極めて個人的な映画関連メモ③
まえがき・モチベーション
酒が回っているうちに下書きを書いてしまおう。
筆者はそんなに頻繁を映画を見ない。最後に映画に見に行ったのは4月の終わりか5月のはじめだったかに渋谷のアップリンクで『サウルの息子』を見たのが最後である。かれこれ一か月は劇場に通ってないっぽい。ついでに言っておくと『サウルの息子』はホロコースト映画として本当に名作なので機会があれば見てほしい。
いやまあ映画を見る時間がない訳ではない。新入社員にそんな大きな仕事も任されないし定時に上がって列車に揺られて駅前の映画館に行ってレイトショーを見たり、そんなこともできないわけではない。
でもそうしないのは筆者にそんな映像に対する飽くなきモチベーションがないからである。1時間も2時間も映像の前に座ってられるかってんだ。それ相応のモチベーションか、もしくは空前絶後の退屈にない限り筆者は映画を見ない。仕事が終わったら自宅に戻ってtwitterやニコニコ動画をだらだら見て寝る時間になってそれで終わり。その時間を使って本を読むなり映画を見るなりすればいいのだがそこまで張り切れない。映画を見るのも本を読むのも労力が要る。死ぬのか、俺は。
なんで映画を見るってそれは暇を潰すためだ。映画を見ることを目的にして映画を見るのは、なんか違う気がする。「俺は映画を見るために映画を見るんだ!」って人がいるならそれを止めはしない。そういう楽しみ方もあると思う。コンテンツの楽しみ方なんて人それぞれだ。本を読むために本を読んだっていいしアニメを見るためにアニメを見たっていいと思う。最近はアニメを見るにも労力が要るようになってきた。俺は、死ぬのか。
暇を潰すためとはいえなんで映画なんて見るのだろう?TUTAYAなんかで借りればそりゃ旧作100円だったりするけど劇場では1500円やら1800円取られたりする(もう学生料金じゃない)。そんな大金を払って2時間近く席に縛り付けられて映像を見て、何が楽しいんだろう?俺は何を買っているんだろう?ハイソな人類への切符がチケットについてくるなら喜んで買うだろうけど、生憎そんなものはついていない。
「この映画を見て人生についての見方が変わった」なんて感想は聞きたくない。たかが数時間の映画を見て変わる人生観とかそんなものははじめからゼロに等しい。映画に影響されまくりな筆者の言えたことじゃないけど、映画なんてそんなものだと思う。リュミエール兄弟は別に人類の生を変えるためにシネマトグラフを手に『ラ・シオタ駅への列車の到着』を撮ったわけじゃないだろうし、ジガ・ヴェルトフは確かにフィクションの在り方を問いながら『カメラを持った男』を撮影したかもしれないが人類のことなんて一つも考えていないだろう。
どうして映画なんて見るのだろう、このことについては深く考える必要はないかもしれないし深く考えるべきではないのかもしれない。「そこに映画があるから」なんて陳腐な答えは期待してないし拒絶するべきだ。
この前劇場に足を運んだとき、予告で『シン・ゴジラ』の映像が流れた。監督を務める庵野秀明がその中で「面白い映画を撮ろう」みたいなことをスタッフに言っていたが、面白ければぼくら(注:大きな主語)は劇場へ足を運ぶのだろうか。よくわからない。つまらないことは考えないことにする。
今回は感想ではなく筆者のオススメ映画を何作か挙げていきたいと思う。面白いってことがよくわからなくなってしまったのでそれぞれの作品の感想を書いたり紹介をすることで作品の魅力を筆者に再認識させることが今回の目的となっている。最近は小説を書いても何が面白いのかわからなくなってしまった。鬱かと言えばそんなことはなく筆者の精神も肉体も極めて健康なので安心してほしい(あなたが安心する必要はない)。
紹介する順番に特に意味はないけれど、思いついた順なので無意識的に筆者のランキングになっているかもしれない。一応映画監督一人につき一作というきまりはある。
また、ここで映画をオススメする理由は先述した通り極めて私的な理由によるものなので誰が見ても面白いとかそんな普遍性は考えていない。このブログを見て該当の映画を見たがつまらなかった、なんてことに対して筆者は一切責任を負わない。その点をご了承願いたい。
