Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

リハビリテーションと2018年上半期映画私的ベスト3

はじめに

 実に一年ぶりのブログ投稿になる。

 どうして今更再開したのかというと、ここ1年専らtwitterばかりやっていて、twitterばかりやっていると、twitterをやるときの思考形式で物事を考えてしまうから、つまり、多様性の確保、とは言い過ぎだが、自分の言葉を伝えるメディア・選択しが多いには越したことないし、先述した通りにtwitterをやるときとはまた別の思考で文章を書く、という行為の必要性をなんとなく感じたからこうしてブログ文章を書いているというわけです。

 

 今の一文でなんとなく書き方を思い出してきた気がする。

 

 物を書く上で一番難しいのはそのテーマを決定することだと個人的に思う。語彙の選択や文章の構成を考えたりすることよりも、何を書くか、これを決定することが一番重要で一番難しい。

 アナロジーで書く。筆者はごくまれにイラストを描く。アマチュアのアマチュアなのでそんなにテクニックや知識・経験があるわけではないけれど、イラストの中で一番時間を要するのはキャラクターのポーズや表情を決めることである場合が多い。作業ペースがべらぼうに遅いというのもあるが、ペンタブを握っている時間の大半はペンも動かさずにポーズや表情を考えている、もしくは考えるのを諦めている。

 アナロジーが長すぎる。確かに書く(描く)目的を考えるのは重要で難しいのだが、それよりももっと重要で意義のあることはとにかく手を動かすことだとも思う。嘘か真かは知らないが、池波正太郎は弟子になりたいと希望してきた若人に「とにかく文章を書くことだ」と諭したらしい。事実かどうかはともかく、筆者もそう思う。

 イラストもそのはずなんだからもっと描けよ。

 なので今回の記事の目的は最初に述べたもの、思考の多様化とメディアの確保、を文章それ自体のメタ的な目的として、文章の内容はとりあえず描きやすい映画の話にする。もう既に8月に差し掛かろうとしているけれど、とりあえず個人的にも総括したいので2018年上半期に筆者が見た映画について簡単ではあるけれど文章化していきたい。

 とりあえず、この記事はそうした構成になっているので消費者の方々はご安心ください。生鮮食品の生産者情報に生産へのモチベーションを表記する必要はどこにもないが。

 

 筆者も含めてブログを途中でやめてしまう人って文章を書く理由を見失ってしまうからなのかなとなんとなく思う。他人のことはわからないが。

 

 今年からキネマ旬報のやってる映画鑑賞記録サービスで視聴履歴をつけることにしました。筆者がそんなに映画を見ていないことがわかるかと思いますのでご参考までに。

マキノ猶一さんのKINENOTE

 

 2018年上半期映画私的ベスト3

 最初に結論から書く方が性に合っている。

 

1.『ビューティフル・デイ

監督:リン・ラムジー、配給:クロックワークス、制作国:イギリス・フランス・アメリ

 

2.『ラッカは静かに虐殺されている

監督:マシュー・ハイネマン、配給:アップリンク、制作国:アメリ

 

3.『ラブレス』

監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ、配給:クロックワークス・アルバトロス他、制作国:ロシア

 

 正直に言うと、どれがベストワンでも問題ない。なので1位の『ビューティフル・デイ』から順々に書いていく。ベスト3の意味あんのかよ。

 

1.『ビューティフル・デイ』 ―観客不在の共感覚不可能性

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 とりあえず、今年上半期で「良かった」と言うとまず最初に、反射的にこの作品を挙げることになる。

 元々はアメリカの小説家ジョナサン・エイムズの短編小説で、これをイギリスの映画監督リン・ラムジーが映画化した作品だ。ジョナサン・エイムズについては邦訳も本作のものしかなく、あまり情報がない。コロンビア大卒、わかりみ。

 映画のあらすじ。ホアキン・フェニックス演じる"ジョー"こと元軍人のカタギでない男が、ある日御偉い議員さんから誘拐された娘の救出を依頼される。ジョーは殺しと誘拐救出のプロだ、娼館に跋扈する薄汚い男どもを抹殺せよ!……となるはずが、ある時点からストーリーは大きく転換しジョーは血生臭い陰謀に巻き込まれていく。

 あまり細かいことは言わないし、もし本作を観ることがあったら細かいところを見る必要はないと助言したい。ストーリーはシンプル、画面もシンプル、特に考察がどうとかそういうものではない。

 では見たらだいたいわかる映画かと言うと、そういうものでもない。むしろ何もわからん。フラッシュバックするジョーの過去も、ジョーの思考や行動も、何が何なのか皆目わからん、理解できないし、答えは用意されていない。

 いや、答えは確かにあるのだろうけど、それは観客の手に届くところにはない。だから、答えを見つける必要はない。ただ観客はスクリーンに映し出される映像に追随していくしかない。次のカットを予測するどころの話でない。俺はジョーでない。ジョーの思考も感情も俺が知るはずがない。ない、ない、ない。はい好き。

 なんか何も言ってない感想だな。でもそんな感じなので困る。思うに、「面白い」という感覚は理解不能/共感不可能性と密接に結びついてると思う。わかってるものを見たって仕方がない。想像の上を行かれるから我々は面白いものを面白いのだと感じるのだと、なんとなくそう考えている。

 その意味で、本作は共感不可能性を多分に秘めた作品だ。置いてきぼりにされる観客はひたすらにジョーの行方を追う。気が狂ったようなジョーの行動一つ一つに観客は見とれてしまう。突如現れる暴力に反応して、緊張感を孕んだ音楽が脳髄に染み渡れば、次には幻想的な映像。3分前の映像と整合性が取れない。なんでこんなことしてんだ/なってんだ?とひたすらに画面を追い続ける。

 ジョニー・グリーンウッドの音楽は耳に心地よく、また同時に鼓膜に障る。非現実的な幻想シーンではきらきらと輝いて、重苦しい暴力と殺人の空間では胸をざわつかせる。情緒不安定で、完璧な映画音楽だ。レディオヘッド聞き直すか。

 KINENOTEのレビューにも書いていたが、この作品はPCゲーム『Hotline Miami』を想起させる。共感不可能なキャラクターに暴力の嵐、情緒不安定な音楽、何処にも用意されていない答え、劇はプレイヤーを差し置いて勝手に飛んでいく。映画館で途中から感じていたのは、あのゲームをやっていたときの心地よさ(もしくは心地悪さ)だったのだと思う。

 共感不可能性が表現する面白さ、それを体現した作品ということで、極めて個人的な動機に基づいて上半期トップに挙げておきたい。

 

 ちなみに最初に書いたジョナサン・エイムズの原作だと、映画では断片的にしかスクリーンに登場しないジョーの過去・経歴や、確実ではないが陰謀の実態が説明されていたりする。筆者は映画を見た後に読んで楽しめたが、逆の場合は、どうだろうか、スクリーンに映されていないことを知っていると筆者の感じていた面白さが薄れてしまう気がする。しかしやはり、映画同様シンプルな文体に無駄のない構成と、雑な感想だがアメリカ文学っぽさを感じられるのでこちらもオススメしておきたい。

 

2.『ラッカは静かに虐殺されている』  ―想像の限界を超えるメディア戦争

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 申し訳ないことにいきなり愚痴から入ります。本作を観る前に同じ劇場で同じくシリアを題材にしたドキュメンタリー映画カーキ色の記憶』(名作、眠いが)を観たんですけどなんか前方のおっちゃん?がガチャガチャ機械か何かを動かしていてめっちゃうるさかった。タイピングしているような音だったが、シリア人のトラウマと懊悩を前にしてよくそんな行為に及べるなと感心した。だから俺はミニシアターに来るような人間が嫌いなんだ。以上。

 

 本作は名前の通りシリア紛争の中でイスラム国に占領された都市ラッカでの虐殺や抑圧をテーマに、それを世界に報道しようとしたシリア人ジャーナリストたちの活動を映したドキュメンタリー映画だ。

 最初はアサド政権に対する市民の抗議運動だったはずだが、あれよあれよとエスカレーションしていき政府軍vs市民軍の内紛になって、何処からやってきたのか、何故かラッカは黒装束のイスラム過激派集団に占領されてしまう。そして暴力による抑圧が始まり、ラッカのジャーナリストたちは立ち上がる。

 なんと言っても衝撃的だったのはジャーナリストとイスラム国との間で交わされるメディア戦争その様態だ。ジャーナリストらはラッカで情報収集に務める国内組と、国内組からの情報を世界に発信するためにトルコやドイツで活動する国外組に分かれる。どちらのチームも、大規模な通信設備は必要なく、パソコンとスマートフォンが専らの武器になる。それだけあれば、世界に虐殺の情報を発信する能力になる。実に現代的だが、おおよそ現代で為されたものとは思えないイスラム国の前近代的な処刑、晒し首、市中引き回し、その他暴力がスマートフォンの画面に映し出される倒錯性には眩暈を覚える。

 更に異常なのはジャーナリストに対する報復行為だ。中近東だけでなく、EU圏でもテロが起きていることが示す通り、イスラム国の構成員は国外にも潜伏している。そうしたテロリストがジャーナリストたちの後を追い、拠点や隠れ家を見つければ写真に収めてSNSに殺害予告とともに投稿する(本当に映画の悪役みたいなキャプションが付くので悪い笑顔が出てしまう)。

