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Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ⑤

まえがき

j-makino.hatenablog.com

 これのつづきです。
 
 改めて前回書いた記事を読んでみると「邦画はクソなのか?」という問いが如何に不毛なものか実感してしまうしそんなものを書いて貴重な休みを削る愚かさに辟易する。
 別に邦画がクソだろうが何だろうが筆者の人生には何一つ関係ない。「邦画がクソ」と言われようが別にその業界に勤めているわけでもないのでどうでもいい話だ。
 一時のテンションに身を任せてこんな不毛な問いに手を出したことを深く反省している。
 いつものクセで「そもそもこのブログ自体が不毛だろ」という文章を打ってしまった。一体このブログの意味はなんなのだろうか?意味を求めるのは人間の悪いクセだと思うけれど、無意味な行動を繰り返せるほど人間は強くなかったりする。
 でもまあ一度手を出してしまったものなので一応最後までやってみようと思う。
 
 前回は確か北野映画の暴力について色々こねくり回してた気がする。「『座頭市』や『BROTHER』について言及してねーじゃん」と言われそうなアレだったけど許してほしい。初期原理主義者なので。そういや最新作を見てない。評価はそこまで悪くないので少しだけ期待しておく。
 それで、前回の終わりに紹介した気がするけど今回のスタート地点は石井隆の『GONIN』だ。まあたけしがキーパーソーンとして出演してるということで、安直な連想なのだけれど。
 

GONIN・「殺し」の映画

石井隆『GONIN』(1995年)

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  『GONIN』は一応ヤクザ映画になるのだろうか。軽くストーリーを紹介しておくと、借金まみれの社長佐藤浩市がクレイジーサイコホモ本木雅弘、頭のネジが吹き飛んだいつもの竹中直人、激強ハードボイルド根津甚八なんかを仲間に、ヤクザとそのヤクザの放った殺し屋ホモカップル(たけしと木村一八)と戦っていくというものである。何がなんだかわからんから、あらすじが知りたいのならwikipediaに行ってくれ。
 
 ほんで、この映画の何がいいかと言うとそれはやっぱり暴力と殺しの描写が良い。
 先ほど説明した登場人物たちはやはりどいつもこいつも一癖も二癖もある奇人変人ばかりで、セリフがなくともとりあえず立ってるだけでストーリーを組み上げられる怪人どもである。雰囲気がありすぎてそれぞれに与えられている設定とかどうでもよくなる。
 けれど、こいつらは一瞬で呆気なく死ぬ。佐藤浩市根津甚八はやっぱ強キャラなのか割と生き残るがその他はだいたい一瞬で死ぬ。本木雅弘はヒロインなので結構生き残る。
このギャップがたまらない。あれだけキャラ立ちさせておいて死ぬのは一瞬、そりゃ「キャラ」は銃弾もドスも防げない、スタンドじゃないんだから。
  そして、殺し殺されるその関係の空疎さが凄まじい。物語が展開すればするほど、なんでこいつら殺し合ってるのとか、そういう問いが不要になってしまう。まさしく「殺す」ために互いは「殺し」合う、この理由のなさが最高に暴力を映えさせる。最高に暴力 is Godって感じだ。
 こういう暴力がいちばん、来る。目的のない暴力、自己目的化する暴力。
 これってヤクザ映画全般に言えることじゃないかなと思った。組のためとか兄弟の契りとか色々理由はあるけど、結局のところそれらの暴力は映画的な考え方・ 手法から暴力のための暴力に転化させられている。言ってることがよくわからない。なんとなくだが、スクリーンの中で広げられてる暴力は今まさにスクリーンに映るその映像のための暴力なんじゃないか、と。当たり前だ、映画なんだから。監督がいて演出家がいてカメラマンがいて脚本家がいりゃそうなる。
 しかし、しかしだけど観客は暴力のその先に何か期待してるのだろうか。極めて個人的な意見を言えば筆者はそんな見方はしたことがないように思う。
  わかりやすく言えば、画面の中で奮闘する主人公を見ながら「勝ってほしい」と願うことはまずない。別に映画の主人公が勝ったから俺の人生が少し上方修正さ れるということはない(これは別にそういう見方を否定しているわけじゃないが)。そうじゃなくて、画面の中の主人公には「最高に戦って、最高に死んでほしい」と欲している、そんな気がする。
 幼稚な発想かもしれないけれど、人が死ぬシーンというのは物語を映えさせる重要な要素だ。間違えた。キャラクタの死が物語を映えさせるのではなく物語がキャラクタの死を映えさせる。私論じみているが、そんな感じ。前回の北野映画云々でも言った気がするけれど、どんなふうに生きるかではなく、どんなふうに殺されるかを描くことに邦画の暴力映画は注力している、それが得意な気がする(もちろん洋画がそうではないということではない)。
 『GONIN』はまさしくそれだったように思う。各キャラクタは様々な人生を持っていて、それを背景に戦ったり生き残ろうとするけれど、戦闘シーンにおいては正直そんな背景は関係なく、どうやって殺すか・殺されるかだけが画面を占領する。
 画面は冷たい。若干に映される人間ドラマはどこか薄っぺらい。暴力は唐突にやってきてあっという間に殺される。殺しの理由は確かに用意されているけれど、それが殺しに相当するかは微妙だ。けれどすべての殺しには説得力がある。嘘、最初から説得なんぞ期待していない。「殺し」の画面に理由なぞ要らないということを視聴者は思い知る(思い知らない人もいるだろう)。ただ、誰がどう誰を殺し・殺されるのか、注視する。
 『GONIN』と同じ時期に見たから連想しただけだが、『激動の1750日』にもそんな要素が多分に含まれていたと思う。

