Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

ハヤカワSFコンテストの振り返り。

 ハヤカワSFコンテストに応募して二次選考で落ちた。

 そこで講評をもらったり、最近創作に関してふわふわと考えていたことがあるので、コンテストの振り返りという名目で備忘録的にここに色々と書き記しておきたい。

 一旦色々と書いてみたけど誰かのためになりそうなことは何も書いていないので、「文章書いてる人間がどういうことをしているのか」に興味がある人向けな感じになると思います。俺はお前に対するアクチュアリティなんて知らねえよ。

 

 

1.創作に役立ったことかもしれんシリーズ

(1)ちゃんと言語文化に触れる。

 つまり本を読むってことだろ。素朴すぎるだろ。解散。バカか? アウシュヴィッツ以後に詩を書くなカス。

 

 冗談は置いておいて、応募作を書き始めるちょっと前から、どういうモチベか思い出せないのだが三島由紀夫賞受賞作を読みまくるという謎の読書企画にひとり興じていた。たぶん、同章を受賞している古川日出男の『LOVE』(めちゃくちゃ面白い)を読んで、その流れで他の受賞作を読もうという気になったらしい。ハヤカワSFコンテストの受賞作を読めよと思うが当時はまだコンテストに応募するとか微塵も考えていなかったので許して欲しい。

 

 三島賞作品で、様々な作品と文体に改めて触れることができたのが良かったのかもしれない。個人的に古川のパワーと切れ味ある文体が好きなのだが、それとは全く性格の異なる村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』の湿度のある文章、蓮實重彦『伯爵夫人』の官能的な文章、田中慎弥『切れた鎖』の重苦しい文章に付き合わされたりしたのは、時にかなりイライラすることもあったのだが、自分の文章を考える上で結構良いインプットになったと考えている。

 

 ここでいうインプットとは、そうした多種多様な文章を自分でアウトプットできるようになるためという意味ではなくて、まず色々な文章の中で自分がどんな文体を理想としているかを再確認するためのインプットだと、後付けではあるがそう考える。結果的に自分が書いた応募作の文章は受賞作の劣化コピーみたいなそれだったのだが、それはそれでまあ面白かったのでよしとしたい。

 

 ちなみに三島賞の中でおもしれーと思ったのは上述の古川日出男村田沙耶香のほか、佐伯一麦『ア・ルース・ボーイ』、鈴木清剛ロックンロールミシン』とか。やっぱり比較的あっさりというか、リズミカルな文章の方が好きかもしれん。

 そうは言いつつも、三島賞ラソン小野正嗣『にぎやかな湾に背負われた船』で挫折して進捗半分も行ってないので、また今度再開します。

 

 とにかく文章を読むこと、そしてしっかりと評価を受けた作品であること、そして多様な文章・作品に触れること。頭ではわかっていても「ウルセーコノヤロー!」と思いがちなそれなのだが、やっぱり基本はそれなんだよなと実感した。

 

 少し嫌な書き方になるけど、一時期ネット発の非常に淡白な文章の小説を読んでるときに文章を書こうとしたら自分の文章もつられて味気ないそれになってしまったことがある。もちろん読む/書くの回路を分離できていない、あるいは自分の文章を持ってない自分が悪いのだが、それ以来あまり文章に特徴がない小説は立て続けに読まないようにしている。

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古川日出男『LOVE』新潮文庫、2010年

 

(2)即興小説

sokkyo-shosetsu.com

 文体の、あるいはアウトプットの話。理想的な文章に向けてどう出力を訓練していくか。

 

 素朴な結論。出力しまくること。解散。

 

 あまり最近は周りで使っている人を見ないが、即興小説トレーニングなるサイトを時々思い出したように利用している。即興小説はその名の通り、与えられたお題に基づいて制限時間以内に一本の小説を書くと言うもので、サイトのコンセプトも「とにかく書くこと」を主眼としたものだ。

 最近さぼっているが、よくよく振り返って見ると上の三島賞ラソンと並行しながら即興小説トレーニングをやっていたのは効果的だったかもしれない。

 

 私論として、文章を書くときは頭3割の身体7割くらいの比率で文章を出力していると思っている。勿論文章をひねり出すときは頭10割だが、何万文字という長編小説を書いているとき、平均化するとアウトプットにかかるリソースの半分以上は体感的なものだと考えている。言い方は色々あるのだろうが、筆が乗っているというのは一種のトランス状態なのかもしれない。このトランス状態にどう持っていくかは、結構訓練的なそれが大きな要因を持つのではないだろうかと勝手に考えている。