 加えて、イスラム国のインターネットを用いたプロパガンダもなかなかクオリティが高い。先述の殺害予告による恫喝だけでなく、イスラム戦士の募集のためのPVの出来には目を見張るものがある。映像の中でイスラム戦士たちは統制の取れた精強な兵として映り、また別の映像ではFPS視点で悪いヤツらを射殺していく戦闘映像が流れる。発展途上国で制作されたアクション映画のような演出で、十分な教育を受けていない青少年なら間違いなく影響を受けるだろう。やってること、言ってることは反近代的でややもすれば蛮族だなんて形容したくなってしまうが、持ってる技術は明らかに高度に現代化されている。この歪な構造(!)。

 筆者や読者のみなさんが今もこうして利用しているインターネット空間は、上記のような戦争や虐殺と直結している。「世界中の人と繋がれる」などという陳腐なインターネット観はもう見飽きた。繋がった先に出てきたのは処刑映像と生首と殺害予告だ。「何を今更、昔からそんな情報はインターネットに氾濫していただろう」と言う方もいるかもしれないが、個人的には、狂気と暴力に満ちた凄惨な現実がそのままインターネットにリンク・直結していくこと、相手もインターネットを多分に用いた戦略を展開して政府や公的機関の介在しない情報戦争が起きている、という事実に陳腐さは微塵も感じない。

 現実は明らかに我々の想像力を超えている。高度な通信・映像技術を持つ反近代虐殺集団と林檎印のついたスマホとノートブックPCを武器に戦うジャーナリスト集団……。不謹慎な言い方だけれど、起きている現実はそんじょそこらのフィクションよりもずっと想像力に富んでいて面白さを感じてしまう。

 歪な現実とネットを介して我々に隣接する戦争、異様な現実・現象に圧倒されるこの映画は間違いなく今年の私的ベストに入る。

 

3.『ラブレス』  ―性愛をやめろ、性愛をやめろって言ってんだよ

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 ニコニコ動画の広告で目に入って見に行くはめになった。なんでニコニコで広告やってるんだ。

 

 3位っぽく書いてるけどこれが一番でも良かった気がする。事実、気分によってはこれがベストに上がる。ランキングなんてそんなもんです。

 あらすじ。現代ロシア社会、自己愛が強くSNS中毒のためにスマートフォンを片時も手放せない嫁と、子供にも無関心で家庭を忌避する仕事第一の夫というエゴイズムに満ちた夫婦関係は破綻して離婚に向けて話が進む。家も売りに出して夫婦はそれぞれの交際(不倫)相手と次の人生を進もうとしている中、突如として子供が失踪。夫婦は互いを口うるさく罵り合いながらも、警察やボランティアの力を借りつつ子供の行方を捜すというストーリー。

 人間の性愛についてこれでもかと愚劣・醜悪に描いた傑作。性愛と生殖の果てに憎悪に満ちた夫婦と不幸な子供は生まれ、惨憺たる有様になっても夫婦はまた別の異性を見つけて性愛を繰り返す。最悪。性愛をやめろ。

 ストーリーにそれほど起伏はなく、暗色の絶望感がスクリーンを支配する。曇天のロシアは冷たく、鈍重な気分にさせる。ただどこか、冷たい画面に映る構造物たちは美しく見える。共産主義を想起させる集合住宅や巨大なパラボラアンテナ、冬の森に崩れたままの廃墟、超然と佇むそれだけは美しく、その下で人間たちは無力に動いて愚かに罵り叫ぶ。この退廃的な対比が非常にエモーショナル。

 先述した通りストーリーに大きな展開があるわけではなく、緩やかに降下しながら最後に着地点を見つける。特に何かが解決するわけではない。ネタバレになるが、発見されたそれが夫婦の子であるとは誰も断言しないし、どうしてそうなったかまでの経緯も不明で、ただ子供は永遠に夫婦の下には戻らないだろうということだけが判明する。

 そうして夫婦は不倫相手と新しい生活を始めるのだが、結局のところこの新しい性愛も不幸を生むだけだ。画面は再び色彩を欠いて暗色が支配し、元夫婦の二人はただ空虚な表情を顔面に張り付かせる。

 ラストシーン、個人的にはウクライナ紛争のニュース映像が流れる演出が非常に気に入っている。人類は愚かなので性愛も戦争もやめられない。性愛をやって憎しみをやってまたウクライナで戦争が起きて人間が死んでいく。監督の人類嫌い感が伝わってきて非常に良かった(小並感)。

 鳴りやまない性愛と憎悪の繰り返し、人間は辛い。生殖をやめろ。ロシアの冬は寒い。冬に佇むアンテナは美しい。静かで退廃的で、ロシアと人間の感情が大好き(大嫌い)な人は是非視聴してほしい。

 
おわりに

 3作分も一気にレビュー描くのキツい。ベストワンだけでよかった。いやでも『ビューティフル・デイ』も傑作だし『ラブレス』も名作なんだよなあ。

 とりあえず目的を決めて文章を書くこと、という一連のワークを完遂できたので内容のクオリティ如何に関わらず満足でした。完璧を目指すよりは完遂する方が重要だとどこかのオタクは言っていた。

 上半期ベスト3を書いてしまったからには下半期ベスト3と年間ベスト3もやらなくてはいけないだろう。めんどくさいですね。気になるのは『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』の続編とテンギス・アブラゼ監督(グルジア)の『祈り』3部作……でもまだ『カメラを止めるな!』とか見れてない。そんなに時間はない。大人1枚1800円は結構高い。

 ほどほどに飽きない程度にテーマを見つけながら、文章書いていこうと思います。

IMAGINARY ZEGEN VS URBANSCOPE

 会社から帰ってからこんなことは考えたくない。

 

 最近、「表現規制」にまつわるインターネット上の動きでかなり引っかかることがあったので(正直に言えば不満に近い感情だけど、ここではあまり関係ない)考えをまとめるためにこの文章を書くことにした。ちなみにネタバレするとこの文章を書いた結果考えはまとまっていない。

 

 事の発端は人気アニメの性的な2次創作を気に食わない人が、それを、つまり性的なイラストや漫画といった同人的な創作をやめろと提言したことらしい。

 インターネットやめろ。

 端的に言って、これは「個人的に嫌いな表現を禁止してほしい」というある種の価値観の押し付けであるので、まあバッシングを受けても仕方ないかなと思う。

 けれど、筆者が不満を抱いたのはその点ではなくて、上の意見に対するバッシングの在り方と、反論の論理的根拠についてだ。

 

 この種の表現規制に相当する批判が持ち上がったときに必ず湧き上がるのは「嫌なら見るな」と「一度表現規制を認めれば他の表現も危うくなる」という2つの根拠だ。

 本当にそれでいいのか?「嫌なら見るな」の一言で事は済まされるのか?それは、そのフレーズに凝り固まった思考停止の一種ではないのか。単純な言い方をすれば、思考がネットに支配されてないか?と、徒然疑問に思ったので色々と考えてた。

 詳しくは後述したいのだけど、別に筆者は表現規制に賛成しているわけではない。ただ、上のような言説が氾濫したり、性的2次創作を擁護する人々が数的優位を持って反対意見をぶっ潰してる(ように見える)現状がなんか気に食わない。もっとなんかあるだろ、とそんな気分なだけ、つまり結果どうこう正しさどうこうではなく表現規制に対する言説と運動の在り方について疑念があるだけです。

 まあ前置きはいい加減にして、とりあえず「嫌なら見るな」論について批判的に考えていきたい。

 

強制情報都市

 「嫌なら見るな」論の前提には、インターネットはユーザーである自分が情報を取捨選択できるので自分が不快に思う情報をディスプレイ上から切り捨てることは可能である、という論理がある(っぽい)。

 嘘じゃん。インターネットでは見たい情報だけをピックアップすることはできない。例えばtwitterFacebookのタイムラインについて考えてみる。そこにある情報は本当に全てお前が選んだもの?そのプロモーションはもちろん選んでないだろうし、フォローしてるアカウントの投稿がすべてユーザーのニーズを満たしてるわけではない。過度な単純化かもしれないが、ユーザーはフォローしてるアカウントの言説が予測できないからこそフォローしているはずだ。基準となるのは、「この人はこんな情報を提供してくれるだろう」というユーザーの憶測に過ぎない。

 また、あるアカウントが提供してくれる情報の種類は多岐に渡るので、競馬の予想情報を提供した後にラーメンの画像をシェアしたり、有名人の訃報や日経平均株価の情報を提供したりするかもしれない。botじゃないんだから当たり前だ。

 自分が欲しい情報が得られるなんて保証はどこにもないし、逆のことだって当然ある。好きな小説家をフォローして作家の私生活や新作の概況を知ろうとしたら、見たくもないその作家の日頃の生活の愚痴や奇天烈な政治観の情報が降ってくることだってある。

「それならそのアカウントのフォロー外せ」とご尤もな意見もあるだろうが、先ほど言った通り一つのアカウントから提供される情報は多岐に渡る。「この漫画家つぶやきを見たい!時々不快な情報が混じるけどそれでも有益な情報がある」という場合における選択に正解も不正解もないだろう、それは個人の問題だ。

 広大なネット上に氾濫する情報をコントロールすることなんてできない。中国共産党エルドアンだってできてないんだから、日本の一般人にできるはずがない(極論からのアナロジーは詭弁の一手段です)。

