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Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

極めて個人的な映画関連メモ②

まえがき・感想を書くということ

 映画の感想ってどのタイミングで書けばいいのか困る。そりゃ見た直後が内容も細部も覚えてるから精度の高い感想が書けるだろう。精度の高い感想ってなんだ。でもまあ「思い出補正」なんて言葉が示す通り視聴してから時間が経つとノイズが入り込んでやっぱり正確な評価はできないらしい。

 論点は循環する。正確な評価ってなんだ?正確、というのは客観的正しさを持ってるということになると思うけど映画は個々人の視点から成り立つものだからそんなこと言っても不毛なんじゃないか(この文章がそも不毛であるという抗議はもちろん受け付けている)。
 論点がずれているので修正する。感想を書くタイミング、これが難しい。一度楽しんで見た映画でも、数年後また見返して見るとつまらなかったりする。以前にホドロフスキーの『リアリティのダンス』を新宿のシネマカリテで見たとき、筆者は最高に楽しんでたのだがその何カ月後かに早稲田松竹でやってたのを見たら何故か退屈で苦痛な映画になってしまっていた(ちなみに同時に上映していた『ホドロフスキーのDUNE』も退屈だった。完成しなかった作品が「傑作になったはずだ」と言われ続けるのホント腹立つ。だったら完成させろよ)。もちろん、逆に後から見たら面白かったなんて例もあるかもしれない。まあつまんないと思った映画は二度と見ないだろうけど。
 

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これ見るんだったら『エル・トポ』を見返した方がマシだと今はそう思ってる。
 
 『リアリティのダンス』の例は2度目を見たから発生したものだ。早稲田松竹が『リアリティのダンス』を上映しなければ、後輩の映像オタクに誘われなければ、筆者の中での『リアリティのダンス』に対する感想はポジティブなもののままだったはずだ。早稲田松竹様にも後輩の映像オタクにも罪はない。
 「感想」なんてものはいくらでも変化する。ブログや雑誌に書き記されたそれはその瞬間のその人の感性から切り出したものでしかない。「評論」となるとまた別のものになるからここではそれは省く。筆者は評論を書けないし。
 そんなわけで、映画の感想を書くのは難しいなと思った。筆者は元から厳密性だとか反証可能性を考えて文章を書くタイプではないので何を今更と言うところだが、こうしてみると結局何のために映画の感想を書くのかよくわからなくなる。
 だから、映画の感想を書くという行為は映画を筆者の感性が切り出すというより映画が筆者の感性を切り出す、と言った方がいいのかもしれない。これでまたこのブログの私性が高まってしまった。
 
  そんなことを思いながらも、とりあえず、また今回も感想を書いてみようと思う。この前早稲田松竹で二本立てでやっていたベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』『ラストエンペラー』の二つ。
 

ベルナルド・ベルトルッチ暗殺の森』(1970)

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 タイトルがネタバレなので何言ってもいいだろう。
 ファシズム政権期イタリアのスパイがハネムーン中に反ファシズムなフランス人老教授の奥さんに恋をしたり老教授諸共奥さんを殺したりするそんなお話。
 筆者はファシズム期イタリアという背景に興味を持って見に行ったのだがぶっちゃけそこらへんは重要じゃない。テーマ、みたいなものは主人公マルチェロ・クレリチのどうしようもないクズさなのだが、視聴者は無条件に彼をなじることはできないように思う。幼少期に同性愛者に襲われそれを射殺してしまったというトラウマがあるにしても、ファシズム政権下で「正常」を渇望するクレリチの歪曲した精神はどこか他人事とは思えない。別に視聴者全員がそう思う必要はなくて、クレリチのどクズさ加減に苛立った人なんかは途中で席を立ってもいい。けれど、恋した老教授の奥さんを自分の手で殺すことなく、黙って殺される様子を見、名前を呼ばれても黙っていたり、イタリアの敗戦が決定した際に友人(この友人は視覚障碍者ファシスト党員でクレリチの入党を仲介していた)を「こいつはファシストだ!」と糾弾するそのクレリチのどクズさに筆者はどこか共感や愛着を覚えてしまう。
 そんな自虐的共感とともに感じていたのは、この映画が凄まじいモダニズムを映し出しているところで、近代主義者である筆者はたまらなく興奮していた。「モダニズム/近代」の定義論争をするつもりはないのであしからず。
 車両で移動する、カメラを傾かせる、車の移動方向の直線と鉄柵の直線が交錯する、巨大な構造物の中、床という平面と階段という立体が交錯する、ダイナミックに。ベルトルッチが意識していたかどうかはわからないが、この空間や視点の使い方に筆者は(半ば勝手に)モダニズムを見出してしまっていた。モダニズム好きでない方が見ても、この空間の魅せ方は非常に卓越していると思う。
 映像面から言うと、光の演出も巧い。クレリチと老教授の会話の中でプラトンの洞窟の比喩が出てくるのだが、その際にカメラはクレリチの影を映し出し続ける。最初はペダンチックで安直やなと思ったがじっくり見ているとこれもありやなと思うようになってしまった。他にも夕陽の差し込む列車内での濡れ場、曇天に暗いパリ(特にお気に入り)、陰鬱な森の中、ラストシーンの蝋燭など、若干ストレートだなと思いつつも光の重要さを思い出させてくれるシーンが多い。嫌いじゃない。
 
