺がイメージしているかどうかは、ばーさんの頭の中から直接HDMIか何かで液晶画面に出力できないので、わからない。正しく伝え切れているかわからないので注記すると、うちのばーさんはコンピュータではない。それに、恐らく祖母のいうグラマングラマン社の戦闘機ではない(戦闘体験世代にとって戦闘機はすべてグラマンだし、大きな飛行機はすべてB29である)し、その記憶は曖昧で語るたびにやや細部が異なっているかもしれない。最近は祖母からそういう話も聞いていないので、先の私の話も誇張されたり重要な部分が欠落していたりするかもしれない。その意味で、伝承された先でまたそれが正確に伝承されるわけでないという弱点も、語り部によるナラティヴは抱えているといえる。ちなみにばーさんからは最近はじめて戦時中に中島飛行機の工場で働いていたことを語ってもらった。「女子どもがつくる戦闘機でアメリカに勝てるわけねえべ」と至極全うなことを言っていた。

 原爆やホロコーストの記憶についてよく言及されることだが、被害の中心にある犠牲者の記憶は一切イメージされることも、伝承されることもできないという問題もある。当然だがアウシュヴィッツガス室の中や焼却炉の中について記憶を語ることのできる人物はいないし、リトルボーイの熱波を直接浴びて蒸発した人間にその体験をインタビューすることはできない。同様に、津波に飲み込まれて犠牲になった人々にその体験を直接聞くことはできない。犠牲者の最後の瞬間は、多くの場合それが起きた瞬間に忘却されることを余儀なくされている。津波被害の瞬間を撮影した映像が色々なメディアでアーカイヴされているが、同時にアーカイブされなかった映像も多くあるはすだ。

(最近見たニュースの中で印象に残っているものに、2005年のJR福知山線脱線事故の被害者に関するものがある。多くの犠牲者が出た列車内で生き残った男性が、事故車両や遺品の保存と展示について活動しているというものだった。その活動の中に事故直前の列車内を、その他の生存者の証言から再現するいう企画があった。決して語りが届かない犠牲のその瞬間に可能な限りアプローチする、極めてユニークな取り組みだと思った。)

 

 では、インタビューや語り部のようなナラティヴは伝承において無駄なのだろうか、と考えてみる。

 重要なのは、個別の記憶から集合的な記憶への昇華だ。

 先述した通り、個別の記憶はその正確性に難があるし、死という災害におけるコアの部分において欠落がある。では、客観的で正確な語り、例えば専門家や公的な機関による調査に基づいた報告書や資料といった表現が、記憶としての機能を有するかといえば恐らくそうではないだろう。今更な定義になるが「記憶」と「記録」はやはり異なる。「記録」が調査や研究、分析に基づく客観的なものであるのに対して、「記憶」はより主観に基づき、個々人の体験に依る。個々人の主観的な体験から生じるものであり、有機的・肉体的なものであるから、「記憶」は無機的で非肉体的な「記録」よりもずっと寿命が短い。祖母が死んだら祖母が見たグラマンは永遠にどんな飛行機だったのかわからないままだろう。だが社会は記憶することに固執する。教訓という実際的な目的以上に、感情的な目的、あえていえば共同体という集合が集合であるために必要な感情を維持するための目的だ。

 集合的記憶なしに共同体は成立しえない。それは何も巨大な災害や戦争に見舞われる必要があるということではない。どこに誰が住んでいるだとか、どこに川が流れているだとか、誰がいつ病気で死んだのだとか、そうした日々の生活に発生するできごとを記憶していることが、共同体を成り立たせている。これは地方の小さな村社会だけでなく、会社組織や大学サークルやといった共同体でも同様であるだろう。

 集合的記憶はどのように形成されるのか。それは個々人の語りの反復によって成り立つ。特定の共通する体験について、共同体に属する複数の人間がそれぞれの体験に基づいて複数の語りを展開する。展開された体験は共有され、又聞きとして、また共同体の中で展開・共有されていく。これが繰り返されると、そのうち誰が語ったかという語りの個別性が次第に脱色されていき、語りの主観性は無意味なものになっていく。ここでいう語りの繰り返しは、何も口伝に限らず、地域社会を想定した場合は、地域の新聞や回覧板といったメディアかもしれないし、地域に残る石碑かもしれない。あるいは爆サイみたいなネットメディアもありえるだろう。