 まあSNSなら設定いじくってブロックやミュート設定をいじればある程度はコントロールできるのかもしれない。恐らく、完璧にそれを設定したときあなたのタイムラインは極めて平坦で面白みのないものとなるだろう。

 

 とりあえず、そんな中で、「嫌なら見るな」は無理がある。インターネットやめろ。

 

 派生として「見てもスルーしろ」もあるようだけどこちらも厳しいんじゃないかと。 「不快」の感情は見た瞬間に発生するものだし、そもそもその類の表現が「嫌い」という積極的な感情を持ち合わせている場合スルーすることは難しかったりする。「荒らしはスルー」なんて昔言われたのが懐かしいですね。SNSでの「荒らし」の定義なんて無理じゃね?せいぜいスパムアカウントとクソリプ製造機くらいやろなあ。

 問題を一気に難化させてしまうのだけど、「不快なものが目につく」ことが既に問題だったりする。極端に言えば「不快なものが存在し、目につく可能性があること」がそもそもの問題だ。そいつは輪郭を持った存在でないのに敵意を持ってしまうものなんてこの世の中いくらでもある。

 結論は最初から出てる。「嫌なら見るな」はあまり意味ないぞ。お前が何かストレス溜まってて何か言った気になりたいなら構わないけど。俺もこの空虚で何もない深夜の天井に得体の知れぬ感情を抱いている。

 

倒れよ我がベトナム、と国防長官は言った

「ある規制を認めれば別の種類の規制も認めることになる」論について。

 これはまあ危惧するべきことなんだろうなあと個人的にも思う。ニーメラーの言葉を引用するのは散々やられているっぽいのでここでは割愛する。

 留意するべき点は、こうしたドミノ理論は詭弁や誤謬、もしくは盲信に陥りやすいというところであるし、そうであるからこの言説への批判的視点は怠ってはいけない。冷戦期アメリカ外交を追体験したいならそれでいいと思う。

 

 レベルの問題。また極論だけど、世間一般であまりに少数派かつ非倫理的な表現(具体例なんて出したくないが特定の紛争の難民の少年少女の死体を陵辱したり損壊したりするような表現とか)は、それがいいか悪いかは別として公開を停止させられたりするだろうが、だからと言って別レベルの表現が規制されたりはしないだろう。

 自分でも何が言いたいのかこれもうわかんねえな。要は、「これが規制されたらこっちも規制されるぞ!」なんて妄想に囚われずにいること、他の表現との関連について考えることが重要だということにしておく。そうでないと、「これ規制したからこっちも規制ね」と言われたときに「その表現は以前の規制とはここがこうでこうだし関係ないからその規制は不当」とか反論できないし、上述したような極めて公開(範囲は知らん)するのが不適当と思われる表現への歯止めが効かなくなってしまう。

 混乱を防ぐためにもう一度例を。「福島県の農産物は放射能の影響で食べると三年以内にガンになると説明する、ちょっと露出の多い衣装を着た女の子のイラスト」(なんじゃそりゃ)を規制する必要があるのはどの点なのか。そんな感じで、いい感じで読み取ってくれ。俺はまだ人類のリテラシーにだって絶望しちゃいない。

 

 当初の問題あんま関係ねえなこれ。まあいいや。

 

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No one hurt

 

スタンス・スタンス・スタンス

 最初にこれ言っておくべきだったと後悔してる。

 言いたいことは最初に言っておくべきだ。

 問題に対する対処とは主張を徹底させることではなく、対立する複数の主張を調整し妥協点を見つけること、最大公約数の実現。

 もちろん、それはイデアであって現実には存在しないかもしれないのだが、インターネットはどうにも妥協させることを知らないらしいし、誰も言ってないらしかったので言っておくことにした。

 極めて個人的な思想であるのだけれど、政治とか社会とかいうものは妥協の産物であって、妥協の産物であるべきだと思っている。誰かの主張がそっくりそのまま通るわけがない。あくまで主張とは最大公約を実現するために必要な事前情報でしかなく、そのものを実現させるべきではない。

 民主主義だなどと大仰なことは言えないが、少数派の尊重は社会運営の原則だ。自分の考えに反する意見を、自身が多数派であるからとぶっ潰すさまは見ていて気分のいいものではないし、それで最大公約が実現されるとは思わない。

 例を挙げる。国民の大多数はそれなりの収入を得て贅沢ではないが貧相でもない生活を送っている。その一方で数パーセントの劣悪な労働環境や低賃金といった労働問題に苦しんでいる人々が存在する場合、この数パーセントの人々に対する救済策の必要性は数的問題ではない。貧困に苦しんでいる人々が多数派か少数派であるかは問題ではないだろ。

表現規制と労働問題は違うとかそういう批判が予想されるけど、問題解決についての数的優位と必要性の関連性について言いたいんだ。察しろ)

 そりゃまあトンデモな少数派だっているだろう。この世は唯一神が拍手するその振動によって成立しているので人類も神のように拍手することで世界の波動と合一し幸福を得ることができると主張する連中のために人類全員が拍手する必要はどこにもない。ただ、そうした集団に出会った際に「貴様たちは間違っている」と言ってぶっ潰す必要もない。彼らがひっそりと奥多摩の山奥のキャンプの中で拍手して神との合一を得られるならそれに越したことはない。一方で彼らが神の波動を使って国民に危害を加えようとする場合、消極的ではあるけれど最大公約の実現としてこれを排除することは問題ないと思う、たぶん。

 書いてて思うけどここらへん難しいっすね。最大公約とは誰にとっての最大公約とか基準が曖昧だし、そもそも完全に客観的な基準が設定できない以上やっぱりイデアと言う他ないな。それに表現規制によってある表現を規制した場合最大公約の実現のための情報って言ってるのにそれを自ら規制してメタな矛盾っぽい。33-4

 言いたいことは最後に言うに限る。数的優位と正当性と対策、それぞれの関連性は思ったより高くない。引くことを覚えろ。頼むから一歩引いてくれ。そして、もし問題をある程度、アクチュアリティを持った形で前進させたいのであれば主張を貫徹するのではなく妥協点を探すべきだ。各主張を相対化してください。

 このページは書きかけなので加筆・訂正をお願い致します。

 

 

 

 

 じぶんがたり。

「表現」という語は色々厄介な気がする。その語の中には「創作すること」から「公開すること」まで含まれてしまっているからだ。個人的に「創作すること」自体は規制されるべきではないと思う。行為そのものがある種の思想信条を伴っている場合が多々ある(というか全部そうか)ので創作行為の規制は思想の規制と同等になる。書いてて思ったが当然のことをそれっぽく言ってるだけだなこれ。

 これも勝手な個人の考えなのだけれど、創作行為はほとんど自分に向けての行為であって極めて私的なものだ。俺は俺が読みたい小説を書いて、俺が見てみたいイラストを描く。他人のために書かれた小説とか不気味じゃないすか。

 一方で「公開すること」に関しては規制とかゾーニングが必要だと考えている。特に深い考えがあるわけではなくてネットをだらだら見てて突然エロ画像とかグロ画像見せられるのは嫌だ(この突然が本当に突然だったのかがまた難しいのだけれど)。それはお前の個人的経験と好き嫌いじゃんって言われればそうなのだけれど俺は今個人的経験と好き嫌いの話をしているし表現について個人的経験と好き嫌いに踏み込まず語るヤツがいるんか。さっきお前最大公約がどうとか言ってなかった?

 エロ画像を見たいヤツはpixivなりなんなりで探してお気に入りに入れて閲覧してそれでいいじゃないんですか。描くヤツもpixivなり個人サイトで公開すればええやん。pixivの回し者かよ。

 人に文句ばっかり言う大人にはなるなよ。

苦痛について

2017/2/20

 無意味という毛布に包まって眠ってしまえ。

 

 めちゃくちゃ久々の投稿です。自分でもこのブログの存在をすっかり忘れていた。放置していた理由はこの文章を書く理由と同じで特にない。強いていうならこのブログのトップに広告が出ていたので、なんか悔しかった。

 

 変なタイトルをつけてしまった。岩波文庫じゃねえんだぞ。

 このタイトルで書こうと思ったのは筆者が「苦痛」が好きだからに他ならない。別に殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのが好きとかそういう嗜好を持ち合わせていない。むしろメンタルが弱いのでやめてほしい。まったく別の話だけどよく「性的嗜好」が「性癖」という語に置換されてることを目撃するのだけれどこの書き方あんまり好きじゃない。こういう文句ばかり垂れる大人にはなりたくなかった。寛容の心を持て。

 

 話が逸れすぎている。「苦痛について」。自分でもよくわからないけれど、苦痛が好きだ。自覚しているので先に言っておくとここで言ってる苦痛は結局のところ苦痛のストーリーであって我が身に降る苦痛は先程申し上げました通りご遠慮願いたい。

 だから、じゃあ、それなら、あんたの言う苦痛とは何なんだ。テーマとなる概念の明確な定義がない以上、論ずるに値しない文章だ。

 無意味、とりあえず一言で済ますならこの一語だと直観する。虚無だとかまた別の言い方があるかもしれない。無意味ってなんだ?