中島貞夫『激動の1750日』(1990年)

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 ストーリーは山一抗争をモデルに(というかほぼそのまま)したもので、跡継ぎ問題から組が分裂し、中井貴一率いる神岡組と夏八木勲や渡瀬恒彦らの八羽会が全面戦争を繰り広げるというものになっている。
 山一抗争自体が日本全国を巻き込んだ大規模なヤクザ抗争なので、この映画の登場人物もかなりの数となっている(そのためあんまり誰がどの役で何をやってたかあまり覚えてない、すんません)。役名を与えられた者も殺されれば、役名のないモブキャラもどんどん死んでいく。
 個人的に印象に残っているシーンとしては、陣内孝則が逃げるシーンでそれを庇った組長だったがこれでもかと銃弾を撃ち込まれるシーンだ。スローモーションの中、そんなに撃たんでも死ぬべと思うほどに銃撃が続く(他のヤクザ映画でもそうだけれど、銃弾を10発以上撃ち込まれても死なないヤクザの人々は本当に人間なのか?)。
 この映画はそんなシーンが連続する。突然街角に刺客が現れては銃をぶっぱなし敵対する組の幹部を殺したり、組の事務所にダンプで突入して皆殺しにしたり、とにかく暴力が氾濫状態だ。
 確かに山一抗争の背景なども説明されてはいる。誰がどの立ち位置で、今どんなパワーバランスなのかとか。けれど、あまりそうした政治的な展開は薄い。ヤクザたちがどんなふうに戦い殺されていくかを描いたのがこの映画なんじゃないだろうか。あくまで個人の感想だが、そんなふうに思う。
 某ニンジャスレイヤー風に言うと「ヤクザが出て死ぬ!」みたいな映画だ。
 なんかあまり褒めてないっぽいように書いているけれど、筆者はこの映画が結構好きである。ヤクザ政治の話は薄いといってもしっかり書けているし、「殺し・殺され」の関係へのこだわりも感じられる。この映画も、どのキャラクタがどんなふうに死ぬのか、それが楽しみ、というか映画を盛り上げる要素になっていると思う。
 
 結局前回と同じ結論になってしまいそうだけれど、邦画の「暴力」は人の死に方に凄まじいこだわりと持っており、またその独特の映し方が良さになっていると思う。撃たれてはい終わり、ではなく撃たれてから(撃ってから)が本番だ。戦闘は生き残るための手段ではなく死ぬための過程になる。これは言い過ぎかなと思うけれど、そう思わざるをえない。
 そういえばここまで『仁義なき戦い』とかないっすね。まあいいや。
 

野火・アプリオリの死

 ここまで北野映画や『GONIN』とか90年代映画が多かったのでそろそろ最近の映画についても触れておきたい。邦画の良さを説くのであればもちろん黒澤明岡本喜八市川崑マキノ雅弘とかそこらへんを触れておくべきだと思うし、ここまでに説明した「暴力」の魅力は上に挙げた名監督たちのフィルムでも映し出されていたはずで、それを見逃すことはできない。でも一応今回の話題は「邦画はクソ」という言葉を出発点としていて、これはたいてい「最近の」という枕詞が抜けているものなのでどちらかというと最近の方がについて話しておきたい(枕詞なので「最近の」という言葉にももちろん何の意味はない)。そういえば『日本のいちばん長い日』がリメイクされてたけど見てないので触れません。

 なので、ここ最近(2010年代?)の中でよいと思った邦画を挙げるとこれになる。

塚本晋也『野火』(2015年)

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 原作は大岡昇平の同名小説で、既に1959年に市川崑が映画化しているので「なんで今更映画化してんねん」と思いながら渋谷にユーロスペースに足を運んだ記憶があるのだが、その完成度の高さに度肝を抜かれるとともに「やっぱ……邦画の暴力を……最高やな!」なんて気分に浸っていた。若干グロデスクなシーンが多くて吐き気はしてたけど。

 そんなこんなで『野火』と暴力について色々考えてみたい。

 まず『野火』は「殺し」の映画ではない。純粋なまでに「死」の映画だ。そりゃあ戦争なんだから米軍の機銃掃射にバッタバッタ殺されるシーンはあるけれど、それは「殺し」というより不可避的な災害のようで、「殺される」というわけではない。映画の中に米兵はほとんど出てくることはないが、米軍はあらゆるところから瀕死の日本兵たちを狙ってやってくる。それはまるでギミックのようで「殺し」「殺される」という関係性にはない。こう書くとヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』っぽいな。