 震災の語りはこの過程を人為的に目指しているといえる。語り部やインタビューといったナラティヴの反復、伝承館や祈念公園といったメディアとして機能しうる建築・空間、または新聞やニュースで繰り返される被災地域の報道やドキュメンタリー、そうした複数のナラティヴと反復と輻輳集合的記憶を形成しうる。

 ここで形成される震災以後の集合的記憶なくして、被災地域における共同体の復興はありえない、のかもしれない。可視的なハードの部分では、住宅地や道路といった生活基盤の再建によって復興は進捗することができるが、そこに再現される地域社会というソフトウェアは、果たしてどのように復興させるか、集合的記憶がすべてを解決するわけではないが、少なくともその一面において震災の語りと集合的記憶は小さくない機能を有しているだろう。

 

 やや話をめんどくさくするが、「語らない」ことによる集合的記憶もありうると筆者は思っている。大川小学校で津波の犠牲となった児童の遺族の中には、震災遺構として校舎が残されることに耐えられないという人もいる。大川小学校に限らず、震災に関する情報に二度と触れたくないと思う被災者も少なくないだろう。そうした人々に語りを強要することはおろか、語りに参加させることも暴力に他ならない。共同体の中で繰り返される記憶と語りにアクセスすることができない人々は、共同体から排除されるしかないのだろうか。

 ひとつの理想として、繰り返される記憶と語りには多様性が必要だ。すべてがすべて同じような記憶に収斂してしまっては、集合的である意味がなくなってしまう。語り部は正確でないと言ったが、繰り返されるイメージに振幅があった方が、むしろその集合的記憶は強化される。「語らない」という、不在の語りは集合的記憶の幅を広げ、一義的な語りを拒否することで、むしろ集合的記憶を強化するのではないだろうか。

 陸前高田市石巻市に見た祈念公園は、被災地域の上に広大でフラットな空間を形成することで、直接的な犠牲と被害に対する語りを拒否していると解釈することもできる。だが逆に、広大でフラットな空間=余白を残すことで、震災に対する語りに自由な様態を与え、故に空間は個々人の記憶と語りでは到達できない犠牲者の語り、「祈り」という機能を獲得しているといえるだろう。

 ただし一方で、反復的な語りへの参加が共同体への参加を意味するのであって、語らないことは共同体への参加を拒否することと同義では? とこの文章を書きながら思った。語りに触れることが耐えられない、その共同体を去るしかない。避難先から故郷に帰ることを諦めた被災者は、語りへの参加を拒否した人々なのかもしれない。そのように考えるならば、地域共同体とは異なるレベルの集合的記憶が準備されるべきかもしれないと考えるし、そもそも集合的記憶が不必要なのかもしれないとも思う。誰も期待していないと思うが、この点について現時点では回答も思考も準備できていない。

 

 福島原発とその周辺地域において集合的記憶は成立しうるのだろうか? 集合的記憶の成立が復興の部分的な面でしかないことは重々承知の上であるが、一個人が復興に参画することを模索する上で、ひとつの可能性を検討する名目でまたダラダラと考えてみたい(俺は当然のこととして社会問題にはお前の言葉で参画するなり、お金を寄付したりした方が良いと思っている。)

 章の冒頭に記した通り、福島原発周辺において復興はほとんど進んでいない。津波で流された地域のほとんどは広大な平地として残っているばかりであり、帰宅困難地域もまだ完全に解除されたわけではない。震災伝承館は建ったが公園の整備計画もまだ途上だ。そもそも2050年までに本当に福島第一原発廃炉作業が完了するのか甚だ疑問であり、人間が生活するための環境基盤はまったく整備が進んでいない。

 

 浪江町の人口は国勢調査によると震災前の2010年には20,905人であったが、震災後2020年の調査では1,923人と1割以下まで減少し、浪江町の内、請戸小学校のあった請戸地区の人口は、同じく2020年時点で0人である。双葉町は震災前の2010年に6,932人の人口であったが、2020年の調査では町全体で0人という結果になっている。

 残酷なほど当たり前に、そこに人がいなければ共同体も集合的記憶もありえない。無人の地域では語るどころか、集合しようがない。

 すべてが津波に流され、整地された土地で何が語れるのだろうか。請戸小学校の被災に関する語りは重要であるが、語りにおいてそれは点でしかない。集合的な語りのためには多方向からの線が必要であるが、それは期待できない。新設された巨大な白い堤防や、真新しいアスファルトは何かを語っているかもしれないが、直接語りかけることもないし、その声を聞く住民もいない。

