Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ⑥

まえがき

 昨年あたりから映画のDVD・BD、いわゆる円盤を買うようになった。

 

 それまでは余程「面白い!」と感じない限り円盤を買うようなことはなかったのだけれど、ふと「そんなにコストかからなくね?」と気づいたのでそうすることにした。発売直後のBDやプレミア付きのものはやっぱり高価だけれど、公開・発売からそれなりに時間が経っている作品は新品でもそこまでお高くないし、なんならレンタル落ちとか格安でネットショッピング・オークションに落ちている。

 そういうわけで、最近は「これ面白かったな」と感じたヤツでネットで割と安く買える作品は積極的にDVDを購入するようになった。

  この流れの中で購入したのがE・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』で、今回の記事は本作品と同じくクストリッツァの『アンダーグラウンド』との比較を交えながら感想をだらだら書いていきたい。

 

 ちなみに『パパは出張中!』のDVDはプレミア付きで若干高かった。レンタル落ち品で8,000円くらい。高騰する前に買え!!!!!

 

 ふと、円盤をあまり積極的に購入してこなかったのはメディアがいつか利用不可能になること、永久に保存できるものではないことを(我々の世代は)経験しているからかなと思った。小学生の頃、実家の本棚や収納ボックスの中に大量に入っていたVHSはどこにいったのだろう?実家の自室にはまだアジカンやオアシスのアルバムを焼いたMDが結構残っている。メディアは永遠でなくて、いつか買い溜めた円盤を視聴する手段も失われてしまう、そのことを我々は知っている。

 

 『パパは出張中!』/『アンダーグラウンド』比較—政治と家族、記憶化するユーゴスラヴィア

 ※ここからエミール・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』と『アンダーグラウンド』についてネタバレを含んだ記述がありますが俺はネタバレするな云々とかそういうの大嫌いなんだ。ネタバレでつまらなくなる作品は最初からつまんねえんだよ。"漢"なら作品全体の構成とワンカットワンフレームその一瞬に魂<お前>を燃やせ。

 

E・クストリッツァ『パパは出張中!』(1985年)パパは、出張中!

E・クストリッツァダーグラウンド』(1995年)

アンダーグラウンド

 『パパは出張中!』の感想として『アンダーグラウンド』も取り上げたのは両者には切っても切れない相関関係があると筆者が勝手に考えているからだ。だが、まずは『パパは出張中!』単体について紹介していきたい。

 

 舞台は1950年代初頭ユーゴスラヴィアサラエヴォ。主人公の少年マリクとその一家は比較的裕福な家庭で、戦争を経験したものの幸福な生活を送っている。けれども政治情勢は厳しく、当時のユーゴスラヴィアはティトーの独自路線をよしとしないソヴィエトと厳しく対立し、ユーゴ国内では親ソ的・親スターリン的な思想と言論が弾圧されていた。折しも運悪く、マリクの父親メーシャも浮気相手に何気なく呟いた言葉が災いして反体制派として逮捕、強制労働を課せられることになる。母親セナは子供たちに父親が帰らない理由を「出張中」として説明するが、家族の生活はどんどん変化していき……というストーリー。

 一見シリアスなストーリーにも見えるが、画面の中はそれほど暗くはなく、どちらかと言えばコメディドラマ的な色彩が強い。キャラクターたちは基本前向きで個性的、かつストーリーも自然なテンポで進行し視聴者にあまり心的負荷を掛けるような構成ではない。ただし口を開かせるだけの笑いに終始することもない。感情と関係の揺らぎ、人々の愚かさや懊悩も描かれており一定の枠にはまることはない。

 主人公一家に加えて好々爺という形容の似合う祖父やメーシャを逮捕する人民委員の義兄、移住先で「ユーゴ人」を自称するロシア人医師等様々なキャラクターが出演するが舞台は壊れることがない。魅力的なキャラクターたちを揃えて自然なテンポを維持しつつ時にそのフレームを超えるクストリッツァと脚本家のシドランのバランス感覚に辟易してしまう。

 上記のように本作はユーゴスラヴィアという国家・体制批判を含みつつコメディ色豊かに家族を描き切ってみせる。

 

 「ユーゴスラヴィアという国家」と「そこに生きる家族、もしくは共同体」という二つのテーマは『パパは出張中!』(打つの面倒くさいので以下"パ!")から10年後に撮られた『アンダーグラウンド』(以下"UG")と非常に共通しており、演出の面からも両作品の関係性は明瞭だ。一方でその共通性ゆえに差異も見えてくるし、そこからクストリッツァの1985年から1995年に掛けての思想の変化も捉えられるかもしれない。