 日本の兵士が遥か南方のニューギニア(あれ、フィリピン戦線だったっけ?)という土地で銃も持たずに餓死していくという状況はどう考えても不条理だけれど、『野火』の中の死はほぼすべてが必然的だ、そう思わせる説得力がこの映画にはある。

 それは何故かと考えてみる。端的な言い方をすると、スクリーン中の登場人物は最初から既に死んでいるからではないかと思う。劇中で兵士たちは泣いたり笑ったり怒ったりするけれど、戦争とニューギニアのジャングルはすべてを飲み込みゼロにしてしまう。スクリーンの中の世界で兵士たちは先に死んでいる。

 映画の中ではたびたびニューギニアの美麗な大自然がこれでもかと映し出されるのだが、その滅茶苦茶綺麗な風景の下で泥沼を這いずり回る兵士たちは、まるで地獄の井戸の底にいるようにさえ見えてしまう。その中で、次々に飢えや機銃掃射により斃れていく日本兵たちはもはや生きていると言えそうにない。兵士たちが語る故郷の情景はおとぎ話のようで、「生きたい」という意思は軽薄に映る。

 スクリーンの前で観客が見るのは有象無象の日本兵の死のその過程である。その意味において、この映画には「死」が蔓延している。

 というと、スプラッター映画のようだが(実際そういう見方もできるかもしれない)、『野火』はそうした枠に留まっていない。銃弾に吹き飛ぶ四肢や鼻孔や眼窩から湧き出る蛆虫は確かにグロデスクだけれど、それ以上に人間性の限界という倫理的グロデスクがこの映画の中に待ち受けている。

 先に言った通り、この映画は根底から不条理である。徴兵された日本の一般男性が遥か南方に駆り出されて餓死するというのは不条理以外の何物でもない。そしてその不条理の極限として人肉食というテーマがやってくる。

「肉だよ!猿の肉だよ!」

 生きるために日本の兵士は現地人や同胞を殺す、それだけでも割とクるのだけれど、実は最初から彼らは死んでいると考えるとこれ以上の限界はないんじゃないだろうか。死者が死者の肉を食べるという地獄の様相、死と死が混在して蔓延して限界過ぎる。

 食料にするために人を殺す、というのは他の「殺し」とは一線を画す。「殺し」はお金や矜持、組織のために行われるものであって直接的に「腹を満たす」「生きる」ための行為ではない。「暴力」というのがある程度の社会性が基盤にあって初めて成立するものだと考えると、『野火』に現れるのはもはや暴力を超えた何かと言わざるを得ない。

 つまるところ、『野火』は肉体的・精神的両面から人間に限界を迫っていく映画であり、同時に壮大な数の人間の死とその過程を映す映画でもある。

 静かに、けれど熱く人間の死が究極的に映されていくこの映画は、2015年に公開されたものの中でトップクラスに面白かったと記憶しているし、こんな言い方はあまり好きではないけど「世界で競える」映画だと思う。もし「邦画はクソだな」と思ったら是非見てほしい作品である。ただし見るとむちゃくちゃ疲れるので各自ベストコンディションで見ることをオススメするし、視聴して気分が悪くなっても筆者は一切責任を取れないのであしからず。

 

おわりに

 本当はもっといろいろ触れるべきものがあるはずなのだけれど筆者の教養不足からここで終わりになってしまう。結論は最初から「邦画の暴力サイコー」というクッソ頭の悪いものでありそれ以上でもそれ以下でもないので特に総括らしい総括はない。

 ただ少し物申してみると、邦画は確かにレベルが落ちているかもしれない。その原因が「監督や脚本家の育成不足」とか「無能な制作会社・広告代理店」なのかは筆者には判断つかないけれど、テレビや劇場で流れる邦画の予告を見ると少し不安になる。

 しかし、今回紹介した『野火』のように素晴らしい作品を撮れる監督はそこかしこに隠れているのかもしれない。筆者自身、この『野火』を見て初めて塚本晋也という映画監督を知った。目につくものだけ一括りにして「邦画はクソ」と判断を下すのは時期尚早だし、そうした先入観があると邦画を見なくなって名作に出会える可能性も低くなってしまう。もったいない。

 最後に、ここでは触れられなかったけれど個人的に気に入っている邦画をいくつか挙げてみたい。あまり「暴力」というテーマにはこだわったセレクトではないが、こうした作品に触れて「邦画」に対する見方を一新して頂ければ幸甚である。

 

岡本喜八『激動の昭和史・沖縄決戦』(1971年)

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原一男ゆきゆきて、神軍』(1987年)

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黒木和雄『浪人街』(1990年)

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曽利文彦『ピンポン』(2002年)

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沖田修一『南極料理人』(2009年)

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 他にも色々紹介してみたいのはあるけど、今回はこんな感じで。時代が新しくなるほど暴力要素減ってね?