 あの恐ろしいほどフラットな空間の中で感じる恐怖。それは、誰にも語れることがなく、誰にも記憶されることがなく、このまま時間だけが無為に経過していくことへの恐怖だ。

 13年が経つ。余所者である俺は13年前の姿も、13年の間にあった変遷も知らない。13年前の姿を写真や資料の形で見ることはできる。恐らく、13年前の出来事を語る人々もいるだろう。だがそれらの語りは線で繋がらない。帰宅制限や避難、県外への転居がそうさせる。線で繋がらないから、それは集合的になりえない。

 それから福島原発原発について、人々はどれだけのことを語れるのだろうか? 原発事故の被害については可視的なイメージが難しい。ニュースで繰り返された原子炉建屋の水素爆発そのものが周辺地域にダメージを与えたわけでない。映像には現れない放射能が地域に被害を与えたし、建屋の水素爆発以前に、放射性物質の放出は始まっている。原発事故の対応は、確かに東京電力や政府内で記録されているが、その語りは厳重に管理されており、アクセスは制限されている。廃炉作業に関しても、その敷地内を自由に見ること、知ることは、安全衛生と保安の関係上、不可能である。イメージは常に行政と企業の管理下に、廃炉資料館のように、置かれざるをえない。

 災害は、常に刺激的な語りを求められているのかもしれないとも思う。ニュースで津波到達の瞬間が繰り返し繰り返し放映された(過去形)のもの、俺が破壊された震災遺構をわざわざ見に行こうとするのも、大衆的な昏い欲望の発露の一種に過ぎない。しかし、福島原発はそうではない。1号機、3号機、4号機の水素爆発の映像に人は一時、熱狂したかもしれないが、何百トンという大地を削り取る除染作業や何千人という住民の避難について、被災地域外の人々がそれを求めたは思えない。端的に言えばそれは地味なヴィジュアルだからだ。刺激的でない。

 語りは放置されている。記憶は時間とともに朽ち果てていき、塩害に侵食された田畑のように復活のときはないかもしれない。だから、集合的記憶の可能性は今現在、あの無人の大地の上にはありえない。語るよりも先に、廃炉作業を進め、整地された土地に生活環境基盤を整備し、住民の帰還や移住を推進し、地域産業を再興することが、当然に、最優先である。生活なきところに語りはありえないのだから、そうなる。

 

 ではどうすべきか、と次策を考えたり、「べき」と義務を論じたりする立場に俺はない。俺にはそんな権利がない。立場も権利もないが、しかし、語る自由だけはあるらしい(不思議なことに、権利はなくとも自由は存在しうる。)記憶の伝承や祈り、鎮魂といった目的を遂行しうる語りを、俺には期待できないが、とにかく語っているうちはまだ社会があることを確認できるし、懐かしい言い方をすれば、その底が抜け落ちてしまうことも防げるかもしれない。語りのネットワークが弱まっていくと、しょーもない言説や陰謀論が、ある日突然大きなパワーを以て社会の底を突き破ってくるかもしれない。

 俺たちは記憶を語ることで、社会という化け物じみた機械に、魂を与えることができる。そして、決して社会という化け物じみた機械を支配することはできないが、ケアすることはできる。

 

 最後まで語り続けたヤツの勝ちだ。言葉で戦うしかねえ。広大なフラット空間に忘却される恐怖を語り、広大なフラット空間に託された記憶と祈りを語る。語りを誰かに任せていると、不可思議なナラティブとボキャブラリーが蔓延し、気づくと自分の言葉で語れなくなる。語っている内は、まだ魂がある。

 

(ツーリングデータ)

【日程】
2024年5月3日~4日

【行った場所】
5月3日
・薄磯海岸
・いわき震災伝承みらい館
・特定廃棄物埋立情報館リプルンふくしま
東京電力廃炉資料館
東日本大震災原子力災害伝承館
・震災遺構・浪江町立請戸小学校
5月4日
釜石市立鉄の歴史館
高田松原津波復興祈念公園
・震災遺構・大川小学校
・震災遺構・旧女川交番
石巻南浜津波復興祈念公園

【使用機材】
HONDA・CBR400R

【総走行距離】
約1,225km(帰路の仙台→高崎→川崎含む)

【消費ガソリン】
数量:約42リットル
金額:約7,000円
co2排出量:約90kg

こんな感じ。