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Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

面白さを共有できない人(々)

 

 

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を見た。滅茶苦茶面白かった。なので、滅茶苦茶悔しかった。

 なんで悔しがる必要があるんですか、と賢明な読者は思うだろうけれど、そういう性分なので仕方がない。

 公開初日(7/29だったっけ?)にTwitterで「『シン・ゴジラ』が無茶苦茶に面白い」というつぶやきが連発されたとき、嫌な予感がした。

  その翌日

  なにやってんだこの池沼……。

 とりあえず、29日時点で『シン・ゴジラ』が面白いというつぶやきを展開している人々の様子を見ると、『パシフィック・リム』や『マッドマックス』、『ガールズ&パンツァー』のときと同じことが起きていると直観したのだと思う、当時の筆者は。

 それがどうして危機感に繋がるのかというと、上記の類の作品が大多数の人々に賞賛される環境にあると筆者はとても性格が悪くなるからだ。意地汚く陰湿な態度を取り始め、最近に至ってはそれでいて開き直り始める(この文章も開き直りの一種である)。筆者にとって危機的環境とは、ある作品が不特定多数の人に礼賛されている状況のことである。

 筆者個人の感覚は絶対的に筆者個人のものであって絶対にあなたは共有も共感もできないけれど、Twitterやらなんやらを見ていると似たような腐った感情を抱いている人は存外に多いようである。素直に映画を楽しめない人々。

 同調圧力なんて言葉が昨今の流行だけれど、「この作品を褒めてない人にはセンスがない」などという同調圧力は実は必要ない、そんなものは被害者面した消費者モドキが勝手に頭の中で組み立ててくれる。まあそんな言葉を見たら見たでニヤニヤしながら露悪的・俗悪的な感想を間接的に返すだろう。(※検索を掛けたら『シン・ゴジラ』は絶対に見るべき!みたいなブログやツイートがヒットして少し憂鬱になった)

 勘違いしないでほしいのは、この文章は「『パシフィック・リム』~『シン・ゴジラ』の系統に連なる映画を楽しんでいる人々を叩く」ために書かれたことではないということだ。あなたがそのように解釈するなら筆者は止めはしないけれど。

 「頭空っぽな映画」とか「快楽主義の塊」、「現代日本の消費主義の極致」とかそんな言葉で作品を楽しんでいる人を貶めるのは間違っている。映画が撮られ、上映されるのは人々に「面白さ」を届けるためであり、リュミエール兄弟の映画がスクリーンに映されたその瞬間から映画の面白さはすべて消費者の所有物だ。映画に聖俗の境界なんてないし、年間300本映画を見るような映画オタクと年に2、3回映画館に足を運ぶ人の映画を見る視線の間に優劣の差はない。

 で、あるから問題は筆者もしくは我々「面白さを共有できない人(々)」(※主語が大きすぎます)にある。人が折角面白い映画を見て興奮しているところに水を差すような人々に一粒でも論理的、もしくは倫理的正しさがあるとすれば勘違いも甚だしい。

 どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?自分で言っておきながら一方的に責任を押し付けられるのもなんか悔しいので色々自分に有利な理由を考えてみた。

 面白さを共有できない人(々)には「作品フォロワーの集団的意識についていけない」「同じ言葉ばかり呟いていてアホらしい」とかそんなのがあると思う。

 全部作品の外部の話じゃないか。作品そのものはどうした。

 まったく別のことを思いついたのでそっちに話をシフトさせる。「どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?」なんて問いはその人それぞれだし、そうしない理由、心情は理解はできるかもしれないが共有や共感は決してできないだろうからまあ勝手にやっててくれ、筆者も好き勝手にやっているからあなたも勝手にやってくれ。

 

 それで肝心の別の話だが、グダグダと書くの面倒くさいので結論から書いてしまおうと思う。

 

 映画の鑑賞もしくは消費行為は映画館に足を運ぶ前の情報を咀嚼し期待するところから映画館を出たあとに感想をつぶやいたりその映画を話題として会話するなど「面白さ」(あるいは「つまらなさ」)を自分なりに表現し他人と共有するまでの一連の行動によって成り立っている。

 

 例外はもちろんありふれているだろう。誰とも語り合わず、ひたすら作品を見るだけという映画の消費行動も可能だ。けれど、そんな人は当然のことながらあまりいない。

 映画を見たら誰かにその面白さを伝えたくなる。つまらなくても同様だ。しかも今ではSNSやらなにやらで簡単に不特定多数の人間に向けて発信可能で、同じ作品のフォロワーと遭遇する可能性も高い。

 何かを他人と共有することは面白い。それが「面白い映画」であればなおさらだ。今の社会(※舞台が大きすぎます)、消費行為は「食べる」「見る」「行く」等から延長して「語る」「共有する」までをも含む。まあ太古の昔から共感は人類にとって大事なテーマだったから本質的には何も変わっていないのかもしれないっす。

 作品について語る人々もそれを拒否する人々も結局作品の外部に目が行っているんじゃないだろうか。楽しむことを楽しんでいる、楽しむことを楽しめない。メタ的なことを書きたがるクセがあるけれどそんなもんじゃないかと思う。

 

 それで何が問題なのかと言われても、特に言葉は用意していない。ああ、筆者は後者だったなあとそんなふうに思って、それで終わりである。筆者はこれからも流行の映画に抵抗していくしそれをやめることはできないと思う。悔しいのう悔しいのう言いながら哀れに映画を楽しむ被害者面をした消費者モドキであり続けるだろう。

 

 忠告すると「私はこういう心情からこのように思います」という意見・感想は一切お待ちしていない。あなたがどのような感情を抱いていようが、その感情をどんなに素晴らしい筆致で描こうが誰もあなたの感覚を共有することはできない。共有できる、というのであればそれは共有した気になった人の頭の中でつくられた偽物のあなたの感情に過ぎない。であるから、ここに書かれている文章において筆者は「面白さを共有できない人(々)」という大きな主語を用いているが筆者は決してそうした人々と心情を共有し代弁しているわけではないし、もちろんあなたは筆者の感情を共有することもできない。とりあえず言っておきたいのは、個人の感覚は絶対に共有・共感できないということだ。筆者はあなたではないし、あなたは筆者ではない。

 ここまで読んでお気づきの方もいるかもしれないが、筆者は実際は「面白さ」も他人と共有することはできないと考えてる。あなたの感じる「面白さ」と他の誰かが感じる「面白さ」が同じでえあるとは限らないし、そもそもその「面白さ」はあなたのものであって他の誰のものでもない。言葉やイラストで何をどう表現しようが文字や画像といったメディアに載せられた時点で、もしくは他人のその文字や画像を見る視線が情報を変換してしまう。こればかりは譲れない、あなたは他の誰でもないし、他の誰かは決してあなたではない。

 

 

 

 

 

 じゃあ、なんでお前(筆者)は映画の面白さを綴った感想ブログをやっているんだ?