 正直、見ているときは退屈だったりストレスの溜まったりする映画かもしれない。けれど、見返したり(今こうして筆者がやっているように)思い出して考えてみたりするとなかなか面白い映画となっている。スルメ映画、オススメ。
 

ベルナルド・ベルトルッチラストエンペラー

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 アカデミー作品賞も取ってたし舞台が東アジアということで日本での知名度はかなり高いと思う。なので筆者が今更感想を書く必要もないように思えるけど既に述べている通りこのブログは極めて私的なのでそこらへんは気にしない。気にしたいのはぶっ続けで映画の感想を書くのは疲れるので筆者がこのままちゃんとした感想が書けるかどうかだ。ちゃんとした感想の存在可能性の是非については語らない。

 知っての通り「ラストエンペラー」とは清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀のことでこの作品は溥儀の生涯を映した歴史映画であるが、「どうせみんな展開は知ってるでしょ」ということなのか最初から戦後中国、つまり中華人民共和国が映し出される。戦犯逮捕スタート。ストーリーは中国での戦犯溥儀に対する尋問・強制収容所生活と清朝満州国時代を行き来しながら展開されていく。

 それを聞くとめっちゃ面白そうやんけと思うだろう。けれど、それに続く清朝時代の映像を見たときは「失敗したな」と思ってしまった。まず登場人物が一部を除いてほとんど英語で演技し始めたので「英語帝国主義許せねえ……英語帝国主義許せねえよ!」となってしまった(既に序盤で英語は使っているのだが)。まあだいたいこういうのは後々気にならなくなるのだが、つまらないことに腹を立てるオタク特有のめんどくささを発揮し掴みは著しく低かった。また、溥儀を清朝皇帝に指名する西太后も序盤で出てくるのだがそのオリエンタリズム丸出しの演出にまたしても筆者は「欧米中心主義許せねえ……欧米中心主義許せねえよ!」と無駄にアジア的憤りを感じてしまった。無駄に変な学部で無駄に変なことを学んでしまったので無駄に腹を立てることとなってしまった。こういうことは社会に出ても一切役に立たないのでさっさと忘れたい。

 そんなわけで掴みは最悪だった。皇帝の即位式において数千のエキストラが溥儀の目の前で三跪九叩頭の礼をするシーンは圧巻だったりするのだが、英語の飛び交う紫禁城の中で「アジア的」演出が映し出される。なんやねんベルトルッチ。付け加えると筆者はフィクション中に出てくる「子供」という存在が死ぬほど嫌いなので天真爛漫というか厚顔無恥に振る舞う幼少期の溥儀にも半ばキレていた。もう見るのやめろよ。

 状況が変わるのは溥儀が思春期くらいに入ったところ、辛亥革命の勃発から。筆者が国家の滅亡やら革命やらといった要素が好きなのもあるが、こういう衰退を見るのは本当に楽しい。辛亥革命紫禁城に閉じ込められ、北京政変では逆に追い出され溥儀は妻の婉容・文繍とともに天津に逃げる。

