苦痛について
2017/2/20
無意味という毛布に包まって眠ってしまえ。
めちゃくちゃ久々の投稿です。自分でもこのブログの存在をすっかり忘れていた。放置していた理由はこの文章を書く理由と同じで特にない。強いていうならこのブログのトップに広告が出ていたので、なんか悔しかった。
変なタイトルをつけてしまった。岩波文庫じゃねえんだぞ。
このタイトルで書こうと思ったのは筆者が「苦痛」が好きだからに他ならない。別に殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのが好きとかそういう嗜好を持ち合わせていない。むしろメンタルが弱いのでやめてほしい。まったく別の話だけどよく「性的嗜好」が「性癖」という語に置換されてることを目撃するのだけれどこの書き方あんまり好きじゃない。こういう文句ばかり垂れる大人にはなりたくなかった。寛容の心を持て。
話が逸れすぎている。「苦痛について」。自分でもよくわからないけれど、苦痛が好きだ。自覚しているので先に言っておくとここで言ってる苦痛は結局のところ苦痛のストーリーであって我が身に降る苦痛は先程申し上げました通りご遠慮願いたい。
だから、じゃあ、それなら、あんたの言う苦痛とは何なんだ。テーマとなる概念の明確な定義がない以上、論ずるに値しない文章だ。
無意味、とりあえず一言で済ますならこの一語だと直観する。虚無だとかまた別の言い方があるかもしれない。無意味ってなんだ?
この世界(フォカヌポゥ)はあまりに意味が溢れすぎていて、意味のハザールだ(デュフフ、拙者、つい)。
人は生きる意味やら働く意味やら、家族を持つ意味、少し文脈を変えると国家の意義や歴史の意義を考えたがる。こういう超越論的な語り方はよくない。俺は村上春樹じゃないし、村上春樹は超越者じゃない。村上春樹と言えば今度また新作出るんすね。
無意味に人は耐えられないとか、そういう古代ギリシアから言われてそうな論を蒸し返す気はない(アリストテレスがそんな話をしているかどうかは知らないが、万物について語ってる連中だからそういう話もしてるはずだ)。
問題は、「苦痛」「無意味」には面白さがあるということだ。
これくらいしか話せる分野がないのでこの話になるのだけれど、「無意味」を題材にした映画はやっぱりあって、どれもこれも見応えがある。無意味をテーマに据えてんならそれ有意味じゃんとか突っ込みはやめろ。
前にブログで紹介したかもしれないが、ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』(最近BD出たよ)、それとアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』、タル・ベーラの『ニーチェの馬』がこのテリトリーのトップ3だ。リンチの『イレイザー・ヘッド』を加えてもいいかもしれないがなんか違うのでやめた。
これらの作品が示すのは人生やら人類やら世界やらはどうしようもなくどうしようもなくて、ただひたすらにつらいね、とそんなお話だ。抽象的すぎる。でもそんな感じだから仕方ない。
この意味希求的世界を吹っ飛ばしてくれる。それが個人的にどはまりで、最高なのだ。性格捻じ曲がりすぎだろ。でも世界観を吹っ飛ばす(される)というのはこれ以上ないほどに心地よいものがある。そうして無闇矢鱈に破壊しつくしていくと何もなくなる。他人の信条を破壊するのは何物にも変えられない趣きがある。俺が戦後日本の具象化だ。
「無意味」の心地よさはそれだけでない気がこの文章を書きながら湧いてきたのでこのまま続けます。
V・E・フランクルは「生きることに意味があるんじゃなくてお前がお前の人生に降りかかる問題に応えていくことが人生なんやで」と言ってた気がするが、これを悪用すると結局のところ人生は無意味でつらーい現実だけが目の前に横たわっていると、そう考えることもできる。
なんとなく、それでええやんと思えてしまうし、苦痛に抱擁されることで逆に楽になれるんじゃないかと思った。
どうせこの世は苦痛なのだ。幸福は仮初でしかなくて、端的に言えばそれは現実に生じたエラーだ。バグと言い換えてもいいかもしれない。一羽の蛾がハーバードMk2に偶然にも侵入してしまったためにコンピュータは正しく計算できなくなってしまったが、現実もそんな感じで動いてんじゃねえかと。これだと幸福とエラー出力の因果関係が逆だ。でもまあそんな感じ、フィーリングで理解してほしい。
ちょっと一歩だけ引く。お前が無意味を「好きだ」と言えるのは別にお前がそんなに苦しんでないからじゃないの?甘い人生送ってるからじゃないの?パレスチナの壁の中で、ダルフールの砂漠のうえでお前同じこと言えんの?