とりあえず、思いついたのは下の5本。その内1本を紹介させてほしい。たぶん全部べた褒めになるのでそういうのが苦痛な人はブラウザバックしてほしい。
・ヴェルナー・ヘルツォーク『小人の饗宴』
・ヴァルター・ルットマン『ベルリン・大都市交響楽』
⑤エミール・クストリッツァ『アンダーグラウンド』(1995年)
今まで見てきた映画で最高のヤツは何かと尋ねられれば、筆者は間違いなく『アンダーグラウンド』を第一に挙げる。前回の記事では繰り返して見るとつまらなかったりする映画、そんな話をした気がするがこれは10回見ても飽きない映画だ。上映時間も170分と結構長いがそんなものは関係ない。最後まで映像の中に引き込まれながら見続けることができるし、見終わったあとには凄まじい感覚(感動とはまた違うかも)が残る。
そこまで褒めておいて、じゃあ具体的に何の映画なんだというとかつてバルカン半島にあった地域・国家ユーゴスラヴィアの歴史を題材にした映画である。ユーゴというと内線・紛争が直観的に思い出されるかもしれないが、紛争に至る前も第二次世界大戦中の対独パルチザンや社会主義時代といった重厚な歴史を持っている。『アンダーグラウンド』はそんな重厚な歴史を、クストリッツァの濃厚な映像技法で映画としてまとめたものだ。
こう言われると、「ユーゴスラヴィアなんてよく知らんしハードル高そうだしペダンチスト死ねや」と言われるかもしれないが、筆者自身この映画を見るまでユーゴスラヴィアについてちゃんと理解しようとしたことがなかったので安心してほしい。周囲の人に勧めてみたところ、みんなユーゴを知らなくてもかなり楽しんでもらえていた記憶がある。
それもそのはずで、この映画には「ユーゴスラヴィアという国家への追憶と語り」という性格がある。紛争という歴史から、外国人からは「悲しい」とか「陰鬱」とかそんなイメージの跋扈するユーゴスラヴィアだが作中で描かれるユーゴスラヴィアには笑いがあり怒りがあり喜びがあり悲しみがある。感情豊かなユーゴスラヴィアの人々が描かれ、単なる歴史叙述ではなく「記憶の中のユーゴスラヴィア」を描き出しているように思う。だから、ユーゴの歴史を知らなくとも視聴者は一人一人のユーゴスラヴィアの人々に接近することが可能だ。
余談、監督のエミール・クストリッツァは「ユーゴスラヴィア人」を自称するほどのユーゴスラヴィア主義者で、この映画もそんな性格から政治的論争に巻き込まれてしまった。それが理由でクストリッツァは一時映画を撮るのをやめてしまった。その後、政治的・歴史的性格を排した『黒猫・白猫』を撮影するがこちらも最高に面白いのでいつか紹介したいと思う。
エミール・クストリッツァ『黒猫・白猫』、1998年
ユーゴとそこに住んでいた人々の歴史・記憶がクストリッツァのカオスな喜劇・悲劇手法をもって次々に展開されていく。荒唐無稽、ナンセンス、そう思う人もいるかもしれないがこの無限に殴られ続けるような映画がクセになる。
しかし、先述した通りユーゴスラヴィアには「紛争」という歴史がついて回る。紛争がどんなものだったかはよく記憶していなくとも視聴者のほとんどはそれを念頭にスクリーンに視線を送らねばならないだろう。第二次世界大戦・社会主義時代を経て「戦争」という章題が画面に映った瞬間「ああ、やっぱり」という気分にならざるをえない。
紛争によってそれまで主人公たちが構築してきたものは決定的に、完膚なきまでに破壊されてしまう。それまでにも多くの犠牲があったが、紛争はその上を行く。救いはどこにもない。戦火に燃える教会では自殺者が鐘を鳴らし、キリスト像の周りをガソリンに焼かれる死体が電動車椅子に乗って回り続け、ユーゴスラヴィアの血は大地に染み込んでを流れる。もう最悪である。全てが絶望の中にあり、これで物語はすべて終わったと思う。「ああ、やっぱり」と思いながら視聴者はエンドロールを待つだろう。