 どうでもいいのだが思春期の頃から溥儀に仕えていた家庭教師ジョンストンさんがいい人すぎる。欧米人はやはり知性と人間性を兼ね備えているのか、それに比べてアジアのイエローモンキーどもは……とまた無駄なことを考え始めてしまう。どうでもいい。

 こっからはもう凋落アンド凋落の連続である。ジョンストン先生は「イギリス政府が助けてくれる」言ってたのに手を伸ばしてくれたのは結局日本だけだし下心丸見えだし、側室の文繍にも逃げられるし、溥儀に構ってもらえない婉容はメンヘラをこじらせるし。そうして満州国建国へと進んでいくのだが、ここらへんになるともうすべてが空疎である。皇帝即位の儀式もおままごと、婉容はアヘン中毒、皇帝の権威も見かけ上だけで実権はすべて日本のもの、最高かよ。

 あとはお察しのように世界大戦が終結し日本は敗戦、溥儀も逮捕され最初のシーンへと繋がる。王様気分の抜けない溥儀が収容所内で根性叩き込まれるシーンは性格が悪いようだがすかっとする。その後、収容所内での「教育」を終えた溥儀は北京で一般の植物園職員となるのだが、この後のラストシーンがこの映画屈指の名シーンとなっている。半世紀ちょっとでここまで時代が変化するものなのか、20世紀が最高だった理由の一つを垣間見ることができる。

 映像面から見ると主演のジョン・ローンの演技が非常に良い。溌剌とした青年期からどんどん生気が失われていくも、戦後になるとどこか解放されて悟ったような表情をする溥儀、そうした変化を巧く表現していると思う。そういえば音楽は坂本龍一だが、少しベタつく。久石譲もそうだが、この二人の映画音楽はなんだか映像より前面に出ようとしている気がする。音楽自体はいいけど。

 実験的にあらすじと一緒に感想を書いてみようと思ったが、やけに長くなる。映画も長い。劇場公開版だと3時間弱、オリジナル版だと200分を超えるとかなんとか。個人的に映画は120分を超えると一気に面白さのハードルが上がるのだが、これはそのハードルを越えていたと思う。でも長い。疲れる。なのでもう二度と見ないだろう。けどあのラストシーンをもう一度見たいという欲も湧き上がる、そのためには再び160分見ないといけないのだが。

 

おわり

 感想を書くのがどうだこうだ言っていたが今ここで思うことはやっぱり多分に労力が要るということ。もう少し楽に書けて面白いトピックはないのか。適当に考えていたのは映画版『バーナード嬢、曰く』みたく「見ているとかっこいい映画・通ぶれる映画」とか紹介できたらと思うのだがああいうのは書いている人が通だからできるわけでこの企画もなかば諦めている。

極めて個人的な映画関連メモ①

前書き。書くこと。注意すること。

 折角ブログを開設したのに記事が一本しかないというのはあまりに悲しいと思いなんとなく記事を書いてみようという結論が下された。

 と言っても極めて普通の市民である筆者の生活の中にそれほど読者諸賢の目を引くようなトピックがあるわけでもなく、どこからか面白いネタを拾ってくるような技術や労力を持っているわけでもない。

 そんなわけで、特に書くことはない。が、それは筆者が余計に公共性だとかコンテンツ性だとかを考えてしまっていることが原因になっているので、その足枷を取ってしまえばいくらでも文章なんて書けるだろう。

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 先週日曜日にパスタを食べに行きました。おいしかったです。 

……それでもiphoneで撮影した写りの悪いパスタに筆者の感想を添付した記事を書くのはさすがに気が引ける。キモオタ社会人が社会性を獲得しようと必死な姿を見るのが趣味だという人がいるなら話は別だが、生憎そんな人に見せるパスタの画像はない。付け加えておくと4月に筆者は無事入社し社会人となってしまった。しかし新社会人は毎年50万人以上この社会に出現しているわけで、その中の一人になりましたという報告はとても記事にするに堪えないんじゃないだろうか。

 

 前書きが長すぎる。こういうことは簡潔に話すようにと外部研修で教わった。書くことはシンプルに。そう、書くことと注意すること。それを書くのが前書きの目的だった、目的である。