 

 まず共通点から見ていく。マクロな視点に立てば、先述した通り両者には「ユーゴという国家」と「そこに生きる家族」の二つがある。パ!はただのノンポリ親父がただの譫言が原因で政治犯として逮捕され家族が引き裂かれる。UGでは戦争の中で家族が離散し、主人公クロは権力や富に固執するもう一人の主人公マルコに騙される形で地下に幽閉されてしまう。パ!は1950年代ユーゴにおける国家の弾圧を、UGは二度の戦争と共産主義者同盟体制下における抑圧を大きなテーマ背景がある。

 どちらも体制に対して批判的だ。パ!では父親のしょうもない理由での逮捕の他に、マリクの友人の父親が国家警察に逮捕されその後死亡する顛末が描かれる。虚飾にまみれた宣誓が読み上げられる共産党の地域大会にも性格の悪さが滲み出る。UGはパ!よりも少し薄いが、大根役者が演じる大げさなプロパガンダ映画の撮影や空虚な詩が詠われる共産党主催イベントなど、党と国家をよいものとしては描かず、皮肉の対象としている。

 

 ちなみにUG公開当初は「ユーゴスラヴィアを過度に称賛している」という批判があったらしいけれど、UGは共産主義者同盟による支配をシニカルに描いているし、パ!のより明確なユーゴ批判を見てたらクストリッツァがそんなお気楽ユーゴスラヴィア人でないとわかるんだよな。クストリッツァは確かに「ユーゴスラヴィア」をいい感じの意味で使ってたりするけど、ここで言う「ユーゴスラヴィア」は国家や地域についての語ではなくて「多様性を包括すること・共存すること」に基盤を置く文化・精神の一種だとおじさんは思うんだ。

 

 そして家族・共同体だが、このテーマをもっとも前面に押し出すのは両者ともラストにある。両方ともそれまで劇に出てきたキャラクターたちが一堂に会す結婚式を舞台をラストのそれに選ぶ。そこでは家族・親族・友人と様々な関係を持つ人々が集結し、問題の清算・総括(またはその逆)が展開される。パ!はなんとか元の住処に帰ってきたところを親族や友人らが出迎え、UGでは戦争の中で離散していった共同体が(現実ではないどこかで)復活し過去の清算を行う。離散からの集合大好きか?

 

 他にも気になる点はいくつかあるけれどキリがないし、共通点の列挙というのは本来もっと慎重にやるべき行為だと思い出しました。

 ともあれ、ユーゴという国家とその舞台の中で離別を経験する家族・共同体、そしてラストにおける過去の清算という構造が両者に共通していることはわかると思う。いや作品見ればわかるんだが。

 それで、ここからが書きたかったことなんですが、両者の違いについて、そこから勝手に妄想するクストリッツァ作品の思想の変化。

 

 文章が長くなるので簡潔にまとめるけれど、最大の相違点はラストの結婚式で交わされる許しについての質問への回答だ。どのような質問か?パ!はメーシャを逮捕し家庭をめちゃくちゃにしてしまった義兄がメーシャに許しの可否を問う。UGでも、血はつながっていないが兄弟のようなクロとマルコの二人が盃を交わし、クロを騙していたことについてマルコが許しを請う。流れはほとんど同じだ。

 兄弟分の所業によって苦難を味わったメーシャとクロ、二人の回答は以下のようになる。

 

メーシャ「忘れる。許すのは神だ」

クロ「許そう。だが、忘れないぞ」

 

 この違いは決定的だ、少なくとも筆者はそう思う。

 メーシャは許しの主体は自分にないと宣言してしまうし、罪そのものについての忘却さえ言い切ってしまう。許す/許さない、でなく罪そのものをなかったことにしてしまう。メーシャにとって義兄から受けた苦渋の経験はもはや彼にとって意味を持っておらず、ただ元通りにサラエヴォでの家族生活に戻るだけである。

 パ!は原則的に責任の所在を明確にしない。上記のように義兄の罪は罪そのものがなかったことにされるし、メーシャ逮捕の遠因となった浮気相手は自殺を試みるが失敗する。罪に対して明確な罰が下されることはない。もっともらしく言えば、義兄の罪が永遠に許されないこと、浮気相手は贖罪できずに生き続けることはある種の罰かもしれないが、ラストにそこまで悲壮感はない。誰も悪くなかった、すべて国家と時代が悪かった、「政治なんてクソくらえだ」、というのが結論と言えるかもしれない。