 この世界(フォカヌポゥ)はあまりに意味が溢れすぎていて、意味のハザールだ(デュフフ、拙者、つい)。

 人は生きる意味やら働く意味やら、家族を持つ意味、少し文脈を変えると国家の意義や歴史の意義を考えたがる。こういう超越論的な語り方はよくない。俺は村上春樹じゃないし、村上春樹は超越者じゃない。村上春樹と言えば今度また新作出るんすね。

 無意味に人は耐えられないとか、そういう古代ギリシアから言われてそうな論を蒸し返す気はない(アリストテレスがそんな話をしているかどうかは知らないが、万物について語ってる連中だからそういう話もしてるはずだ)。

 問題は、「苦痛」「無意味」には面白さがあるということだ。

 これくらいしか話せる分野がないのでこの話になるのだけれど、「無意味」を題材にした映画はやっぱりあって、どれもこれも見応えがある。無意味をテーマに据えてんならそれ有意味じゃんとか突っ込みはやめろ。

 前にブログで紹介したかもしれないが、ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』(最近BD出たよ)、それとアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』、タル・ベーラの『ニーチェの馬』がこのテリトリーのトップ3だ。リンチの『イレイザー・ヘッド』を加えてもいいかもしれないがなんか違うのでやめた。

 これらの作品が示すのは人生やら人類やら世界やらはどうしようもなくどうしようもなくて、ただひたすらにつらいね、とそんなお話だ。抽象的すぎる。でもそんな感じだから仕方ない。

 この意味希求的世界を吹っ飛ばしてくれる。それが個人的にどはまりで、最高なのだ。性格捻じ曲がりすぎだろ。でも世界観を吹っ飛ばす(される)というのはこれ以上ないほどに心地よいものがある。そうして無闇矢鱈に破壊しつくしていくと何もなくなる。他人の信条を破壊するのは何物にも変えられない趣きがある。俺が戦後日本の具象化だ。

 「無意味」の心地よさはそれだけでない気がこの文章を書きながら湧いてきたのでこのまま続けます。

 V・E・フランクルは「生きることに意味があるんじゃなくてお前がお前の人生に降りかかる問題に応えていくことが人生なんやで」と言ってた気がするが、これを悪用すると結局のところ人生は無意味でつらーい現実だけが目の前に横たわっていると、そう考えることもできる。

 なんとなく、それでええやんと思えてしまうし、苦痛に抱擁されることで逆に楽になれるんじゃないかと思った。

 どうせこの世は苦痛なのだ。幸福は仮初でしかなくて、端的に言えばそれは現実に生じたエラーだ。バグと言い換えてもいいかもしれない。一羽の蛾がハーバードMk2に偶然にも侵入してしまったためにコンピュータは正しく計算できなくなってしまったが、現実もそんな感じで動いてんじゃねえかと。これだと幸福とエラー出力の因果関係が逆だ。でもまあそんな感じ、フィーリングで理解してほしい。

 ちょっと一歩だけ引く。お前が無意味を「好きだ」と言えるのは別にお前がそんなに苦しんでないからじゃないの?甘い人生送ってるからじゃないの?パレスチナの壁の中で、ダルフールの砂漠のうえでお前同じこと言えんの?

 また一歩引く。別に筆者はパレスチナ難民でもフール族やバッガーラでもない。またそれか。でも、それは事実でこの筆者はこの筆者しかいない。日本の工場プロレタリアのしょうもない苦痛とパレスチナ難民の民族的苦痛はまったくの別物なので、並列化することはできない。この話今までのブログでもTwitterでもやったからやめていいよね。

 この世は苦痛、これから目を背けると痛い目を見るんじゃねえのかと。その意味ではこの筆者の思考はただの苦痛への逃避に過ぎない。キリスト教がなんやかんやで世界宗教になってるのわかりみあるな。

 自己啓発的なことは大嫌いだ。苦痛と向き合って生きていけなんて言うヤツは信用ならない。てめえに他人の苦痛はわからないだろ。とりあえず、どっか社会の片隅で、だいたい神奈川県で、「この世はつらい」と言って、それで終わり。

 

 書けば考えもまとまるかと思ったけどそうでもなかったのでまたこのテーマでなんか書く予定にしておく。予定はいつだって無料なのだ。

  そんなこんな。

 

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アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年・ロシア)

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タル・ベーラニーチェの馬』(2011年・ハンガリー)

 

2017/2/21

 上の文章のほとんどは2月20日の深夜にスプリントミサイルの勢いで書かれたもので、今こうして投稿前に眺めてみると深夜テンションとはかくも恐ろしいものかと戦慄している(スプリントミサイルと「かく」の掛詞)。

 別に精神を病んでいるわけではないので安心してほしい。至って心身ともに健康、体重が結構増えたのが悩みだ。矛盾しているようだけれど、筆者はネガティブな思考が大嫌いで、「這いつくばってでも生き延びてやるからな」と割と生命への執着は激しい方だと自負している。簡単に人間が死ねると思うなよ、一体お前の家族と社会はいくらお前に投資したと思ってるんだ。いくら日本政府の教育への公的支出がOECD最低レベルって言ってもGDP比3.5%だぞ。防衛予算の3.5倍かよ。子供一人育てる(出産から大学まで)のに1世帯3,000万円以上掛かるからな。

 フランクルの悪用が見られるが、フランクルはほぼ確実に「現実は苦痛である」と知っている。そりゃお前ホロコーストを経験したらそうなる。そのまま端的なアナロジーを言ってしまえばこの世は壮大なアウシュヴィッツだ(こういう物言いは歴史学者に滅茶苦茶怒られるので真似しないでください。特にフランクフルト学派の前で言うなよ)。

 繕えばアウシュヴィッツの中にも意味を見出せるかもしれないけれど、みなさんご存じの通りアウシュヴィッツにそんなものはない。無限深の虚無があるだけで、あらゆる存在から意味は剥ぎ取られる。それなのに、意味を見つけようとすると高圧電流の流れる鉄条網に飛び込むのだと思う。「ぼんやりした不安感」の正体はそういた意味への欲求によるものなのではないか。相変わらず輪郭は茫漠としたままなのだけれど。

 上述の通り、「意味なんか見つけるな!」とは言わないしそんなことを言うのはこじらせ文系野郎かキチガイだ。世の文系野郎はここでキチガイと一応区別がつけられていることに感謝するように。

 ただ、高圧電流の中に飛び込みたくはないなと思う。それだけです。

 

 とりあえず、文章が長くなりすぎるのでここで一旦止める。2/20の文章では続きを書くと言っているがどうなるかはわからない。

 

 

 

 あっ、そうだ(唐突)

 去年の冬コミ出たんですけど小説サークルの現実を見せるかの如く在庫があります。

 いつも通りBOOTHで通販してるから見るだけ見ってやってください。

juken.booth.pm

面白さを共有できない人(々)

 

 

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を見た。滅茶苦茶面白かった。なので、滅茶苦茶悔しかった。

 なんで悔しがる必要があるんですか、と賢明な読者は思うだろうけれど、そういう性分なので仕方がない。

 公開初日(7/29だったっけ?)にTwitterで「『シン・ゴジラ』が無茶苦茶に面白い」というつぶやきが連発されたとき、嫌な予感がした。

  その翌日

  なにやってんだこの池沼……。

 とりあえず、29日時点で『シン・ゴジラ』が面白いというつぶやきを展開している人々の様子を見ると、『パシフィック・リム』や『マッドマックス』、『ガールズ&パンツァー』のときと同じことが起きていると直観したのだと思う、当時の筆者は。

 それがどうして危機感に繋がるのかというと、上記の類の作品が大多数の人々に賞賛される環境にあると筆者はとても性格が悪くなるからだ。意地汚く陰湿な態度を取り始め、最近に至ってはそれでいて開き直り始める(この文章も開き直りの一種である)。筆者にとって危機的環境とは、ある作品が不特定多数の人に礼賛されている状況のことである。

 筆者個人の感覚は絶対的に筆者個人のものであって絶対にあなたは共有も共感もできないけれど、Twitterやらなんやらを見ていると似たような腐った感情を抱いている人は存外に多いようである。素直に映画を楽しめない人々。

 同調圧力なんて言葉が昨今の流行だけれど、「この作品を褒めてない人にはセンスがない」などという同調圧力は実は必要ない、そんなものは被害者面した消費者モドキが勝手に頭の中で組み立ててくれる。まあそんな言葉を見たら見たでニヤニヤしながら露悪的・俗悪的な感想を間接的に返すだろう。(※検索を掛けたら『シン・ゴジラ』は絶対に見るべき!みたいなブログやツイートがヒットして少し憂鬱になった)

 勘違いしないでほしいのは、この文章は「『パシフィック・リム』~『シン・ゴジラ』の系統に連なる映画を楽しんでいる人々を叩く」ために書かれたことではないということだ。あなたがそのように解釈するなら筆者は止めはしないけれど。

 「頭空っぽな映画」とか「快楽主義の塊」、「現代日本の消費主義の極致」とかそんな言葉で作品を楽しんでいる人を貶めるのは間違っている。映画が撮られ、上映されるのは人々に「面白さ」を届けるためであり、リュミエール兄弟の映画がスクリーンに映されたその瞬間から映画の面白さはすべて消費者の所有物だ。映画に聖俗の境界なんてないし、年間300本映画を見るような映画オタクと年に2、3回映画館に足を運ぶ人の映画を見る視線の間に優劣の差はない。