そうじゃない。ラストシーンは度肝を抜く。初見の視聴者は「なんじゃこりゃ!?」と思い、既に視聴していた観客は「これを待っていた!」とニヤニヤするだろう(個人的な感想)。詳細は省くが、最後の最後に語られる「苦痛と悲しみなしには、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』、と」という言葉はこのラストシーンとともに映画史に残る最高のセリフだろう。
個人的な話、筆者が歴史好きで特に歴史・記憶論(歴史を記憶するとはどういうことか、記憶はどのように表現されるか、みたいなヤツ)が大好きだったのでこの映画はそりゃもうドツボだったのだが、先にも述べた通り誰が見ても面白い映画となっている。
そこで、なんでこれが面白いんだろうと考えてみるとそれはたぶんこの映画が理解可能/不可能の境界上にあるからだろうととりあえず思った。
クストリッツァの映画はどれもリアリティとファンタジックの間を行くようなものばかりだ。『ジプシーのとき』『ライフ・イズ・ミラクル』『パパは出張中!』……これらの作品群はいつもこちらの想像力を上回ってくる。常に観客はクストリッツァのカメラに殴られ続ける。しかしそれは不条理ではない。殴られながら、なんとなく観客はカメラが映すそれを理解できる。なんじゃそりゃ、と殴られながらもなんとなく納得する。マゾヒストかよと思うかもしれないが長時間イスに縛られ続ける映画を見るヤツなんてたいていマゾヒストだしその指摘は的を得てると思う。
この、理解不能から理解可能への越境こそクストリッツァ映画の面白さなんじゃないかなと個人的に考えている。理解できることばかりの映画なんて見ていてもつまらないだろう。逆に不条理に殴られ続ける映画はやはり辛い。余談。ふと思ったのはアレクセイ・ゲルマンの『フルスタリョフ、車を!』だ。一応、映像とセリフへの注視に全身全霊を掛ければ画面の中で何が起きているか理解できないこともないのだが、それでも全体の10%くらいしかわからないし(そも全体が把握できないのだが)そんなことを140分近くやってられない。殴られ続けるのが趣味、という方は見るといいなじゃないかな。筆者もそんなところが少しあるので一応オススメしておく。
アレクセイ・ゲルマン『フルスタリョフ、車を!』(1998年)
理解の範疇の境界線上にある、これが面白さの理由の一つかなと思う。ハリウッド批判みたいで嫌なのだが、ユーゴスラヴィアをはじめ第三世界映画にはそうした想像力を超えてくる作品が多いように思える。読者の方も、こんな駄文からクストリッツァ作品や第三世界映画に触れてもらえればと思う。もちろん、つまらなくても筆者は責任は取らない。けれど『アンダーグラウンド』の面白さだけは保証したい。
『SUPER8』は、そこまでオススメしない。ただラストの情景だけは一級品。それくらい。
おわり
一作品くらいの紹介がやっぱりちょうどいい気がする。労力もそこまで必要にならないし。二本書こうとするのはやはり無謀だった。いつも二本立てで上映してくれる早稲田松竹様やキネカ大森様には頭が上がらない。
どうでもいい個人的な話をすると筆者は『アンダーグラウンド』からユーゴスラヴィアに興味を持って色々調べたりユーゴスラヴィアラノベを書こうとしたりしている。もし文フリやコミケでそんなものを売っているところを見てもセルビアやボスニア・ヘルツェゴヴィナの大使館に通報したりせずそっとしてあげてほしい。
極めて個人的な映画関連メモ②
まえがき・感想を書くということ
映画の感想ってどのタイミングで書けばいいのか困る。そりゃ見た直後が内容も細部も覚えてるから精度の高い感想が書けるだろう。精度の高い感想ってなんだ。でもまあ「思い出補正」なんて言葉が示す通り視聴してから時間が経つとノイズが入り込んでやっぱり正確な評価はできないらしい。
③ベルナルド・ベルトルッチ『暗殺の森』(1970)
④ベルナルド・ベルトルッチ『ラストエンペラー』
アカデミー作品賞も取ってたし舞台が東アジアということで日本での知名度はかなり高いと思う。なので筆者が今更感想を書く必要もないように思えるけど既に述べている通りこのブログは極めて私的なのでそこらへんは気にしない。気にしたいのはぶっ続けで映画の感想を書くのは疲れるので筆者がこのままちゃんとした感想が書けるかどうかだ。ちゃんとした感想の存在可能性の是非については語らない。
