Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な問題

 去年12月末、新宿バルト9で「劇場版 ガールズ・アンド・パンツァー」を見たあと、ぼくはしばらく放心状態になるとともに脳内にシュプレヒコールの波が通り過ぎていった。

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ガルパンにストーリーはない」
 
 そんなことをTwitterでつぶやいたり、アニメ好きの友人と会話すると予想に反して首肯してくれる人が多かった。
「起承転結もスポ根という土台もあるだろ!いい加減にしろ!」とツッコミを入れたくなる人もいるかもしれない。けれど、ガルパンのストーリーを楽しんでいる(面倒な言い方だと"消費している")人ってどれほどいるのだろう?
 言いたいことははっきり言おう、ガルパンという作品において「ストーリー」は前面に出てこない。確かにあるにはある、起承転結、主人公の成長、主人公たちの目的と努力と達成……けれど、「ガルパン」という作品の主題はそこにはない、既にタイトルが示してる通り「ガールズ・アンド・パンツァー」が主題だ。
 ガルパンの何が面白いかって(もちろんそれは人それぞれだろうが)女の子が戦車に乗って戦車で戦うことだろう。当然過ぎて笑えるな。けど、アニメとしてそれだけやってたらつまらないだろう。戦車、女の子、ぽいっ。バカか?そこでその床に散らばった戦車や女の子をうまく見せるための枠、フレーム、額縁が必要になる。ガルパンにおけるそれが「スポ根もの」や「西住みほの成長譚」なのではないだろうか。
 つまり、「戦車と女の子」という絵画(=アニメ)を飾る際にストーリーが額縁となっている、額縁があるがゆえに絵画の形は決定、安定しぼくたちはその絵画に視点を集中させることができるということだ。ただし、額縁は絵画を見るときに注目されない、無意識に見てはいるけど。
 
 ぼくの意図は別に「ガルパンにストーリーはない!クソアニメだ!」などと糾弾することではない。ストーリーがないからクソ、というのは成り立たない。
 問題は劇場版ガルパンを見てぼくがショックを受けたという極めて個人的な問題である。普遍的な何かを求めてる人はここまで読んでもらって申し訳ないがブラウザバックをオススメする。今更すぎる。
 
 閑話休題。問題は、そう、何でショックを受けたかということだ。そしてそのショックとは「ストーリーがない」(厳密に言えばストーリーが前面化していない)ことだった。いや、そうでなくて「ストーリーがないのにクッソ面白かった」ことだった。
ストーリーがないのに面白い映像作品は確かにある。
 個人的にその代表格としてW・ヘルツォークの「小人の饗宴」を挙げたい。ただこの作品はひたすらにニヒリスティックな映像を垂れ流し「重厚な虚無」を描き出すことを目的としている(少なくともぼくはそう思ってる)のでガルパンのようなエンターテイメント作品と比較することはできない。ただ面白いのでこの場でちょっと紹介がてらオススメしておきたい。鑑賞によつて生じた問題について筆者は責任を負いかねます。
 エンターテイメント作品にも関わらず、ストーリー不在で面白いガルパンという映画は一種の特異点だった。ぼくにとって。
 そこで何が面白いのか考えてみるとそれは結局「女の子が戦車に乗って戦ってる」映像そのものが面白いのではないかと思う。
 読者諸賢は「さっき戦車と女の子だけならつまらないとか言ってたじゃん」と思うかもしれないけれど、そうなのだ。あの厳しい戦車たちに乗って女の子たちがドンパチやる、その映像にひたすら見とれていたのだが、問題はそれが純粋であることだ、雑味がない。戦車に乗った女の子たちのその背景が真っ白だから、文句をつけられないのだ。
例えば戦車戦の中に恋愛要素をぶち込んだら?例えば戦車戦の中に戦いの悲惨さ(もしくは楽しさ)をぶち込んだら?クッソつまんなそう(小並感)
 テレビ版では主人公の成長とか友情とかそういう要素が戦車戦の中に入っていたかもしれない、ただそれでも"それによって"勝利することはなかった(はず)。絶体絶命のピンチ、友情パワーで敵戦車を撃破とか。プラウダ戦は友情で奮起したけど最後の方は戦術の勝利であって友情要素は薄いんじゃないですかね。そういうことにしておいて。
つまり、ガルパンにおける戦車戦って純粋に戦車戦。そして劇場版だと最初のエキシビションも大学戦もその性格が強くなってただ「女の子たちが戦車に乗って戦う」になっている。スポ根を額縁にしてるからそうたろうけど、戦車戦そのものはスポーツであり純粋であり、背景はない、あったとしてもそれはほとんど描かれない。
 ガルパンにおける戦車戦の消費は、つまり、スポーツ観戦と似ている?ちょっとここらへんは色々と考えたい。
 