 で、あるから問題は筆者もしくは我々「面白さを共有できない人(々)」(※主語が大きすぎます)にある。人が折角面白い映画を見て興奮しているところに水を差すような人々に一粒でも論理的、もしくは倫理的正しさがあるとすれば勘違いも甚だしい。

 どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?自分で言っておきながら一方的に責任を押し付けられるのもなんか悔しいので色々自分に有利な理由を考えてみた。

 面白さを共有できない人(々)には「作品フォロワーの集団的意識についていけない」「同じ言葉ばかり呟いていてアホらしい」とかそんなのがあると思う。

 全部作品の外部の話じゃないか。作品そのものはどうした。

 まったく別のことを思いついたのでそっちに話をシフトさせる。「どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?」なんて問いはその人それぞれだし、そうしない理由、心情は理解はできるかもしれないが共有や共感は決してできないだろうからまあ勝手にやっててくれ、筆者も好き勝手にやっているからあなたも勝手にやってくれ。

 

 それで肝心の別の話だが、グダグダと書くの面倒くさいので結論から書いてしまおうと思う。

 

 映画の鑑賞もしくは消費行為は映画館に足を運ぶ前の情報を咀嚼し期待するところから映画館を出たあとに感想をつぶやいたりその映画を話題として会話するなど「面白さ」(あるいは「つまらなさ」)を自分なりに表現し他人と共有するまでの一連の行動によって成り立っている。

 

 例外はもちろんありふれているだろう。誰とも語り合わず、ひたすら作品を見るだけという映画の消費行動も可能だ。けれど、そんな人は当然のことながらあまりいない。

 映画を見たら誰かにその面白さを伝えたくなる。つまらなくても同様だ。しかも今ではSNSやらなにやらで簡単に不特定多数の人間に向けて発信可能で、同じ作品のフォロワーと遭遇する可能性も高い。

 何かを他人と共有することは面白い。それが「面白い映画」であればなおさらだ。今の社会(※舞台が大きすぎます)、消費行為は「食べる」「見る」「行く」等から延長して「語る」「共有する」までをも含む。まあ太古の昔から共感は人類にとって大事なテーマだったから本質的には何も変わっていないのかもしれないっす。

 作品について語る人々もそれを拒否する人々も結局作品の外部に目が行っているんじゃないだろうか。楽しむことを楽しんでいる、楽しむことを楽しめない。メタ的なことを書きたがるクセがあるけれどそんなもんじゃないかと思う。

 

 それで何が問題なのかと言われても、特に言葉は用意していない。ああ、筆者は後者だったなあとそんなふうに思って、それで終わりである。筆者はこれからも流行の映画に抵抗していくしそれをやめることはできないと思う。悔しいのう悔しいのう言いながら哀れに映画を楽しむ被害者面をした消費者モドキであり続けるだろう。

 

 忠告すると「私はこういう心情からこのように思います」という意見・感想は一切お待ちしていない。あなたがどのような感情を抱いていようが、その感情をどんなに素晴らしい筆致で描こうが誰もあなたの感覚を共有することはできない。共有できる、というのであればそれは共有した気になった人の頭の中でつくられた偽物のあなたの感情に過ぎない。であるから、ここに書かれている文章において筆者は「面白さを共有できない人(々)」という大きな主語を用いているが筆者は決してそうした人々と心情を共有し代弁しているわけではないし、もちろんあなたは筆者の感情を共有することもできない。とりあえず言っておきたいのは、個人の感覚は絶対に共有・共感できないということだ。筆者はあなたではないし、あなたは筆者ではない。

 ここまで読んでお気づきの方もいるかもしれないが、筆者は実際は「面白さ」も他人と共有することはできないと考えてる。あなたの感じる「面白さ」と他の誰かが感じる「面白さ」が同じでえあるとは限らないし、そもそもその「面白さ」はあなたのものであって他の誰のものでもない。言葉やイラストで何をどう表現しようが文字や画像といったメディアに載せられた時点で、もしくは他人のその文字や画像を見る視線が情報を変換してしまう。こればかりは譲れない、あなたは他の誰でもないし、他の誰かは決してあなたではない。

 

 

 

 

 

 じゃあ、なんでお前(筆者)は映画の面白さを綴った感想ブログをやっているんだ?

 

 

 

ルノワール、フィルム、フレーム

視覚とフレーム

 この文章はルノワール展の感想ではない。

 先日国立新美術館でやってたルノワール展に行ってきた。

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 正直、絵画を見るための審美眼なぞ持ち合わせていないので結局時代背景とか考えるだけで終わる。『ムーラン・ド・ギャレット』には近代市民社会における公共空間の登場と市民としての女性が描かれていて~とか必死に考えるのは絵画の鑑賞法をよく知らないからに過ぎない。絵を見ろよ。

 ほんで、頑張って絵を見ようとするのだが、そこでなんとなく気づいたのは額縁の存在感。当然ながら、展示されている絵は必ず額縁に入っている。けれど、中には肝心の絵以上の面積を持つ額縁とか、やたらと凝った意匠の額縁とかあってやたらと気になる。そこで色々また思いつき始めたのだが、だから、絵を見ろよ。

 フレーム。

 絵画に限らず、映画や演劇、アニメや漫画といった視覚文化においてフレームはガチのマジで重要だ。スクリーン、舞台、テレビ、コマ割り……。スクリーンとアスペクト比が一致してない映像を想像できる?舞台の存在しない演劇を想像できる?コマ割りの存在しない漫画を想像できる?だいたいこういうのはアヴァンギャルドな人たちが挑戦してきたことだから現代だとなんとなく想像はできてしまうかもしれない。

 フレームの機能は視線の集中と同時に境界の決定にある。フレームがあるから観客はどこに視線を向ければいいかわかる、対象が「作品」であるとわかる。絵画をひたすらくっつけるようにして並べてしまうとどこからどこまでが作品であるのかわからなくなってしまう。フレームは、対象が「作品」であるかを決定する。ここでわかることは観客は基本的にフレームの存在を前提に作品を鑑賞しているということだ。無意識的にと言い換えてもいい。額縁を見るために美術館を訪れる人間なんてそういないだろう。

 額縁・フレームというか境界に対する無意識のうちの認識。マグリットの下の絵とか例示にはちょうどいいかもしれない。

 ルネ・マグリット『人間の条件』(1933年)

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 この絵の中には絵画を絵画足らしめようとさせる積極的なフレームが存在せず、ただ周囲との違和感という消極的な理由によってキャンバス上の絵画は絵画として認識される。下のやつも同様。

ルネ・マグリット『Euclidean Walks』(1955年)

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 少し調べたら部屋の内部は人間の内面で外部を写し取る無意識・精神が云々とかいう絵画評論が一般的とか出てきてこれもうわかんねえな。

 あと、美術館で額縁見てるとほぼ必ず凹の形を取ることに気づいたけど、これも鑑賞者の視線を中心(絵画)に寄せていくためかなと思った。凸になって飛び出てくるような絵画なんて見たことない。そうすると額縁の効果が薄くなるからかなとなんとなく思ったので、誰か今度実験してみてください。

 映画とフレーム

  既に述べているように映画においてもフレームは重要な存在だ。スクリーンはどこからどこまでが作品なのか、広い映画館の中でどこに視線を向ければいいのか教えてくれる。(「映画館でスクリーンに目を向けないバカがいるかよ」)。

 スクリーンは額縁じゃなくね?と思うかもしれない、実際スクリーンのみを映画におけるフレームとして定義するのは無理があると思う。映画におけるフレームとなるとまた面倒なのだが、個人的には映画館という空間そのものがフレームになるのではないかと思う。演劇における舞台と同じっぽいけど演劇は全然わからないのでその道の人に聞いてください。

 フレームとしての映画館は現代よりも映画が出現したばかりの20世紀初頭の方が顕著でわかりやすい。下の画像は1930年代アメリカの映画館、演劇用の劇場をそのまま映画館に改装したような空間だ。

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 重要なのは、今の映画館と比較して装飾が仰々しいほどに施されているにも関わらず結局視線は中央の真っ白な平面(スクリーン)に無意識に向けられるということだ。

 ちょろっとだけ先に話を出していたが、絵画の額縁は凹の形を取る。それは中心に視線を集めるため、光の井戸として機能するためだが映画館にも同じことが言える。上のような装飾マシマシ映画館も現代のシンプルなつくりの映画館も構造的には絵画の額縁と一緒なのだ。視線がスクリーンの方向へ集中する錘の形をしている。スクリーンはキャンバス、映画館そのものは額縁として考えることができるかもしれない。

 

 うだうだとした話をしよう。映画におけるフレームの構造がここ最近どんどん変化してきている。3D、4DX、IMAXとか、なんか色々出てきた。またこの話かよ。一応付け加えておくと3D映画自体は既に1920年代に劇場で上映されたことがあるし1953年にもヒッチコックの3D映画『ダイヤルMを廻せ!』が上映されている。とりあえず最近の3D映画の潮流の源としてはたぶん2009年の『アバター』かなと思っている。

アルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』(1953年)

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 話を元に戻す。4DXやIMAXといった新しい上映形態が目的としているのはだいたい”臨場感の増幅”だろう。立体映像・立体音響による抱擁、4DXに至っては触覚まで刺激してくる。観客は映画の世界に連れ込まれることを強制される。