知っての通り「ラストエンペラー」とは清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀のことでこの作品は溥儀の生涯を映した歴史映画であるが、「どうせみんな展開は知ってるでしょ」ということなのか最初から戦後中国、つまり中華人民共和国が映し出される。戦犯逮捕スタート。ストーリーは中国での戦犯溥儀に対する尋問・強制収容所生活と清朝・満州国時代を行き来しながら展開されていく。
それを聞くとめっちゃ面白そうやんけと思うだろう。けれど、それに続く清朝時代の映像を見たときは「失敗したな」と思ってしまった。まず登場人物が一部を除いてほとんど英語で演技し始めたので「英語帝国主義許せねえ……英語帝国主義許せねえよ!」となってしまった(既に序盤で英語は使っているのだが)。まあだいたいこういうのは後々気にならなくなるのだが、つまらないことに腹を立てるオタク特有のめんどくささを発揮し掴みは著しく低かった。また、溥儀を清朝皇帝に指名する西太后も序盤で出てくるのだがそのオリエンタリズム丸出しの演出にまたしても筆者は「欧米中心主義許せねえ……欧米中心主義許せねえよ!」と無駄にアジア的憤りを感じてしまった。無駄に変な学部で無駄に変なことを学んでしまったので無駄に腹を立てることとなってしまった。こういうことは社会に出ても一切役に立たないのでさっさと忘れたい。
そんなわけで掴みは最悪だった。皇帝の即位式において数千のエキストラが溥儀の目の前で三跪九叩頭の礼をするシーンは圧巻だったりするのだが、英語の飛び交う紫禁城の中で「アジア的」演出が映し出される。なんやねんベルトルッチ。付け加えると筆者はフィクション中に出てくる「子供」という存在が死ぬほど嫌いなので天真爛漫というか厚顔無恥に振る舞う幼少期の溥儀にも半ばキレていた。もう見るのやめろよ。
状況が変わるのは溥儀が思春期くらいに入ったところ、辛亥革命の勃発から。筆者が国家の滅亡やら革命やらといった要素が好きなのもあるが、こういう衰退を見るのは本当に楽しい。辛亥革命で紫禁城に閉じ込められ、北京政変では逆に追い出され溥儀は妻の婉容・文繍とともに天津に逃げる。
どうでもいいのだが思春期の頃から溥儀に仕えていた家庭教師ジョンストンさんがいい人すぎる。欧米人はやはり知性と人間性を兼ね備えているのか、それに比べてアジアのイエローモンキーどもは……とまた無駄なことを考え始めてしまう。どうでもいい。
こっからはもう凋落アンド凋落の連続である。ジョンストン先生は「イギリス政府が助けてくれる」言ってたのに手を伸ばしてくれたのは結局日本だけだし下心丸見えだし、側室の文繍にも逃げられるし、溥儀に構ってもらえない婉容はメンヘラをこじらせるし。そうして満州国建国へと進んでいくのだが、ここらへんになるともうすべてが空疎である。皇帝即位の儀式もおままごと、婉容はアヘン中毒、皇帝の権威も見かけ上だけで実権はすべて日本のもの、最高かよ。
あとはお察しのように世界大戦が終結し日本は敗戦、溥儀も逮捕され最初のシーンへと繋がる。王様気分の抜けない溥儀が収容所内で根性叩き込まれるシーンは性格が悪いようだがすかっとする。その後、収容所内での「教育」を終えた溥儀は北京で一般の植物園職員となるのだが、この後のラストシーンがこの映画屈指の名シーンとなっている。半世紀ちょっとでここまで時代が変化するものなのか、20世紀が最高だった理由の一つを垣間見ることができる。
映像面から見ると主演のジョン・ローンの演技が非常に良い。溌剌とした青年期からどんどん生気が失われていくも、戦後になるとどこか解放されて悟ったような表情をする溥儀、そうした変化を巧く表現していると思う。そういえば音楽は坂本龍一だが、少しベタつく。久石譲もそうだが、この二人の映画音楽はなんだか映像より前面に出ようとしている気がする。音楽自体はいいけど。
