Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

全体について考えている

はじめに

先日、1年間くらいちびちび書いてたユーゴスラヴィア魔法少女小説の長編が書き終わった。書き終わると大抵半日から2日間「もう書きたくねえ〜〜〜」と嘆いてから「なんか仕掛かってないと気持ちわりい〜〜〜」となって次の作品を書く羽目になる。なので今また新しい話を書こうとしている。

 

何か書くときはとりあえず曖昧でもいいのでテーマ性を考えるようにしている。

なので、今回はそうした創作をする上でのテーマ性について、筆者の思考の整理のための文章となる。この記事の目的はここで宣言されています。

 

書き終わった小説は、とりあえずは個別性みたいなものをテーマにしていたと思う。より詳しく言えば「全体に対する個別」だったのだが、まだ構成校閲も終わってない、完成してない作品についてとやかく言うのは良くないのでここでこの話は終了する。

ただし、安易なアイデアではあるのだが、今度はテーマを反転させてみて、全体性について書いてみたいなと思った。なので、全体性について、今までに触れた作品を介しながら思考を整理していきたい。

 

『天気の子』とファシズム

ファシズムだとかいう語を使うと定義は何だ云々言われるのであまり使いたくない。ここではこの語について厳密な定義はしないが、とりあえずは

特定の社会全体の利益を中心として、社会に所属する個々人の自由が制限されるシステムやそれを希求する思想

程度には考えてもらえればいいと思う。

 

天気の子

天気の子

  • 発売日: 2020/03/04
  • メディア: Prime Video
 

 

全体性について考える契機となったのは新海誠監督の『天気の子』(2019年公開)を見て若干キレかかったことからだ。なぜキレたのか? オタクを拗らせた独身男性サラリーマンが劇場でカップルたちの囁くような会話が聞こえ続ける空間に一人置き去りにされたからか? そうではなく、このアニメ映画に極めてファシズムに近い何かを感じたからだ。

 

もう公開から1年経ってるので、読者もある程度作品について知っているだろうと勝手に前提してネタバレもやっていく。今更1年前の作品についてうだうだ語るオタク男性の言論を文字通りご笑覧しろ。

 

『天気の子』は田舎を飛び出しで東京にやってきた家出少年と天候を操作できる不思議な力を持つ少女の邂逅から始まるボーイミーツガールなセカイ系に属するアニメ映画だ。セカイ系ということで「ぼくと彼女」の関係性が「世界の破滅」と密接というか直接関わってくる。詳細は割愛するが主人公は彼女を救うか世界を救うかの二択を選ばされて、悩んだ挙句前者を選択する。故に世界(ここでは東京)は破滅的なエンディングを迎えつつも、彼女との再会を果たした主人公は「大丈夫だ」と宣言して「ぼくと彼女」の関係性はハッピーエンドを迎える。

 

何が「大丈夫」なんだーーーーーーッ!!!?!!?!!!?!

 

俺もう許せなくって…………

 

Take it easy...

セカイ系の特徴として、「ぼくと彼女」と世界の運命が直接結びつき、本来であればその間に分厚く介在するであろう大人たちの社会が捨象されているということが挙げられる。例えば少年少女の両親や家庭が描かれないことや、警察などの行政があたかも存在しなかったり影の薄いものとして物事が語られたりする。

本作でもその色は強い、むしろ意識的でさえある。未成年しか存在しない食卓、信頼ならない警察や児相、不安定な擬似家族……とりあえず、作品の性格として大人たちの社会は信頼されていない(大人たちが不在で貧しくても楽しく暮らしていける、みたいなネオリベラリストが考えそうなその「楽しい貧困」の描写はなんなんだよ)。

今までセカイ系(イリヤとか)だとそれなりに大人たちも葛藤していて、ただ大人たちには世界を変える力はなくて、最終的にはカタストロフの中に飲み込まれてしまうと中立的なポジショニングだったが、本作だとなんだか社会というシステムが悪だと敵意を向けられている。警察も児童相談所も敵であって、追いかけてくる大人たちから逃げなくてはいけない。そこまで社会を忌避する姿は少し唐突すぎる。既存の社会がそこまで嫌いなのか? それと、社会は主人公たちに非常に無関心だ。世界の秘密について知っているのは主人公とヒロインだけで、東京に住む一般的な市民たちはそんなこと知らず、ヒロインの犠牲に無邪気に喜ぶ。