 

 なので文章をアウトプットするためにはまず身体的な訓練が必要になる。なんでもいいからとりあえず書くこと。理想とする文章・文体を見つけた上で、同じような文章が出力できるよう訓練を繰り返すこと。別に毎日毎日即興小説をやっていたわけではないが、繰り返しながら文章練習をできたのはなんやかんやで後々好影響だったのではと思っている。

 

 話はだいぶ変わるが、文章の出力が身体に依るのでキーボードが変わると途端に調子が狂ったりする。先日7年間ほど使っていたポメラからスマホBluetoothキーボードの組み合わせに切り替えたが、あまり慣れていない。フリック入力も無理。スマホ上のOne noteで文章を書いて校正しているのだが、フリック入力で本文を書く気にはなれなかった。ここらへん克服できるともうちょっと作業速度速くなるんじゃね。脱身体!!!!!!!

 

 

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ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則』(菊池淳子訳)、フィルムアート社、2010年

(3)習慣化

 身体的な文章の執筆と関連することとして、物を書く上では習慣的に書くことも重要だろう。平日は忙しくて書けないから、休日にまとめて書こうとしても大抵うまくいかない。習慣的に小説の文章を書くことを身体が覚えていないといざやるぞとなってもなかなかエンジンが掛からない。筆が速い人はここらへんのスイッチがうまいのだろうが、筆者はまったくそういうのが苦手なので、習慣的に書くことにしている。具体的には出勤する直前1時間弱まで会社近くの喫茶店で書いている。休みの日はまあ気が向いたらというくらいのペース。

 外山滋比古も『思考の整理学』で言っていたが、アイデアをまとめて放出するのは朝一番が絶対に良い。頭がスッキリしていて言葉がスムーズに出てきやすいのは抜群に朝だろう。だいたい通勤時間が1時間くらいで、その間に上に挙げたような文芸を読んでたりするとよりすらすら書けたりする。一応昼休みもできたりするが、その場合は朝書いた文章を見直す程度になる。

 夜はほとんど書かない、というか書けない。仕事やってると、午後からほとんど言語出力のためのリソースが頭に残されていないのでほとんど書けないし、そういう状況で出力される文章もたいてい満足行くものではないので、疲れたら素直に休むべきだろう。体力的に余裕がある場合は同人誌用のイラストの時間に充てたりしていた。

 ブレイク・スナイダーのシナリオ・脚本術本『SAVE THE CATの法則』で言及されていたが、この著者も脚本などの文章をクリエイトすることで食べていきたい人は最初あまり頭を使わないアルバイトをやりながらプロを目指すのが良いと勧めていた。その意味も体力的に実感するところではある。

 シナリオ本の関係で行くとクリストファー・ボグラーの『物語の法則』でも習慣化について言及していた。しっかりと頭を使って文章を書くことを習慣化しておくことが重要と当然のことを言っているのだが、注意点として「脳の排泄物のような文章」では意味がないとしている。twitterみたいなカス文章の集積場でいくら言葉を積み重ねても意味がねえというのは全面同意する。インターネットをやめろ!!!!!!!!

 

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外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫、1986年

2.反省点

 

 反省していることであって実際に取り組むかどうかは知らない。

 

(1)物語の構成力

 ハヤカワSFコンテストはありがたいことに二次選考落選者に講評を送ってくれるというので、依頼してみた。一、二週間くらいしてから返信があった。

 講評内容についてはあまり詳しく書く場でもないが、大意としては「文章は良かったが、物語の展開が浅く読ませる求心力がない。設定がおざなりになっているのも残念」みたいな感じだった。こう正面からちゃんと評価されるのが久方なかったので衝撃を受けつつも、「まあそうやな~」と納得感マシマシに思った。

 

 小説を書き始めた頃から「小説/物語の書き方」みたいなスキル・ハウツー本が嫌いで、あまり珍しくもないと思うが「文章の書き方は己一人でつかみ取るもんじゃい」みたいなギザギザハートの感性で10年以上やっていた。そのせいでシナリオ・ストーリー・キャラクターの構成方法とかも全然インプットしたことがなかった。

