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Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ①

前書き。書くこと。注意すること。

 折角ブログを開設したのに記事が一本しかないというのはあまりに悲しいと思いなんとなく記事を書いてみようという結論が下された。

 と言っても極めて普通の市民である筆者の生活の中にそれほど読者諸賢の目を引くようなトピックがあるわけでもなく、どこからか面白いネタを拾ってくるような技術や労力を持っているわけでもない。

 そんなわけで、特に書くことはない。が、それは筆者が余計に公共性だとかコンテンツ性だとかを考えてしまっていることが原因になっているので、その足枷を取ってしまえばいくらでも文章なんて書けるだろう。

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 先週日曜日にパスタを食べに行きました。おいしかったです。 

……それでもiphoneで撮影した写りの悪いパスタに筆者の感想を添付した記事を書くのはさすがに気が引ける。キモオタ社会人が社会性を獲得しようと必死な姿を見るのが趣味だという人がいるなら話は別だが、生憎そんな人に見せるパスタの画像はない。付け加えておくと4月に筆者は無事入社し社会人となってしまった。しかし新社会人は毎年50万人以上この社会に出現しているわけで、その中の一人になりましたという報告はとても記事にするに堪えないんじゃないだろうか。

 

 前書きが長すぎる。こういうことは簡潔に話すようにと外部研修で教わった。書くことはシンプルに。そう、書くことと注意すること。それを書くのが前書きの目的だった、目的である。

 書くこと。とりあえず唯一の趣味らしい趣味である映画について書いていこうと思う。最近見た映画の感想とか。それなら、多少はこのブログも公共性を持つんじゃないだろうか。ただ、筆者は年間に映画数百本を見るようなシネフィルではないので教養のなさが目立つかもしれない。しかし年間に映画数百本を見るようなシネフィルが持つ教養を見たい人はだったら他を当たってほしい。ここにはそんなものは片鱗さえ姿を見せない。まあ筆者もそれなりに努力していくが期待しないでほしい。期待できる点と言うと、本記事のタイトルを見てもらうとわかるようにナンバリングがされている。2、3、4、と次が出てくることを期待してほしい。

 注意してほしいこと。ここまで読んでもらって申し訳ないが、相変わらずここの文章は筆者の極めて個人的な状況と目的に基づいて展開される。公共性やら速報性なんてものは考えてないから、今ホットな話題映画のレビュー、みたいな芸当はまず期待できない。とりあえず筆者が映画館に行って面白そうと思って見た映画、適当にレンタルショップで借りてきた映画、というふうに選択に基準はないからめちゃくちゃになることが保証されている。

 そも、ここで映画について書くのはある種の備忘録的機能を筆者自身が期待しているからである。それと若干の文章練習。この二点を目的としている時点で既に公共的なコンテンツは期待できない。あくまでこれは筆者のためのブログである。いやらしい。

 それと、ネタバレは普通にやっていく。お前の楽しみなんて知らんよ、そんなものは。

 そういうわけで、前書きはここで終わり。読んで気づいたかもしれないが筆者の文章は冗長であり要点論点の場所がわかりづらい上に誤字脱字が激しい。そういう文章が嫌いな人はさっさとブラウザバックした方がいい。こんなことは言いたくないがぼくはあなたのために文章を書いているわけではなく自分のために文章を書いている。

 

 今回とりあえず感想を書こうと思ったのは『Elevated』と『スポットライト』。ジャンルも違うし時代も全然違うしそこらへんを統一させる気がないことを理解してもらえたと思う。

 

ヴィンチェンゾ・ナタリ『Elevated』(1997)

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 ナタリと言ったらふつう『CUBE』の方が代表作に選ばれるだろう。『CUBE』はその昔に親が借りてきたのを見たのだが今も絶賛筆者の中でトラウマとなっている。もし子持ちの方が読者の中にいたら小学生に『CUBE』は見せないであげてほしい。

 話は『CUBE』ではなくその基となった短編映画『Elevated』だ。『CUBE』のDVDだったかVHSだったかにおまけとして付いていたはずだから見ている人は見ているかもしれない。だが小学生のときの筆者は『CUBE』の恐怖に堪えかねてテレビの前から途中退場してしまい、『Elevated』の方はちらりちらりと覗いた程度でちゃんと見ていなかった。それで、最近ナタリの名前を目にしたとき「『CUBE』に付いてたヤツなんだっけ?」ということで探し始めて遂に見る機会を得た。実に17年ぶりの再会であった。