実験的にあらすじと一緒に感想を書いてみようと思ったが、やけに長くなる。映画も長い。劇場公開版だと3時間弱、オリジナル版だと200分を超えるとかなんとか。個人的に映画は120分を超えると一気に面白さのハードルが上がるのだが、これはそのハードルを越えていたと思う。でも長い。疲れる。なのでもう二度と見ないだろう。けどあのラストシーンをもう一度見たいという欲も湧き上がる、そのためには再び160分見ないといけないのだが。
おわり
感想を書くのがどうだこうだ言っていたが今ここで思うことはやっぱり多分に労力が要るということ。もう少し楽に書けて面白いトピックはないのか。適当に考えていたのは映画版『バーナード嬢、曰く』みたく「見ているとかっこいい映画・通ぶれる映画」とか紹介できたらと思うのだがああいうのは書いている人が通だからできるわけでこの企画もなかば諦めている。
極めて個人的な映画関連メモ①
前書き。書くこと。注意すること。
折角ブログを開設したのに記事が一本しかないというのはあまりに悲しいと思いなんとなく記事を書いてみようという結論が下された。
と言っても極めて普通の市民である筆者の生活の中にそれほど読者諸賢の目を引くようなトピックがあるわけでもなく、どこからか面白いネタを拾ってくるような技術や労力を持っているわけでもない。
そんなわけで、特に書くことはない。が、それは筆者が余計に公共性だとかコンテンツ性だとかを考えてしまっていることが原因になっているので、その足枷を取ってしまえばいくらでも文章なんて書けるだろう。
先週日曜日にパスタを食べに行きました。おいしかったです。
……それでもiphoneで撮影した写りの悪いパスタに筆者の感想を添付した記事を書くのはさすがに気が引ける。キモオタ社会人が社会性を獲得しようと必死な姿を見るのが趣味だという人がいるなら話は別だが、生憎そんな人に見せるパスタの画像はない。付け加えておくと4月に筆者は無事入社し社会人となってしまった。しかし新社会人は毎年50万人以上この社会に出現しているわけで、その中の一人になりましたという報告はとても記事にするに堪えないんじゃないだろうか。
前書きが長すぎる。こういうことは簡潔に話すようにと外部研修で教わった。書くことはシンプルに。そう、書くことと注意すること。それを書くのが前書きの目的だった、目的である。
書くこと。とりあえず唯一の趣味らしい趣味である映画について書いていこうと思う。最近見た映画の感想とか。それなら、多少はこのブログも公共性を持つんじゃないだろうか。ただ、筆者は年間に映画数百本を見るようなシネフィルではないので教養のなさが目立つかもしれない。しかし年間に映画数百本を見るようなシネフィルが持つ教養を見たい人はだったら他を当たってほしい。ここにはそんなものは片鱗さえ姿を見せない。まあ筆者もそれなりに努力していくが期待しないでほしい。期待できる点と言うと、本記事のタイトルを見てもらうとわかるようにナンバリングがされている。2、3、4、と次が出てくることを期待してほしい。
注意してほしいこと。ここまで読んでもらって申し訳ないが、相変わらずここの文章は筆者の極めて個人的な状況と目的に基づいて展開される。公共性やら速報性なんてものは考えてないから、今ホットな話題映画のレビュー、みたいな芸当はまず期待できない。とりあえず筆者が映画館に行って面白そうと思って見た映画、適当にレンタルショップで借りてきた映画、というふうに選択に基準はないからめちゃくちゃになることが保証されている。
そも、ここで映画について書くのはある種の備忘録的機能を筆者自身が期待しているからである。それと若干の文章練習。この二点を目的としている時点で既に公共的なコンテンツは期待できない。あくまでこれは筆者のためのブログである。いやらしい。
それと、ネタバレは普通にやっていく。お前の楽しみなんて知らんよ、そんなものは。
そういうわけで、前書きはここで終わり。読んで気づいたかもしれないが筆者の文章は冗長であり要点論点の場所がわかりづらい上に誤字脱字が激しい。そういう文章が嫌いな人はさっさとブラウザバックした方がいい。こんなことは言いたくないがぼくはあなたのために文章を書いているわけではなく自分のために文章を書いている。
今回とりあえず感想を書こうと思ったのは『Elevated』と『スポットライト』。ジャンルも違うし時代も全然違うしそこらへんを統一させる気がないことを理解してもらえたと思う。