そして、だからこそ主人公は世界=全体ではなく彼女を選択すると、そういう構図に見えてしまう。絶対的なヒロインというよりも、社会から離脱していくように。特徴的なことに、主人公の方向性は非常に内向的で、無理解を感じておきながら外に理解を求めることがほとんどない。

 

これは極めて個人的なジャストアイデアに過ぎないのだが、「ぼくと彼女」、あるいは「ぼく」について突き詰めていくと、究極点において反転が起きて「ぼく」という小さな問題が「全体」の問題と置き換えられてしまう、反転してしまうと考えている。

具体的な例として、「自分とは何か」について悩んだ若者たちが最終的にはハルマゲドンという「全体」の終わりと再生を夢見たオウム真理教であるとか、決定的な敗戦と国家の破滅を経験してナショナリティを損なわれたドイツ国民が自身の誇りを追い求めて第三帝国やら生存圏という野望に到達したナチズムがあると思う。

己とは何か、のような素朴で小さな疑問が一気に世界の話と接続したとき、唐突にその世界観は世界に対して暴力的になる。

 

(現代日本に跋扈するネット右翼も、ある意味そうした個の問題から全体への飛躍なのではないかと思ってる。多感な思春期にネット右翼になる者はなんとなくわかるし、会社員という身分"だけ"の自分や引退して何者であるのかよくわからなくなった中高年だとか、そうした自己の問題が単純明快に「国家」という全体に直結してしまうのではないか。一方でこういう曖昧なアイデンティティだけをキーとしてこの問題について語るのは、上述したナチズムも含めて危険ではあると思うのでアイデアレベルだとここでは逃げの姿勢を取っておく)

 

オウム真理教もナチズムも単純に社会を捨象したわけではなく、むしろ既存社会への敵意を剥き出しにして、地下鉄にサリンを散布したり、ツィクロンBをシャワー室に散布して社会の浄化を目指す。驚くべきことにサリンナチスの発明であったりする。

『天気の子』における主人公の選択がそれらとまったく同じかと言えば大いに異なるものだろうと批判は全然できるが、どこか似た匂いを感じ取ってしまう。

地下鉄サリン事件も、ホロコーストも、一つの絶対悪として捉えられるべき事件であるが、そこに至った動機については必ずしも完璧な悪意が存在したわけではないし、むしろそこには純朴な世界観が信仰や信条として存在していたはずだ。その純朴さ、素朴さこそが暴力への近道だ。リンチして総括を促せば真なる共産主義者として再覚醒可能だと考えた森恒夫を例に出したりしたいが、めんどくさいのでやめておく。

 

兎にも角にも、誰も振り向いてくれない群衆の中を走り、銃口を向けてくる大人たちに敵意と銃口を向けて、「ぼくと彼女」を選択する『天気の子』のその純朴さに、筆者はとんでもない暴力性を感じた。(そもそもとして、トロッコ問題みたいな不条理な問いを主人公にぶつけてる作り手と観客こそ最も暴力的なのでは? という問いについては余力があったら別に記述する。)

 

ファシズムは、その素朴さゆえに「全体のためを思って」という形を取るが、同時に日本とドイツがそうなったように「全体がめちゃくちゃに破壊されても構わない」という素朴な狂信でもある。

主人公の選択は文字通り全体がどうなっても構わないというものだった。その選択はしかも葛藤のない疾走で、さらに、破滅の後に主人公が苛まされる姿はほとんどないし、大人たちは「世界なんか昔から狂っていた」「以前の姿に戻っただけ」だとそう開き直りを主人公に伝えて慰める。そうして、世界を終わらせた責任を主人公は取らないまま、願いの通りにヒロインと再会して「ぼくたちは大丈夫だ」と宣言する。

世界を大変な目に遭わせておいて、「あれは仕方なかった」とか「実はあの行為は正しかった」などと開き直る構図はどこかの国でも見たことあるよなあ?! 自己の責任に対する修正主義的なその姿勢を肯定する術を筆者は知らない。

 

「『天気の子』の主人公が破滅に対して無責任である」という批判に対して「そんな責任を負わされたらそれこそ自由でなくなってしまう。これは自由の話だ」と昔どこかで反駁されたことがある。あやふやな記憶だけど。

全体の帰結に対する責任の要求は決して抑圧やファシズムではない。むしろファシズムこそ全体に対して無責任で、デモクラティックな体制下におけるあなたの選択には少なくない責任が付随する(だから全体はあなたの選択に回答する責任が生じる)。その責任を抑圧と呼ぶのは戦後民主主義に対する挑戦だぞ。オラッ

 

 

 

…………………くそが、

 

 

何が「大丈夫」なんだーーーーーーッ!!!?!!?!!!?!