また一歩引く。別に筆者はパレスチナ難民でもフール族やバッガーラでもない。またそれか。でも、それは事実でこの筆者はこの筆者しかいない。日本の工場プロレタリアのしょうもない苦痛とパレスチナ難民の民族的苦痛はまったくの別物なので、並列化することはできない。この話今までのブログでもTwitterでもやったからやめていいよね。
この世は苦痛、これから目を背けると痛い目を見るんじゃねえのかと。その意味ではこの筆者の思考はただの苦痛への逃避に過ぎない。キリスト教がなんやかんやで世界宗教になってるのわかりみあるな。
自己啓発的なことは大嫌いだ。苦痛と向き合って生きていけなんて言うヤツは信用ならない。てめえに他人の苦痛はわからないだろ。とりあえず、どっか社会の片隅で、だいたい神奈川県で、「この世はつらい」と言って、それで終わり。
書けば考えもまとまるかと思ったけどそうでもなかったのでまたこのテーマでなんか書く予定にしておく。予定はいつだって無料なのだ。
そんなこんな。
アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年・ロシア)
2017/2/21
上の文章のほとんどは2月20日の深夜にスプリントミサイルの勢いで書かれたもので、今こうして投稿前に眺めてみると深夜テンションとはかくも恐ろしいものかと戦慄している(スプリントミサイルと「かく」の掛詞)。
別に精神を病んでいるわけではないので安心してほしい。至って心身ともに健康、体重が結構増えたのが悩みだ。矛盾しているようだけれど、筆者はネガティブな思考が大嫌いで、「這いつくばってでも生き延びてやるからな」と割と生命への執着は激しい方だと自負している。簡単に人間が死ねると思うなよ、一体お前の家族と社会はいくらお前に投資したと思ってるんだ。いくら日本政府の教育への公的支出がOECD最低レベルって言ってもGDP比3.5%だぞ。防衛予算の3.5倍かよ。子供一人育てる(出産から大学まで)のに1世帯3,000万円以上掛かるからな。
フランクルの悪用が見られるが、フランクルはほぼ確実に「現実は苦痛である」と知っている。そりゃお前ホロコーストを経験したらそうなる。そのまま端的なアナロジーを言ってしまえばこの世は壮大なアウシュヴィッツだ(こういう物言いは歴史学者に滅茶苦茶怒られるので真似しないでください。特にフランクフルト学派の前で言うなよ)。
繕えばアウシュヴィッツの中にも意味を見出せるかもしれないけれど、みなさんご存じの通りアウシュヴィッツにそんなものはない。無限深の虚無があるだけで、あらゆる存在から意味は剥ぎ取られる。それなのに、意味を見つけようとすると高圧電流の流れる鉄条網に飛び込むのだと思う。「ぼんやりした不安感」の正体はそういた意味への欲求によるものなのではないか。相変わらず輪郭は茫漠としたままなのだけれど。
上述の通り、「意味なんか見つけるな!」とは言わないしそんなことを言うのはこじらせ文系野郎かキチガイだ。世の文系野郎はここでキチガイと一応区別がつけられていることに感謝するように。
ただ、高圧電流の中に飛び込みたくはないなと思う。それだけです。
とりあえず、文章が長くなりすぎるのでここで一旦止める。2/20の文章では続きを書くと言っているがどうなるかはわからない。
あっ、そうだ(唐突)
去年の冬コミ出たんですけど小説サークルの現実を見せるかの如く在庫があります。
いつも通りBOOTHで通販してるから見るだけ見ってやってください。