①ヴィンチェンゾ・ナタリ『Elevated』(1997)
ナタリと言ったらふつう『CUBE』の方が代表作に選ばれるだろう。『CUBE』はその昔に親が借りてきたのを見たのだが今も絶賛筆者の中でトラウマとなっている。もし子持ちの方が読者の中にいたら小学生に『CUBE』は見せないであげてほしい。
話は『CUBE』ではなくその基となった短編映画『Elevated』だ。『CUBE』のDVDだったかVHSだったかにおまけとして付いていたはずだから見ている人は見ているかもしれない。だが小学生のときの筆者は『CUBE』の恐怖に堪えかねてテレビの前から途中退場してしまい、『Elevated』の方はちらりちらりと覗いた程度でちゃんと見ていなかった。それで、最近ナタリの名前を目にしたとき「『CUBE』に付いてたヤツなんだっけ?」ということで探し始めて遂に見る機会を得た。実に17年ぶりの再会であった。
結果から言うとクッソ面白かった。映画自体は20分ほどしかない短編なのだが『CUBE』でやってたことのほとんどがこの作品の中に詰め込まれており、高密度という他ない。
密室空間でのパニック、グロテスクな殺人演出、色々見どころはあるかもしれないけれどやはり個人的に気に入っているのは「説明の少なさ」というところ。これは『CUBE』でも重要なエッセンスだったように思う。
主人公らは唐突に密室(エレベーター)の中で混乱に巻き込まれるが、その混乱の原因は一切説明されない。いや一応説明はされているのだけれどちぐはぐで意味不明だったり説明役があまりに怪しすぎて信頼できなかったりする。そんなわけでエレベーターの中には理不尽なパニックが充満して、あんなことやこんなことが起きる。
ホラー映画・パニック映画をそんなに見てこなかったからか、この「説明をしない」というテクニック?は結構衝撃的だった。確かに小説書いてるとき、ある説明を省いて謎を浮上させるとかそんなやり方はよく使うけど、「説明をしない」ことがここまで主題的・前面的になっているのは『Elevated』が初めてかもしれない。
今キーボードを打っているときもそうだが、基本的に何かを表現しようとするときって全体を説明しようと努めがちな気がする。背景は何か、画面の中で何が大事か、この文章はどういう意味を持っているのか、色々考えて、説明したくなる。説明しなくとも、受け手が察すること・察することができることを考えて表現したくなる。意識的に説明を省く際には、その中から省いてよい・省くことで効果が出ることが期待されるものを省く。
けれど『Elevated』では一切が説明されない。何も説明されないまますべてが進んでいく。しかも空間はエレベーターという密室で、外界とはまったく切り離されている。登場人物どころか視聴者さえこの「説明の不在」によってそのパニックに巻き込まれてしまう。かっこいい言葉を使うと不条理極まりない空間がそこに展開、むしろ密封されていく。
それと関係して重要なこと、筆者が気に入っている点がもう一つある。それは「結局のところ背景説明等に意味はない」ということである。
エレベーターの外で一体何が起きているのか、唐突に乱入してきたこの血まみれの男は何者なのか、様々な疑問が沸き起こり、かつ説明が拒否されて登場人物も視聴者もその答えを渇望するようになる。謎を解きたいという願望はまあだいたい仕方ない。余談ではあるけど『CUBE』はシリーズ化されていていくつかの作品が出ている(ナタリは監督していないけど)。その中に『CUBE ZERO』という『CUBE』の外から謎を解こうとする、つまり作中のCUBEの存在理由を明かそうとする作品があるのだが、人はやはりそういう欲望には勝てないのかもしれない。
でも『CUBE ZERO』を見なくとも(むしろ見ない方が)初代『CUBE』を楽しめる。それはやはり『CUBE』にそんな説明が不必要だからであって、それと同じように『Elevated』も背景説明は実は不要だったりする。あんなに喉から手が出るほど欲しかったのに、いざ手にしてみるとゴミなのだ。『CUBE』も『Elevated』も背景の存在を信じてしまいつつも、その背景に価値はないことが作品を視聴していく中でわかっていく。