 少し前に漫画にチャレンジしてみようと思って、その際に大塚英志の本をいくつか読んで、その流れの中で初めて映画のシナリオ・脚本術の本を手に取った。ようやく上述の『物語の法則』や『SAVE THE CATの法則』のほかシド・フィールドなどを読んで結構面白えなと思ったが、読んだだけだとあんまり習得できていないっぽい。

 書籍によるインプットとというのも、ただ読んだだけだとあまり体系的な理解ができないのが常だろう。読んだだけ本の内容なんかすぐ忘れる。やっぱりここでも習慣的なアウトプットが必要なのかもしれんなあとしみじみしているので、何かしらの方策を立てるかあとなっている。

 即興小説は物語の構成(それも長編)という面からはもっとも遠いのであまり練習にならないだろう。一時期映画を見ながらその内容を振り返って物語を分解しようと思っていたが、なかなか難しく挫折している。

 これも訓練なのかな、よくわからんわ。

 

 少し脱線して、映画の話。映画が小説の創作にどう影響するかは何もいえないが、個人的には物語のコンセプトを考える上で役に立ったと思う。イメージが明確なので、「こういう場面を文章で表現したい」に繋がりやすいのかと思う。ここ数年書いている小説も、大抵は映画からコンセプトを拝借していると今気づいた。

 

(2)「趣味的」な書き方

 文章趣味に対する態度に関する話。

 趣味で書いているから趣味なのはそりゃそうなのだが、それを言い訳にしていると面白れぇもんも書けねえんだろうなとも徒然思う。講評の中では物語の求心力という書き方になっていたが、言ってしまえば「文章・物語が独りよがり」なところが強かったのだろう。個人的に「自分の作品を他者に完全に理解されたら負け」のようなめんどくせえ価値観で文章を書いているところがあるので、そう評価されたら何も言うことはねえです。

 

 そういう独善性を抜け出して、読者の視点であるとか、読み手の楽しみ方みたいなところまで射程を延長できると書けるものもだいぶ変わってくるのかもしれない。ここらへんは読者視点の訓練が必要なのとも思うが、なかなか難しそうだ。

 学生時代にカルチャーセンターでバイトをしていたのだが、創作教室としてプロの作家を講師としつつ、作品を持ち寄って生徒同士が講評する講座があったのだが、やっぱりああいう複数の視点が絡み合うのが有効なんだろうと今更思い出したりした。

 少し話は違うが、そういえば新型コロナで酒が飲めなくなる前は割とオタク仲間たちで酒を飲んでアニメや小説がどうだ、同人誌の作り方がどうだ、とやっていたが、あれはあれで創作行為の推進力になっていたなと今更ながら思い出す。コミュニケーションが大事というのは素朴過ぎるのでここでは言いません。

 

 趣味で書いていて、読ませる対象を現時点では自分しか設定していない、「自分が読んでそれで面白ければオーケー」と考えているので、この考え方を脱却しない限りレベルアップは難しそうだ。

 

 いやでも面白えもん書くのが目標なのかな? 面白いければええんか? よくわからんわ。そこらへんよくわかっていないのにエンタメ系のコンテストに応募するなよ。

 

 それと趣味的な態度によって文章趣味を続けられているところもあるが、この点は後述する。

 

3.最近思っていること

(1)創作行為にあまり意味や価値を求めない。

 さっきの趣味の話と関連することでもあるが、あまり創作行為・文章行為に意味や価値を求めない方がいいだろうなと常々感じている。

 ネガティヴな話からすれば、一つにこれが自分の作品のクオリティに対する言い訳になるからで、端的に言ってしまえば「つまらないだろうがなんだろうが、これは俺が俺に向けて書いてんだからそれでいいだろ」という着地点を容易に見つけられるのだ。

 勿論上述した通り、その態度が作品のブラッシュアップを阻害している面もあるのだが、それと背中合わせになるように長期的なモチベ・インセンティヴの維持になっているという面もある。

 言ってしまえばマスターベーションであるのだが、自分で書いて自分で満足するという完結した構図だと、特別にこう文章行為に対して失望することがない。究極的な目標がないので、終わりなき道程をひたすら歩いている形になる。何か目標を設定して、それに届かなかったり絶望して文章行為を諦めてしまうよりは、こっちの方が良くねと、勝手に判断している。

 