 スクリーンから観客へ、この方向性は今までになかったものだ。今まで観客は勝手にスクリーンに映る映像を勝手に見ていればよかったから、むしろ逆に”観客からスクリーンへ”という方向性があったんじゃないかと思う。

 臨場感の増幅はフレームの破壊に他ならない。フレームが生み出す境界なんて臨場感を目指す立場からしたら邪魔でしかない。映画館が破壊されてしまうとなると、あと観客に残ってるのは身体しかない。映画館というフレームをふっ飛ばして身体で直接感覚する映画。身体がフレームとして機能するかどうかはまた別の話ということで。

 「フレームを破壊するからIMAXも4DXもクソ」と言いたい気持ちがないわけではないけれど言ったところで何も意味はないのでやめておく。むしろ、今までの映画は美術や演劇と同じ視覚文化としてそれらと並列になって存在していたが自らフレームを破壊することで今後どのような形態を取っていくのか、さらにはフレームの消失に対して観客の無意識はどのような対応を取っていくのかということだ。映画館で席に座ったらスクリーンに視線を移すのが当たり前、その当たり前が変わる可能性がある。言い過ぎか、でも映画が生まれてたかだか100年ちょっとでしかない、100年で形成された伝統やら慣習なんてものは簡単に吹き飛ぶ。10年後、映画館の観客はどのように映画を見ているかなんて誰にもわからないだろう。でもやっぱり筆者はアトラクションとしての映画館には耐えられそうにない(クソザコ

 

 そんなこんなを国立新美術館で考えていた。だから、ルノワールの絵を見ろよ。

 

極めて個人的な映画関連メモ⑤

まえがき

j-makino.hatenablog.com

 これのつづきです。
 
 改めて前回書いた記事を読んでみると「邦画はクソなのか?」という問いが如何に不毛なものか実感してしまうしそんなものを書いて貴重な休みを削る愚かさに辟易する。
 別に邦画がクソだろうが何だろうが筆者の人生には何一つ関係ない。「邦画がクソ」と言われようが別にその業界に勤めているわけでもないのでどうでもいい話だ。
 一時のテンションに身を任せてこんな不毛な問いに手を出したことを深く反省している。
 いつものクセで「そもそもこのブログ自体が不毛だろ」という文章を打ってしまった。一体このブログの意味はなんなのだろうか?意味を求めるのは人間の悪いクセだと思うけれど、無意味な行動を繰り返せるほど人間は強くなかったりする。
 でもまあ一度手を出してしまったものなので一応最後までやってみようと思う。
 
 前回は確か北野映画の暴力について色々こねくり回してた気がする。「『座頭市』や『BROTHER』について言及してねーじゃん」と言われそうなアレだったけど許してほしい。初期原理主義者なので。そういや最新作を見てない。評価はそこまで悪くないので少しだけ期待しておく。
 それで、前回の終わりに紹介した気がするけど今回のスタート地点は石井隆の『GONIN』だ。まあたけしがキーパーソーンとして出演してるということで、安直な連想なのだけれど。
 

GONIN・「殺し」の映画

石井隆『GONIN』(1995年)

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  『GONIN』は一応ヤクザ映画になるのだろうか。軽くストーリーを紹介しておくと、借金まみれの社長佐藤浩市がクレイジーサイコホモ本木雅弘、頭のネジが吹き飛んだいつもの竹中直人、激強ハードボイルド根津甚八なんかを仲間に、ヤクザとそのヤクザの放った殺し屋ホモカップル(たけしと木村一八)と戦っていくというものである。何がなんだかわからんから、あらすじが知りたいのならwikipediaに行ってくれ。
 
 ほんで、この映画の何がいいかと言うとそれはやっぱり暴力と殺しの描写が良い。
 先ほど説明した登場人物たちはやはりどいつもこいつも一癖も二癖もある奇人変人ばかりで、セリフがなくともとりあえず立ってるだけでストーリーを組み上げられる怪人どもである。雰囲気がありすぎてそれぞれに与えられている設定とかどうでもよくなる。
 けれど、こいつらは一瞬で呆気なく死ぬ。佐藤浩市根津甚八はやっぱ強キャラなのか割と生き残るがその他はだいたい一瞬で死ぬ。本木雅弘はヒロインなので結構生き残る。
このギャップがたまらない。あれだけキャラ立ちさせておいて死ぬのは一瞬、そりゃ「キャラ」は銃弾もドスも防げない、スタンドじゃないんだから。
  そして、殺し殺されるその関係の空疎さが凄まじい。物語が展開すればするほど、なんでこいつら殺し合ってるのとか、そういう問いが不要になってしまう。まさしく「殺す」ために互いは「殺し」合う、この理由のなさが最高に暴力を映えさせる。最高に暴力 is Godって感じだ。
 こういう暴力がいちばん、来る。目的のない暴力、自己目的化する暴力。
 これってヤクザ映画全般に言えることじゃないかなと思った。組のためとか兄弟の契りとか色々理由はあるけど、結局のところそれらの暴力は映画的な考え方・ 手法から暴力のための暴力に転化させられている。言ってることがよくわからない。なんとなくだが、スクリーンの中で広げられてる暴力は今まさにスクリーンに映るその映像のための暴力なんじゃないか、と。当たり前だ、映画なんだから。監督がいて演出家がいてカメラマンがいて脚本家がいりゃそうなる。
 しかし、しかしだけど観客は暴力のその先に何か期待してるのだろうか。極めて個人的な意見を言えば筆者はそんな見方はしたことがないように思う。
  わかりやすく言えば、画面の中で奮闘する主人公を見ながら「勝ってほしい」と願うことはまずない。別に映画の主人公が勝ったから俺の人生が少し上方修正さ れるということはない(これは別にそういう見方を否定しているわけじゃないが)。そうじゃなくて、画面の中の主人公には「最高に戦って、最高に死んでほしい」と欲している、そんな気がする。
 幼稚な発想かもしれないけれど、人が死ぬシーンというのは物語を映えさせる重要な要素だ。間違えた。キャラクタの死が物語を映えさせるのではなく物語がキャラクタの死を映えさせる。私論じみているが、そんな感じ。前回の北野映画云々でも言った気がするけれど、どんなふうに生きるかではなく、どんなふうに殺されるかを描くことに邦画の暴力映画は注力している、それが得意な気がする(もちろん洋画がそうではないということではない)。
 『GONIN』はまさしくそれだったように思う。各キャラクタは様々な人生を持っていて、それを背景に戦ったり生き残ろうとするけれど、戦闘シーンにおいては正直そんな背景は関係なく、どうやって殺すか・殺されるかだけが画面を占領する。
 画面は冷たい。若干に映される人間ドラマはどこか薄っぺらい。暴力は唐突にやってきてあっという間に殺される。殺しの理由は確かに用意されているけれど、それが殺しに相当するかは微妙だ。けれどすべての殺しには説得力がある。嘘、最初から説得なんぞ期待していない。「殺し」の画面に理由なぞ要らないということを視聴者は思い知る(思い知らない人もいるだろう)。ただ、誰がどう誰を殺し・殺されるのか、注視する。
 『GONIN』と同じ時期に見たから連想しただけだが、『激動の1750日』にもそんな要素が多分に含まれていたと思う。

中島貞夫『激動の1750日』(1990年)

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 ストーリーは山一抗争をモデルに(というかほぼそのまま)したもので、跡継ぎ問題から組が分裂し、中井貴一率いる神岡組と夏八木勲や渡瀬恒彦らの八羽会が全面戦争を繰り広げるというものになっている。
 山一抗争自体が日本全国を巻き込んだ大規模なヤクザ抗争なので、この映画の登場人物もかなりの数となっている(そのためあんまり誰がどの役で何をやってたかあまり覚えてない、すんません)。役名を与えられた者も殺されれば、役名のないモブキャラもどんどん死んでいく。
 個人的に印象に残っているシーンとしては、陣内孝則が逃げるシーンでそれを庇った組長だったがこれでもかと銃弾を撃ち込まれるシーンだ。スローモーションの中、そんなに撃たんでも死ぬべと思うほどに銃撃が続く(他のヤクザ映画でもそうだけれど、銃弾を10発以上撃ち込まれても死なないヤクザの人々は本当に人間なのか?)。
 この映画はそんなシーンが連続する。突然街角に刺客が現れては銃をぶっぱなし敵対する組の幹部を殺したり、組の事務所にダンプで突入して皆殺しにしたり、とにかく暴力が氾濫状態だ。
 確かに山一抗争の背景なども説明されてはいる。誰がどの立ち位置で、今どんなパワーバランスなのかとか。けれど、あまりそうした政治的な展開は薄い。ヤクザたちがどんなふうに戦い殺されていくかを描いたのがこの映画なんじゃないだろうか。あくまで個人の感想だが、そんなふうに思う。
 某ニンジャスレイヤー風に言うと「ヤクザが出て死ぬ!」みたいな映画だ。
 なんかあまり褒めてないっぽいように書いているけれど、筆者はこの映画が結構好きである。ヤクザ政治の話は薄いといってもしっかり書けているし、「殺し・殺され」の関係へのこだわりも感じられる。この映画も、どのキャラクタがどんなふうに死ぬのか、それが楽しみ、というか映画を盛り上げる要素になっていると思う。
 