 結果から言うとクッソ面白かった。映画自体は20分ほどしかない短編なのだが『CUBE』でやってたことのほとんどがこの作品の中に詰め込まれており、高密度という他ない。

 密室空間でのパニック、グロテスクな殺人演出、色々見どころはあるかもしれないけれどやはり個人的に気に入っているのは「説明の少なさ」というところ。これは『CUBE』でも重要なエッセンスだったように思う。

 主人公らは唐突に密室(エレベーター)の中で混乱に巻き込まれるが、その混乱の原因は一切説明されない。いや一応説明はされているのだけれどちぐはぐで意味不明だったり説明役があまりに怪しすぎて信頼できなかったりする。そんなわけでエレベーターの中には理不尽なパニックが充満して、あんなことやこんなことが起きる。

 ホラー映画・パニック映画をそんなに見てこなかったからか、この「説明をしない」というテクニック?は結構衝撃的だった。確かに小説書いてるとき、ある説明を省いて謎を浮上させるとかそんなやり方はよく使うけど、「説明をしない」ことがここまで主題的・前面的になっているのは『Elevated』が初めてかもしれない。

 今キーボードを打っているときもそうだが、基本的に何かを表現しようとするときって全体を説明しようと努めがちな気がする。背景は何か、画面の中で何が大事か、この文章はどういう意味を持っているのか、色々考えて、説明したくなる。説明しなくとも、受け手が察すること・察することができることを考えて表現したくなる。意識的に説明を省く際には、その中から省いてよい・省くことで効果が出ることが期待されるものを省く。

 けれど『Elevated』では一切が説明されない。何も説明されないまますべてが進んでいく。しかも空間はエレベーターという密室で、外界とはまったく切り離されている。登場人物どころか視聴者さえこの「説明の不在」によってそのパニックに巻き込まれてしまう。かっこいい言葉を使うと不条理極まりない空間がそこに展開、むしろ密封されていく。

 それと関係して重要なこと、筆者が気に入っている点がもう一つある。それは「結局のところ背景説明等に意味はない」ということである。

 エレベーターの外で一体何が起きているのか、唐突に乱入してきたこの血まみれの男は何者なのか、様々な疑問が沸き起こり、かつ説明が拒否されて登場人物も視聴者もその答えを渇望するようになる。謎を解きたいという願望はまあだいたい仕方ない。余談ではあるけど『CUBE』はシリーズ化されていていくつかの作品が出ている(ナタリは監督していないけど)。その中にCUBE ZERO』という『CUBE』の外から謎を解こうとする、つまり作中のCUBEの存在理由を明かそうとする作品があるのだが、人はやはりそういう欲望には勝てないのかもしれない。

 でも『CUBE ZERO』を見なくとも(むしろ見ない方が)初代『CUBE』を楽しめる。それはやはり『CUBE』にそんな説明が不必要だからであって、それと同じように『Elevated』も背景説明は実は不要だったりする。あんなに喉から手が出るほど欲しかったのに、いざ手にしてみるとゴミなのだ。『CUBE』も『Elevated』も背景の存在を信じてしまいつつも、その背景に価値はないことが作品を視聴していく中でわかっていく。

 逆説的に言うと、背景に価値がないこと、背景がゼロであることが背景とその説明に価値を与えているのかもしれない。ゼロの背景に登場人物も視聴者もあれこれ思いを巡らせるがしかし、最後の最後にその思考が無駄であったことを悟らせる。その落差がたまらないのだ。パニック映画、色々勉強させられる。

 なんだか『Elevated』の感想というより『CUBE』との比較みたいになってしまった。けれどこの『Elevated』の中に『CUBE』の本質は詰まっているので是非この二つは比較しながら見てほしい。

②トム・マッカーシー『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)

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 『Elevated』の感想に労力使いすぎたので前にtwitterに連投したヤツのっけるので簡便してほしい。はっきり言ってあまり記憶に残っていないのだ。

 

「見に行く価値ある?」って尋ねられたら「それは自分の目で確かめてほしい」と答える映画。アカデミー作品賞・脚本賞ってことで期待しすぎると拍子抜けするかも。

 

おわり

 映画の感想を書くのって結構疲れることに気づいた。この先これが続くか不安だしもう少し楽なトピックが欲しい。でも絶対にパスタの画像はアップロードしないから。