 重要なのは、ガルパンの戦車戦を楽しむときの視点の在り方、マクロ的に見るかミクロ的に見るかだ。わかりづらい。言いたいことは、楽しむ対象は戦闘全体の趨勢ではなくその場その場のシーン、端的に言えば光と音。
 あるチームの戦闘とその帰結、カット、あるチームの戦闘とその帰結、カット、あるチームの戦闘と帰結、カット……。
 観客(ぼく)は戦闘全体の動きを、飴を舐めるように恒常的に楽しんでるのではなく、口の中で弾け続けるパウダーを楽しむように消費している。つまり、視聴する上での"楽しみ"は細分化不可能な一個ではなく幕の内弁当みたく分けられた個々のシーンの集合体である。
 ガルパンにストーリーはない、と冒頭で言ってしまったがここにもそれと似た、というかそれそのものの構造はこれ。指示語が多すぎる。ガルパンは快楽の集合体、またはパッチワーク。その集合体の爆発四散を避けるための額縁としてのストーリー。はい。
貶めてるように聞こえたら申し訳ない。けれど、ガルパンの何が面白かったか、感想とか聞くと「あのシーンが良かった」なんて答えが返ってくることは少なくないような(印象論で語ってはいけない)。もしくは「あのシーンのあのネタ」「あのキャラクターのあのシーン」っていうの多い……多くない?ぼく個人としてはエキシビションのカチューシャとダージリンの掛け合いが好きです。
 
 ここに来て、この文章のテーマであるはずのガルパンに対するショックの内容について些か無理矢理ではあるけれど修正を迫らなければいけない。だらだらと書きながら薄々気づいていたけれど、小っ恥ずかしい自意識トークになりそうだから避けたかった。ただ既に小っ恥ずかしい自意識トークは始まっているのであり、だから、遅すぎたと言ったんだ。
 ショックの内容は「ストーリーかなくとも面白い」のその先、「ストーリー不在の作品が受容される時代の実感」だったのだと思う。
 さっきも言ったけれど、そうした作品は既にいくらでもある、日常系とか言われる作品群はそれだし時代の象徴と言っても過言ではないかもしれない。
 ぼくも好きだし(今は『大家さんは思春期!』にはまってる)、そうした潮流があるのはわかっていた。

 

 

 

 

大家さんは思春期! 1巻 (まんがタイムコミックス)

 

 

 (日常系と一括りにして語るのは色々と難しいけれど)日常系もストーリーがない。数コマ単位、もしくは一コマ一コマを断続的に消費するのが日常系の形だ、異論は認める。
 日常系は大部分がその名の通り日常を映し、そこで消費されるのも「戦闘」だとか「悲恋」だとか大味のものではない。言ってしまえば薄味だ。
 しかし、ガルパンは違う。ガルパンで消費されるものの中には女子高生たちの平凡な日常も含まれるが、何度も言ってるように主題は「戦車で戦う女の子たち」もしくは「女の子たちが乗る戦車」だ。これを薄味だと思う奇異な人はいないと思う。
 けれど、ガルパンに対する消費形態は日常系とそう変わらないのではないか。つまりその場その場のシーン、断続的な消費の集合、「〜的」と言うと語弊を招きがちだが、ガルパンは日常系的消費形態下にある、と言いたい言ってみたい。
 そして、ガルパン劇場版は日常系的消費形態の下で、劇場で、大スクリーンで、爆音で、視界と鼓膜を揺さぶって快楽を生む!身体的快楽!それも断続的な集合体として!
 