 結局前回と同じ結論になってしまいそうだけれど、邦画の「暴力」は人の死に方に凄まじいこだわりと持っており、またその独特の映し方が良さになっていると思う。撃たれてはい終わり、ではなく撃たれてから(撃ってから)が本番だ。戦闘は生き残るための手段ではなく死ぬための過程になる。これは言い過ぎかなと思うけれど、そう思わざるをえない。
 そういえばここまで『仁義なき戦い』とかないっすね。まあいいや。
 

野火・アプリオリの死

 ここまで北野映画や『GONIN』とか90年代映画が多かったのでそろそろ最近の映画についても触れておきたい。邦画の良さを説くのであればもちろん黒澤明岡本喜八市川崑マキノ雅弘とかそこらへんを触れておくべきだと思うし、ここまでに説明した「暴力」の魅力は上に挙げた名監督たちのフィルムでも映し出されていたはずで、それを見逃すことはできない。でも一応今回の話題は「邦画はクソ」という言葉を出発点としていて、これはたいてい「最近の」という枕詞が抜けているものなのでどちらかというと最近の方がについて話しておきたい(枕詞なので「最近の」という言葉にももちろん何の意味はない)。そういえば『日本のいちばん長い日』がリメイクされてたけど見てないので触れません。

 なので、ここ最近(2010年代?)の中でよいと思った邦画を挙げるとこれになる。

塚本晋也『野火』(2015年)

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 原作は大岡昇平の同名小説で、既に1959年に市川崑が映画化しているので「なんで今更映画化してんねん」と思いながら渋谷にユーロスペースに足を運んだ記憶があるのだが、その完成度の高さに度肝を抜かれるとともに「やっぱ……邦画の暴力を……最高やな!」なんて気分に浸っていた。若干グロデスクなシーンが多くて吐き気はしてたけど。

 そんなこんなで『野火』と暴力について色々考えてみたい。

 まず『野火』は「殺し」の映画ではない。純粋なまでに「死」の映画だ。そりゃあ戦争なんだから米軍の機銃掃射にバッタバッタ殺されるシーンはあるけれど、それは「殺し」というより不可避的な災害のようで、「殺される」というわけではない。映画の中に米兵はほとんど出てくることはないが、米軍はあらゆるところから瀕死の日本兵たちを狙ってやってくる。それはまるでギミックのようで「殺し」「殺される」という関係性にはない。こう書くとヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』っぽいな。

 日本の兵士が遥か南方のニューギニア(あれ、フィリピン戦線だったっけ?)という土地で銃も持たずに餓死していくという状況はどう考えても不条理だけれど、『野火』の中の死はほぼすべてが必然的だ、そう思わせる説得力がこの映画にはある。

 それは何故かと考えてみる。端的な言い方をすると、スクリーン中の登場人物は最初から既に死んでいるからではないかと思う。劇中で兵士たちは泣いたり笑ったり怒ったりするけれど、戦争とニューギニアのジャングルはすべてを飲み込みゼロにしてしまう。スクリーンの中の世界で兵士たちは先に死んでいる。

 映画の中ではたびたびニューギニアの美麗な大自然がこれでもかと映し出されるのだが、その滅茶苦茶綺麗な風景の下で泥沼を這いずり回る兵士たちは、まるで地獄の井戸の底にいるようにさえ見えてしまう。その中で、次々に飢えや機銃掃射により斃れていく日本兵たちはもはや生きていると言えそうにない。兵士たちが語る故郷の情景はおとぎ話のようで、「生きたい」という意思は軽薄に映る。

 スクリーンの前で観客が見るのは有象無象の日本兵の死のその過程である。その意味において、この映画には「死」が蔓延している。

 というと、スプラッター映画のようだが(実際そういう見方もできるかもしれない)、『野火』はそうした枠に留まっていない。銃弾に吹き飛ぶ四肢や鼻孔や眼窩から湧き出る蛆虫は確かにグロデスクだけれど、それ以上に人間性の限界という倫理的グロデスクがこの映画の中に待ち受けている。

 先に言った通り、この映画は根底から不条理である。徴兵された日本の一般男性が遥か南方に駆り出されて餓死するというのは不条理以外の何物でもない。そしてその不条理の極限として人肉食というテーマがやってくる。

「肉だよ!猿の肉だよ!」

 生きるために日本の兵士は現地人や同胞を殺す、それだけでも割とクるのだけれど、実は最初から彼らは死んでいると考えるとこれ以上の限界はないんじゃないだろうか。死者が死者の肉を食べるという地獄の様相、死と死が混在して蔓延して限界過ぎる。

 食料にするために人を殺す、というのは他の「殺し」とは一線を画す。「殺し」はお金や矜持、組織のために行われるものであって直接的に「腹を満たす」「生きる」ための行為ではない。「暴力」というのがある程度の社会性が基盤にあって初めて成立するものだと考えると、『野火』に現れるのはもはや暴力を超えた何かと言わざるを得ない。

 つまるところ、『野火』は肉体的・精神的両面から人間に限界を迫っていく映画であり、同時に壮大な数の人間の死とその過程を映す映画でもある。

 静かに、けれど熱く人間の死が究極的に映されていくこの映画は、2015年に公開されたものの中でトップクラスに面白かったと記憶しているし、こんな言い方はあまり好きではないけど「世界で競える」映画だと思う。もし「邦画はクソだな」と思ったら是非見てほしい作品である。ただし見るとむちゃくちゃ疲れるので各自ベストコンディションで見ることをオススメするし、視聴して気分が悪くなっても筆者は一切責任を取れないのであしからず。

 

おわりに

 本当はもっといろいろ触れるべきものがあるはずなのだけれど筆者の教養不足からここで終わりになってしまう。結論は最初から「邦画の暴力サイコー」というクッソ頭の悪いものでありそれ以上でもそれ以下でもないので特に総括らしい総括はない。

 ただ少し物申してみると、邦画は確かにレベルが落ちているかもしれない。その原因が「監督や脚本家の育成不足」とか「無能な制作会社・広告代理店」なのかは筆者には判断つかないけれど、テレビや劇場で流れる邦画の予告を見ると少し不安になる。

 しかし、今回紹介した『野火』のように素晴らしい作品を撮れる監督はそこかしこに隠れているのかもしれない。筆者自身、この『野火』を見て初めて塚本晋也という映画監督を知った。目につくものだけ一括りにして「邦画はクソ」と判断を下すのは時期尚早だし、そうした先入観があると邦画を見なくなって名作に出会える可能性も低くなってしまう。もったいない。

 最後に、ここでは触れられなかったけれど個人的に気に入っている邦画をいくつか挙げてみたい。あまり「暴力」というテーマにはこだわったセレクトではないが、こうした作品に触れて「邦画」に対する見方を一新して頂ければ幸甚である。

 

岡本喜八『激動の昭和史・沖縄決戦』(1971年)

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原一男ゆきゆきて、神軍』(1987年)

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黒木和雄『浪人街』(1990年)

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曽利文彦『ピンポン』(2002年)

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沖田修一『南極料理人』(2009年)

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 他にも色々紹介してみたいのはあるけど、今回はこんな感じで。時代が新しくなるほど暴力要素減ってね?

極めて個人的な映画関連メモ④

まえがき・「邦画はクソ」なのか?

 今回は特定の作品についてだらだらと書き記すのではなく、特定のジャンルについて書いてみようと思う。ジャンルの区分け、そもジャンルとは何かという不毛な定義論争は吹っ飛ばしていくのでそういうのは期待しないでほしい。
 んで、何故そんなことをするのかと言えば、最近周りで(と言ってもネット上の話なのだが)「邦画はクソ」という言葉をよく目にするからだ。そんな言葉はずっと昔から言われてるだろうし、それに対する反駁も昔から行われているだろうから今更筆者がごにゃごにゃ小うるさいペダンチズムを展開する必要は全くないのだが、相変わらずこのブログは極めて個人的なモチベーションに基づいて書かれているのでそういった外的な状況は考慮されていない。
 話が逸れている。「邦画はクソか?」と問われても筆者は首を縦にも横にも降ることはできない。そりゃそうだ。人はそれぞれ好き好みがあって、人によって好きな映画も異なる。前にも言った気がするけど、映画は観客それぞれの主観の中で完成する(こんなことを言った覚えはない)。なので「邦画はクソである」という客観的判断を下すことはできないし、そんなことは映画の神様にも無理だろう。
 けれど、そんなことを言ってると「では『邦画はクソである』という言葉も主観上では成り立つのだな?」と言われてしまうかもしれない。言われてしまう、でもいいけれど、ちょっと待ってほしい。それは些か性急すぎるというものだ。このブログを発端にそんな言葉を安易に口をして誰かと口喧嘩になられたら別に困りはしないけど筆者の良心が痛む。筆者はこれでも人並みの倫理観を持っていると自負している。
 筆者の良心を傷つけるためにそんな言葉を吐くのは構わないけど、本当に「邦画はクソである」と思って「邦画はクソである」と宣言するのは、だから、性急すぎると言ってるんだ。「邦画はクソである」という言葉を見たとき、筆者はなんとなくそんな思いがしたのでこのことについて考える必要があると思った。「本当に邦画はクソなのか?」と考える必要があると思った。
 先に言っておくと、先に言ったようにこの問いは不毛である。先に言ったから理由はそれを参照してほしい。ここには有意義な議論も主張も存在しない。あるとすれそれはあなたが勝手にそう思ってるだけだ。
 いい加減本題に入ろう。そんなわけで今回は「邦画はクソ」というか「邦画」に対する筆者なりの考えを述べていく。次からすぐに本論。論と呼べるようなものじゃないが。前書きが長すぎたことを謝ておく。既にあなたはここまでに1000文字強も読んでしまってるではないか!
 