逆説的に言うと、背景に価値がないこと、背景がゼロであることが背景とその説明に価値を与えているのかもしれない。ゼロの背景に登場人物も視聴者もあれこれ思いを巡らせるがしかし、最後の最後にその思考が無駄であったことを悟らせる。その落差がたまらないのだ。パニック映画、色々勉強させられる。
なんだか『Elevated』の感想というより『CUBE』との比較みたいになってしまった。けれどこの『Elevated』の中に『CUBE』の本質は詰まっているので是非この二つは比較しながら見てほしい。
②トム・マッカーシー『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)
『Elevated』の感想に労力使いすぎたので前にtwitterに連投したヤツのっけるので簡便してほしい。はっきり言ってあまり記憶に残っていないのだ。
アカデミー脚本賞・作品賞受賞ということで映画『スポットライト』を見てきた。正直に言うとアカデミー賞が欧米世界のものであることを思い出させた。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
神父による性的虐待とカトリック教会の隠蔽体制を暴こうとする地元記者たちの戦いというストーリーだけれど、記者たちの熱い働きにのみ視点が集中してどうして隠蔽が起きたのかそういうカトリック側の動機がいまいち描写されない。事態が暴かれていくのはわかるが根源的なところに届かなくてもにょる。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
別に悪辣な教会との激闘とかは期待してないけれどもう少しインタラクティブな関係が欲しかった。元が現実の事件だから仕方ないけど。それと作品全体がアメリカ社会を基盤としているので日本人からすると問題の気持ち悪さやリアリティを実感しづらいところがあるかもしれない。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
この「アメリカ社会」という背景が理解できないと作品の本質も理解できないのかなと思った。実際ぼきはアメリカ社会を理解できてないのでそれを吟味することができなかった(クソザコ)。その意味でアカデミー賞はやはり欧米の賞なんだなと。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
作品の表面だけ見るとクッソ地味な映画で見どころもよくわからない。けれど深層には恐ろしいほどグロテスクな現実が待ち構えている。でもそこに辿り着くパスポートを持ち合わせてないのでその本質に出会うことができない、そんな感じ。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
作品の魅力も紹介すると児童虐待・同性愛問題について踏み込んでその被害者のトラウマとその告白の重大さが明確に描かれている点でした。性的虐待を受けた児童が大人になっても傷を抱え続けるところとか、普段よく「児童虐待」という言葉を見るけどその言葉の重みがひしひしと伝わる。
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
マイケル・キートンかっこいいンゴ
— HCI式マキノ (@ActioSurrealism) 2016年5月3日
「見に行く価値ある?」って尋ねられたら「それは自分の目で確かめてほしい」と答える映画。アカデミー作品賞・脚本賞ってことで期待しすぎると拍子抜けするかも。
おわり
映画の感想を書くのって結構疲れることに気づいた。この先これが続くか不安だしもう少し楽なトピックが欲しい。でも絶対にパスタの画像はアップロードしないから。
極めて個人的な問題
去年12月末、新宿バルト9で「劇場版 ガールズ・アンド・パンツァー」を見たあと、ぼくはしばらく放心状態になるとともに脳内にシュプレヒコールの波が通り過ぎていった。