 ……これがぼくの、ショックの原因なのだと思う。戦車戦の大味を日常系を見るときのような形で断続的に身体にぶち込まれる。そして、それが楽しかった、周囲も楽しんでいた。ぼくはコンテンツにおける時代の変化を身体で直接感覚させられたのだ。
 もうストーリー、そんな凡庸な言葉で隠すのはやめよう、"大きな物語"は作品から消えて、一瞬一瞬の刹那的な快楽を断続的に消費し続ける、そんな時代なのだと無意識に悟った。
 
 これでぼくの小っ恥ずかしい個人的な問題についての供述は終わりである。ここからは蛇足。
 
 ショックの内容について、許されるなら付け足したいことがある。
 バルト9から出た後、放心と焦燥を感じながらぼくは作品について色々と思い出そうとしていた。けれど、何について思い出すべきか、皆目見当がつかない、端的に言えば、何も覚えてなかった。
 読書に読後感があるように映画を見終わったときも何かしらの余韻があり、その意味で作品の消費は継続している。
 けれど、ガルパンはそれがなかった。劇場の灯りが点いたとき、ぼくはもうガルパンを消費することをやめていた。何も覚えていないのだ。誰が、映画のラストを語っている?覚えている?というかどこがラストになるんだ?
 ガルパンを消費するためには、劇場に足を運ばなくてはいけない。銀幕の前に座り、一瞬一瞬の映像に注視し、音響に耳を傾けなければいけない、過去も未来も参照してはいけないその必要はない。
 そして、消費は一瞬で終わるから、身体を震わせてもすぐに消えてしまうから、何度も劇場に通うことが可能ではないか、そんな風に考える。
 
 話題が逸れるが、どうして「ガルパンはいいぞ」という言葉が流行ったのか(このフレーズはぼくは非常に嫌いである)、その答えもここに隠されてるような気がする。あくまで個人の感想です。
 結論から。ガルパンに本質はないから。より突き詰めて言うと、本質が分散してしまって多元化しているから。
 例え話。一枚のステーキについてその感想を言おうとすれば、肉の食感とかソースとの相性とかそのステーキを中心に語るだろう。
 では、幕内弁当の感想はどう言えばいいだろうか。一つの惣菜ばかりを褒めるわけにもいかない、それでは幕内弁当の感想にならない。他の惣菜についても語らなければいけない、もしくは惣菜全体のバランスについて語らなければいけないかもしれない。
 ガルパンは、後者だ。様々な惣菜が入っている。ただここで注意したいのは惣菜は物語上の要素(戦車とかキャラクターとか)を意味せず、各シーンのことであるところ。シーンが分節化されシーンはそれぞれの文脈で消費される。それがガルパンの幕内弁当的構造だ。
 なので、ガルパンについて語るとき、その人は何について語るべきか明確な答えを持たない。一つつまみ上げてそれについて語るのはいいだろう、また別のものを挙げてもいい。だが、作品全体を語ることは難しい。あまりに惣菜が多すぎる上に全体を整えるストーリーの味はないし、そもそもストーリーの味が強かったら幕内弁当ではなくステーキになるだろう。
 結局のところ、語るべき点が拡散していて本質的な語りが不可能になっているのだ。そうしたときに、ある程度全体を掬い上げる形で語れる感想が「ガルパンはいいぞ」になるのではないだろうか。
 
 最後になるが、もうすぐ公開される4DX版は恐怖の対象としか言いようがない。既に劇場でとんでもない身体感覚をぶち込まれてるのに、4DXなんて見たら(感じたら)発狂しかねない。
 恥ずかしいことに1週間ほど前に初めて3D映画を見た。舐めてかかったら痛い目にあった。劇場内における身体感覚の変革の時代とかかっこいいこと言っておきたいし、そのことについて考えることは十分に意義あること……意義なんかねえよ!!!!!!!アニメやら映画見てうだうだ言うことにアクチュアリティなんてねえよ!!!!!!!
 
終わり!!!!!