 他方、UGのクロはメーシャとは異なり、明確に許しをマルコに与えている上に、その罪について「忘れないぞ」とまで言い切ってしまう。劇中においてマルコが後半から確実に罪人・悪人として位置づけられている点もパ!とは異なる。

 パ!では許しもしないし記憶もしなかった政治による苦痛が、UGでは許しと記憶の対象となっている。この差は非常に大きい。

 

 ここで一度作品背景に立ち戻る。1985年から1995年の10年間にユーゴスラヴィアクストリッツァが体験したのは祖国の崩壊だ。

 1985年は既にティトーが死去し政治経済に不穏の影が差し迫っていたが、84年にはサラエヴォ五輪が開催されるなど、まだ安定した社会情勢を保っていた。けれども同時期から悪化する経済情勢と相まって民族主義が台頭し始める。これが90年代初頭に暴発しユーゴ構成国家・民族間での紛争へと発展していく。ボスニアは1992年に独立を宣言し、これを認めないセルビア人勢力と独立派のボシュニャク人(ムスリム)勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の紛争が勃発する。

 紛争は3年ほど続き、国際社会の介入もあって1995年に一応の決着を見せる。しかし、紛争による死者は20万人(当時の人口の5%弱)、ボスニア各地は戦闘によって荒廃、ユーゴスラヴィア国家もセルビアモンテネグロを残してほぼ分断されることになる。

 

  UGが公開されたのは1995年5月のカンヌで、同年10月にボスニア紛争は停戦に至る。既に旧ユーゴ構成国家の大半が連邦を離脱し、「ユーゴスラヴィア」は完全に解体されていた。

 UGもこの祖国解体の顛末が描かれている。WW2から始まり、ユーゴ紛争に終わる国家の歴史を寓話的に描き出すことによって、UGはユーゴスラヴィアという過去・記憶を総括しようとする。その総括として、UGでは主人公クロは「許そう。だが、忘れないぞ」と言葉にする。クストリッツァにとって既にこのとき「ユーゴスラヴィア」は記憶するべき、または歴史的判断を下すべき過去になっている。

 それと比較してみると、パ!は過去ではなく現在の話をしている。1950年代という舞台は撮影より30年も前の話ではあるが、ユーゴスラヴィアの国家・社会に生きる市井の人々を映し出す。まだユーゴはあるし、生活は続いていく。メーシャが義兄から許しを問われても、許しと記憶どちらも選択しないのは過去を総括する必要がないからだ。

 現在・現実としてのユーゴスラヴィアと家族を描く『パパは出張中!』、過去・記憶としてのユーゴスラヴィアを描く『アンダーグラウンド』、共通性を持ちクストリッツァ作品の醍醐味ともいえる要素を孕んだ両作品だが、ユーゴスラヴィアという時代への対照的な視点と変化に、ユーゴスラヴィアもしくはクストリッツァが経験した過去と記憶の総括が多分に含まれ、表現されているのではないだろうか。

 とりあえず筆者はメーシャからクロへの、この思想と視点の変化にエモーショナルを感じずにはいられない。今回の記事はそれが言いたかっただけです。

 

 今なんとなく思いついたことだけれど、パ!とUGの現在・過去の比較には演出の魔術性も深く関与しているような気がする。具体的に。現実にはありえないファンタジックな演出がUGでは多く見られるが、パ!では少年マリクの不可思議な夢遊病を除いてそうした演出はあまり見られない。ある種の寓話として描かれるUGと、現在について語るパ!を比較する上でクストリッツァ作品で多用されるそうした魔術的演出の有無は割と重要な意味を持っているだろう。ただ、魔術的なそれは1989年の『ジプシーのとき』、1992年の『アリゾナ・ドリーム』から決定的にクストリッツァ作品に現れてくるのでUG特有の表現ではない。どちらかというと魔術的なそれはUGが到達点で、UG以後は代わって動物のモチーフが多用されてくる(『黒猫・白猫』(1998年)『ライフ・イズ・ミラクル』(2004年))。特に2016年の『オン・ザ・ミルキーロード』では非常に動物のイメージが画面に現れる。筆者個人としては、コメディ的な動きと人間に対するシニカルさを同時に表現するUGから連なる寓話性の連続の一部として見ているけれど、考えがまとまらないのでここらへんにしておく。