 

全体に対する素朴で無責任な態度はファシストのそれだぞ!!!!!!!!

 

責任=戦後民主主義から逃げるな!!!!!!!!!!!!

 

観客も無責任と無関心を肯定してんじゃねーよ!!!!!!!!!!!!

 

お前が!!!!!!

 

お前らが!!!!!!!

 

ファシストだッ!!!!!!!!!!!!

 

 

これは完全に個人の偏見ですが、新海誠、日本が戦争状態に突入した際にめちゃくちゃ素朴な戦意高揚アニメとか作りそう。上述した物語の暴力性に加えて、あの神道に対するスピリチュアルな感性が特にそれを予感させる。

 

せかいをとりかえしておくれ、ベイベー

答えを見つけたい。ここでいう答えとは全体を如何に考えるべきかということ。

『天気の子』を観てからずうっともやもやし続けていて、それはつまり『天気の子』の素朴な個から全体への反転と選択に対する無責任さに対してどう抵抗していけばいいのかと勝手な問題意識を立てていた。そんなにまじめに考えたたわけではないが。

 

普遍的で唯一無二の「君」

昨年末あたりから聴き始めたポエトリーラップが一つ、回答を導き出すためのきっかけとなった。具体的な作品としては春ねむりのアルバム『春と修羅』だった。

春と修羅※通常盤(CD)

春と修羅※通常盤(CD)

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2018/04/11
  • メディア: CD
 

 

春ねむりの紡ぐリリックも非常に素朴かつ、全体と個別という二元性が根底に存在しているように聞こえる。特にトラック「せかいをとりかえしておくれ」は名前からわかる通り世界についての素朴な叫びを歌ってみせる。

目を引いた?(耳に残った?)のは「世界=全体」に対する「ぼくと君」の存在の有り様だ。春ねむりの歌う「君」は間違いなく「ぼく」にとってかけがえのない唯一無二の存在なのだが、それは特定の「君」ではない。性別や国籍、名前によって特別化される誰かではなく、言ってしまえば誰でもある普遍的な「君」について歌い、そして同時に「せかいをとりかえしておくれ、ベイベー!」と叫ぶ。

最初に聞いたときは「ぼく」「君」「世界」のそれぞれの対立構造かと思っていたのだが、それと同時に「ぼく」と「全体」の関係性があるように聴こえてきた。

この曲のpvがまさしくそのことを特に表していて、それぞれ関係性のない人々の顔つきが連続して映される。何か共通項をもった人々ではなく、今そこにいる君が歌の世界で語られる君なのだと、少なくとも筆者はそう解釈した。

 


春ねむり「せかいをとりかえしておくれ」Music Video

 

この関係性は次のアルバム『LOVETHEISM』に収録されている「愛よりたしかなものなんてない」でより色濃く出現する。

サビの歌詞「everything is my world, everything is your world!」がその好例で、もう僕も君も世界も一体化して、一つの有機的な全体を形成している。PVもそうした視点で見てほしい。

あと、重要なのはセカイ系では世界を救うのは彼女の犠牲であったのが、春ねむりの世界では「ぼく」が犠牲になろうとする傾向が強い。アルバム『アトム・ハート・マザー』収録の「いのちになって」『LOVETHEISM』の「海になって」、『春と修羅』表題作、などは、それまでセカイ系だったらヒロインが背負っていた概念化を自己が選択する展開になっている。

 

全体についての思考の射程と自己犠牲の精神が、『春と修羅』の元ネタだからそうなのだが、宮沢賢治の思想が非常に強い。『グスコーブドリの伝記』。あと谷川俊太郎の『二十億年の孤独』。

 

LOVETHEISM

LOVETHEISM

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2020/06/12
  • メディア: CD
 

 

アトム・ハート・マザー

アトム・ハート・マザー

  • アーティスト:春ねむり
  • 発売日: 2017/06/07
  • メディア: CD
 

 