 たまに「何で俺小説書いてるんやろなあ」みたいな虚無感に襲われることもあるが、そういう瞬間に耐えられるのは文章行為にそこまでウェイトを置いていないからで、そういう回避力や防御力がないと、一途に行為・趣味を継続するのは難しいんじゃないかと思う。何で文章行為を10年以上継続しているのかはよくわからないが。

 

 勘違いされたくないのは、じゃあお前の文章は本気じゃないのかい、とか言われるとそんなことはないです。書いているときは本気で文章書いていると、少なくとも自分ではそう思っていて、そうじゃなかったら十数万字のクソ長え小説書くことはねえだろ。ふざけて文章を十数万字書くのを10年以上継続してるヤツいたら狂気だろ。

 

 書いていて思ったが、文章行為が趣味として生活に接続されているというよりは、生活の延長線上にあるのだと思う。小説書いて、読んで、おもしれーと思うことはまああるが大抵は「これ早くやめてー」と常々思っている。早くやめたい趣味ってなんだよ。ある意味、家事の一種なのかもしれない。家事は苦手だが。

 応募作を書き終わって、あースッキリした、と思いつつも、何か仕掛かってないとそれはそれで気持ち悪くて、結局また長編を書いてしまって、おそらくやめる方法を知らねえんだろう。

 

  何故かMCバトルの話。呂布カルマが引退宣言した後の晋平太とぶち当たって、「お前今苦渋舐めてるの気付いてんだったらすぐやめるべきだよ これは忠告」「俺もいつか舐めることになる苦渋 ふざけんなfxck yon  俺は舐めやしねえ 舐めるとしたら俺は手前で吐いた唾を飲み込むだけ お前とは違う自分で飲み込むだけだぜ」とぶちかましたときはバチかっけえと思ったが、苦渋舐めてもやめらんねえ晋平太もリアルなんだよなあと今頃になって思う。

呂布カルマの「今日ここでお前の息の根きっちり止めてやんねえと どうせお前はやめらんねえだろうが」はマジで晋平太へのLOVEが感じられる最高のバースなのだが、俺も誰か100:0でボコしてくれ、俺の息の根を止めてくれ、マジで。

 

www.youtube.com

 (追記:ここで晋平太の言ってる「苦渋」ってバトルのことじゃなくてYoutube活動のこと言ってんじゃねと後で気づいた)

  インターネット世論の話。やめろ。TwitterなんかのSNSだとクリエイターや作家が影響力を持ちやすいからだろうが、創作行為に対する価値の付与が過剰に感じる。

 創作してるから偉いとか、まあそこまでは誰も言っていないだろうが、そんなことはない。結構「創作しなきゃ」みたいな切迫感や義務感を持っている人がいるが、仕事などでなければ創作なんかやりたいときにやるだけでいいだろ。

 それから、創作行為や創作物に何か特別な意味を与える行為も違和感を覚える。創作行為・作品はそれ以上でもそれ以下でもない、受け手側が特別な価値や意味を見出すのは自由であると思うが、書き手側が何か創作することに「祈り」のような意味を付与することには、個人的に違うだろと思っている。その「祈り」を含めて創作というのならそうかもしれないが。この話はここで終わりです。

 

付録

出てきた本一覧

古川日出男『LOVE』新潮文庫、2010年

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』朝日文庫、2012年

蓮見重彦『伯爵夫人』新潮文庫、2018年

田中慎弥『切れた鎖』新潮文庫、2010年

鈴木清剛ロックンロールミシン新潮文庫、2002年

佐伯一麦『ア・ルースボーイ』新潮文庫、1994年

小野正嗣『にぎやかな湾に背負われた船』朝日文庫、2005年

ブレイク・スナイダー『SAVE THE CATの法則』(菊池淳子訳)、フィルムアート社、2010年

クリストファー・ボグラー、デイビッド・マッケナ『物語の法則 強い物語とキャラを作れるハリウッド式創作術』(府川由美恵訳)、KADOKAWA、2013年

外山滋比古『思考の整理学』ちくま文庫、1986年

 

コンテスト応募作

 今回応募した作品はPixivで公開してます。PixivなりTwitterなりで感想貰えると助かるかもしれん。

www.pixiv.net

 

 書籍版も通販してるらしいです。 

juken.booth.pm

 

通販じゃなくても、今度9月のコミティアと11月の文学フリマ東京で新刊と併せて頒布する予定です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

昔の下書き見てたらこんな文章があった。これかもしれん。そうだな。

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