邦画と「暴力」

 極めて個人的な意見なのだが、「暴力」を描くことに関しては日本映画はピカイチのセンスを持っていると思っている。
 別にフランス映画の暴力は下手くそだとか、ハリウッドの暴力は安っぽいとか言うつもりはないし、ましてや『暴力を描かないから、安直なラブロマンスしかやらないから最近の邦画はつまらないんだ!暴力を描け!BPOもPTAも地獄に堕ちろ!』と言う気は毛頭ない。
 じゃあ何が言いたいんだと言うと「日本映画は暴力を描くのがうまいなあ」という極めて素朴な感想である。それ以上でもそれ以下でもないし、それ以上にもそれ以下にもならない。
 予防線はここまでにしておく。
 暴力を描いた邦画って何?と問われるとそらもう一杯ある。海外だって一杯撮ってるし日本で撮られてない理由はない。でもまあ日本独特というとヤクザ映画とかそれなんじゃないかなと思う。『ゴッドファーザー』や『パルプ・フィクション』、『グッドフェローズ』とかマフィアものは海外にたくさんあるけど、マフィアとヤクザがイコールかと言えばあまりそうも言えなさそう。そこらへんは社会学者にでも聞いてほしい。
話を元に戻す。個人的に日本映画で暴力が軸にあるものと言うと先にも言った「ヤクザ映画」、それに「戦争映画」、加えて「時代劇」のこの3つが主要ジャンルになるかなと思った。
 注意してほしいのはすべてのこれらのジャンルが須く「暴力」をテーマにしているわけではないというところ。人情やら反戦やらなんだってテーマになる。ここで言ってる「暴力」はそんな哲学的な問いじゃない。俺はアーレントじゃない。
 でもこれらのジャンルの作品の中で「暴力」は重要なプレゼンスを持ってる。映画とは違うけど『水戸黄門』は最後必ず助さん格さんが悪代官一味をボコボコにしてから印籠を出すし(最初から出せよ)、まあ、他の2ジャンルについては例を出す必要はないかと思う。重要なのは暴力がストーリーの展開上欠かせないものかつ見せ場にもなるということだ。
 そんで、最初に戻るのだが、その暴力の見せ方が日本映画は非常にうまいなあと思うのが今回の筆者の極めて個人的な意見というか感想になっている。
個々の事例から全体の答えを見出すことは不可能なのだが、正解間違いはどうでもいいのでそんな感じに例を出していこう。
 とりあえずいちばん最初に思いついたのが北野映画なのでそこをスタート地点にしたい。個人的に邦画の中で一番好きな映画監督がたけしなのでまあそうなる。
 

北野映画・極めて感情的な無表情の暴力

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北野武ソナチネ』(1993年)

 

 北野映画はやっぱり最高の暴力映画だ。老害臭いが特に初期の頃の作品群はずば抜けて暴力を書くのがうまいと思う。『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA-BI』……。気に入ってるのはたけしや主要人物の暴力が大抵無表情な暴力となっているところだ。「ナンダトコノヤロー!」と絶叫しながらたけしがグーパンかましても、あんまりその人間の感情は拳に出てこない(気がする)。たけしの演技が下手なのかもしれない、でもあれわざとやってる、演技なんじゃないかと筆者はそう思っている。出てこないから、むしろ暴力の裏に隠れた哀愁とか不条理とか様々なものを垣間見ることができる。無表情な暴力、先に挙げた3作のラストはまさにそれだったんじゃないかなと。
 北野映画の中でいつもプレゼンスを持っているのはあの「哀愁」だ。それが暴力の演出に生きている。どんなに苛烈な暴力であっても、その背景には茫漠としたメランコリーが潜んでいる。『HANA-BI』は特に「哀愁」について意識的だったように記憶しているし、『キッズ・リターン』も「暴力」と「哀愁」が密接した作品だった。
 無表情の暴力は、逆説的ではあるけれど極めて感情的な性格を帯びる。何もないからこそ、逆に茫洋とした意味が与えられるのかもしれない。
 「無表情の暴力」「静寂な暴力」を撮れる映画監督はそう多くないと思う。前回ユーゴスラヴィア映画の話をしたときに紹介しておけばよかったのだが、『沈黙の戦場』のクリスチアン・ミリッチはそれだったかもしれない。無表情に、また静謐に暴力が展開されていく点、また画面内の色彩に統一性がもたらされている点では北野映画と雰囲気を同じにするものがあるかもしれない。

 

クリスチアン・ミリッチ『沈黙の戦場』(2007・クロアチア)

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 ただし、『沈黙の戦場』が徹底して無表情なのに対して北野映画はどこか「笑い」を、つまり表情にバリエーションを富ませていることを見逃すことはできないし、今更ではあるけれどこの「笑い」も北野映画の中では暴力と関連して重要なトピックだ。元々コメディアンなんだからまあそうなのだが。
 なんかの本で読んだ気がするのだが、「笑い」も「暴力」も本質的には不条理を出発点としている点で同じだ。風雲たけし城とかを持ち出す気はないけれど、やはり人が笑うのは不条理があるからだ。
 北野映画での「笑い」を思い出してみる。そりゃそんなシーンはいくらでもあるけれど、個人的にやっぱりコレと言いたくなるのはたけしがロシアンルーレットを試して笑うところだ(『3-4x10月』の事務所襲撃シーンも悪くないけど)。

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 このシーンで別にロシアンルーレットをすることに意味なんてない。命を張ることに意味は一切ない。けれど、気まぐれに自分の命を弄んでみせる、そのたけしの不条理な「笑い」は人間的でもあるけれどまた逆説的に究極的に無表情だ。
 また変なことを書いているので少し頭を使って書くことにする。
 自分のこめかみに銃を当てて笑えるのは、自分の生命の価値をわかっているからだ。わかっているからこそ、それを吹き飛ばすこと、吹き飛ばせることが面白く感じてしまう。そうか?面白いか?多分、観客は劇中のこのシーンのたけしを理解できないように思える。共感の対象なんかではなく、圧倒的にかけ離れた別次元の存在のように認識してしまうだろう。映画が始まってからそんな雰囲気はずっと続いているけれど、たけしは人間としてみなすのが難しいキャラクタとなっている。あまり表情変わんないし。
 非人間的な存在が「笑い」という最高に人間的な表情を見せる。この「笑い」は薄っぺらではあるけれどその薄っぺらの下には無限深の霧が満ちている。比喩表現で申し訳ないけれど、北野映画の構造はそんな感じじゃないかと思う。
 あと『その男、凶暴につき』を見返しながら思ったのはアクションシーンにそれほど華はないということだ。たけしが白竜を殺すシーンは到底「アクション」と呼べるようなものではない。それは徹底して「殺し」のシーンなのだ。他作品でもそうだけれど、スマートなアクションシーンは北野映画にはそれほどない。正直言って『ソナチネ』ラストの銃撃シーンはそんなにかっこよくはないだろ。それよりも最後の最後の車内での自殺シーンの方が最高だ。
 北野映画は徹底的に人を殺す。主人公だろうがヒロインだろうがモブキャラだろうがそこにいたら殺される。『ソナチネ』のエレベーターシーンを持ち出すのは野暮かもしれない。北野映画の「殺し」のシーンは「アクションシーン」の皮を被っている。「アクションシーン」なら俳優がどんな動きをするか、どんなふうに敵を倒し倒されるかと過程を重要視しながら撮られる(のだと思う)。けれど、北野映画の「殺し」はアクションは一応やるけどそれはオマケで「人がどんなふうに殺されるか」、つまり結果のその瞬間を徹底的に描こうとしているように思う。
 
 北野映画には「感情的な無表情の暴力」やら「無感情な人間的表情」だったり矛盾しているようだけれどそんなものたちが潜んでいる。そしてそれらがあの哀愁と静謐さを醸し出すと同時に暴力とのコントラストを生み出しているのではないかなと、ここまで書いてそんなふうに考えた。
 微妙に本題とズレるけれど、『あの夏、いちばん静かな海。』は極めて暴力的な映画だと思う。言葉を話せない・耳の聞こえない二人の悲恋というか別離を最高に静謐に、哀愁的に描いて「良いお話」にしてしまうのは、メタな見方だけれど他の北野映画と比較しても遜色ないほどに暴力的だ。個人的には『ソナチネ』『キッズ・リターン』に次いで好きな作品です。
 それと老害なので最近の北野映画はあんまり見てません。あしからず。
 

おわり

 本当はこのあと石井隆の『GONIN』とか他のヤクザ映画、もしくは東宝東映戦争映画を紹介しながら邦画特有の最高な「暴力」たちを紹介したかったのだがそれやると一万字くらい行きそうなのでやめてまた次回ということにした。長い映画が嫌われるように、長いブログも嫌われるものなんじゃないの。それと続きを書くかどうかはわからない。ただ北野映画について数千字語ったところで邦画の暴力を語れたとも思わないのでたぶんやる。
 ただし『帰ってきたヒトラー』やってるしそれを見る方が早いかも。
 
つづく