 全体について考える

こういう構成を音楽として聴いたとき、「まず個別の有機的な集合体としての全体について考えよう」というのが思考の到達点であり、スタート地点になった。

個別の「ぼく」や「ぼくと君」についてひたすら考える、もしくは個別について考えてから全体を考えようとすると、問題が反転して素朴で暴力的な全体観に到達してしまう。それは回避したい。

しかしこの「個別の集合体」としての全体は思考する上でうまく機能しなさそうだった。それは結局、大量の「ぼく/わたし」を希釈してソリッドではなくむしろリキッドな全体として認識しているに過ぎない。ここでいう「ぼく/わたし」は目に見えない何かで、結局のところ暴力的な全体への志向に繋がるように思えた。例えると、「腐敗した政治への反逆行為によって政府は確かに転覆されるかもしれないが、それによってそれぞれ生活している人々の生が破壊されるので反逆行為は容認できない」というようなロジックだ。これはこれで、緩やかな自死を全体に強要している気がする。

もっと実体的な全体を考える必要がある。

全体は曖昧で輪郭のない雲や霧みたいな存在ではなく、確かに輪郭は見えないが今そこに確認しうる森や海のような実体的でエコロジカルな存在だと認めることが重要なのえはないかと思う。

春ねむり作品における「世界」はおおよそ「宇宙」のイメージで語られる。青く光る宇宙から地球上で呼吸をしている君までそのすべてが宇宙であり世界だ。言うまでもなく、森や海以上にエコロジカルな世界だ。セカイ系作品におけるどこかその存在自体が曖昧な「世界」と違って、「宇宙」は厳然としてそこにあるし、何よりも「ぼくと君」も宇宙という全体の一部だ。一部だから、コミュニケーションが可能だったりする。

この実体性と双方向性がキーになる。「ぼく」は「君」や「世界」のために犠牲を選択できる主体性を持ちつつ、つまり「ぼく」という存在に根ざしたまま他者とのコミュニケーションに身を投じていく。宇宙も音と光を発してメッセージ問い掛けたり、愛を伝えてきたりする。

全体と個別のインタラクティブな関係性。それはつまり現実にはめ込むとデモクラティックな政治体制に繋がる。個人の選択が全体に帰結し、全体はその選択に責任を持って回答して帰結する。この繰り返し。理想的でイデアのようなそれであることは重々承知しているが、イデアを描けるフィクションであるからこそこのインタラクティブな「ぼく」「君」「世界」の関係性、三位一体について表現していくべきなのでは?

だから、もっと会話していくべきだと思った。全体とコミュニケーションするためにはメディアが必要で、そのために社会は存在している。「社会ともっと会話しろ!!!!!!」というと陳腐に聞こえるかもしれないが、社会には様々な叫びがあってそれは全体の在り様の表象であるから、耳を傾けるべきなのだ。「世界は昔から狂ってるかもしれない」が、狂っているなら狂っている世界に対して応答するべきだ。開き直って、破滅的な選択をして、責任を回避するのではなく、社会を介しながら世界と対話し、自己の責任を遂行していくべきだ。それは難しい態度で息が詰まるかもしれないが、ファシズム体制下で窒息しないためには呼吸するための努力が必要になる。

これも一つのジャストアイデア。個別の物語から全体の物語への飛躍は危険な暴力性を秘める話をしたが、全体から個別への収斂はその逆を取るかもしれない。それは世界の為に何ができるかとか、そういう犠牲と貢献の話ではなくて、世界と断絶せずに世界と自己のとの対話の中で自己の形を見つけていくという双方向性だ。

「この部屋だけがぼくらの本当の世界だ」そう言えたのならよかったのかもしれないが、世界の在り様はそうではないし、そんなことはありえない。「ぼく」は無数の他者とのインタラクティブなコミュニケーションの中で決定していくものだろう。

おわりに

この記事は自己啓発のために書いているのではない。筆者の創作のための文章だ。

社会的なアクチュアリティのためにあれこれ考えているわけではない。

ただひとつ、創作行為も一つのコミュニケーションなんだよなあと再確認したりしている。己の考えたこと、己の思ったことを、文章やイラストの中で表現していくこと。非常に個人的な行為だと今まで考えてきたが、そうでなくて、もっと他者的なものと考えてよいのかもしれない。

その意味で、メタ的ではあるのだが、全体について色々考えたことを創作にしてみてえなと徒然思った。