 書くこと。とりあえず唯一の趣味らしい趣味である映画について書いていこうと思う。最近見た映画の感想とか。それなら、多少はこのブログも公共性を持つんじゃないだろうか。ただ、筆者は年間に映画数百本を見るようなシネフィルではないので教養のなさが目立つかもしれない。しかし年間に映画数百本を見るようなシネフィルが持つ教養を見たい人はだったら他を当たってほしい。ここにはそんなものは片鱗さえ姿を見せない。まあ筆者もそれなりに努力していくが期待しないでほしい。期待できる点と言うと、本記事のタイトルを見てもらうとわかるようにナンバリングがされている。2、3、4、と次が出てくることを期待してほしい。

 注意してほしいこと。ここまで読んでもらって申し訳ないが、相変わらずここの文章は筆者の極めて個人的な状況と目的に基づいて展開される。公共性やら速報性なんてものは考えてないから、今ホットな話題映画のレビュー、みたいな芸当はまず期待できない。とりあえず筆者が映画館に行って面白そうと思って見た映画、適当にレンタルショップで借りてきた映画、というふうに選択に基準はないからめちゃくちゃになることが保証されている。

 そも、ここで映画について書くのはある種の備忘録的機能を筆者自身が期待しているからである。それと若干の文章練習。この二点を目的としている時点で既に公共的なコンテンツは期待できない。あくまでこれは筆者のためのブログである。いやらしい。

 それと、ネタバレは普通にやっていく。お前の楽しみなんて知らんよ、そんなものは。

 そういうわけで、前書きはここで終わり。読んで気づいたかもしれないが筆者の文章は冗長であり要点論点の場所がわかりづらい上に誤字脱字が激しい。そういう文章が嫌いな人はさっさとブラウザバックした方がいい。こんなことは言いたくないがぼくはあなたのために文章を書いているわけではなく自分のために文章を書いている。

 

 今回とりあえず感想を書こうと思ったのは『Elevated』と『スポットライト』。ジャンルも違うし時代も全然違うしそこらへんを統一させる気がないことを理解してもらえたと思う。

 

ヴィンチェンゾ・ナタリ『Elevated』(1997)

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 ナタリと言ったらふつう『CUBE』の方が代表作に選ばれるだろう。『CUBE』はその昔に親が借りてきたのを見たのだが今も絶賛筆者の中でトラウマとなっている。もし子持ちの方が読者の中にいたら小学生に『CUBE』は見せないであげてほしい。

 話は『CUBE』ではなくその基となった短編映画『Elevated』だ。『CUBE』のDVDだったかVHSだったかにおまけとして付いていたはずだから見ている人は見ているかもしれない。だが小学生のときの筆者は『CUBE』の恐怖に堪えかねてテレビの前から途中退場してしまい、『Elevated』の方はちらりちらりと覗いた程度でちゃんと見ていなかった。それで、最近ナタリの名前を目にしたとき「『CUBE』に付いてたヤツなんだっけ?」ということで探し始めて遂に見る機会を得た。実に17年ぶりの再会であった。

 結果から言うとクッソ面白かった。映画自体は20分ほどしかない短編なのだが『CUBE』でやってたことのほとんどがこの作品の中に詰め込まれており、高密度という他ない。

 密室空間でのパニック、グロテスクな殺人演出、色々見どころはあるかもしれないけれどやはり個人的に気に入っているのは「説明の少なさ」というところ。これは『CUBE』でも重要なエッセンスだったように思う。

 主人公らは唐突に密室(エレベーター)の中で混乱に巻き込まれるが、その混乱の原因は一切説明されない。いや一応説明はされているのだけれどちぐはぐで意味不明だったり説明役があまりに怪しすぎて信頼できなかったりする。そんなわけでエレベーターの中には理不尽なパニックが充満して、あんなことやこんなことが起きる。

 ホラー映画・パニック映画をそんなに見てこなかったからか、この「説明をしない」というテクニック?は結構衝撃的だった。確かに小説書いてるとき、ある説明を省いて謎を浮上させるとかそんなやり方はよく使うけど、「説明をしない」ことがここまで主題的・前面的になっているのは『Elevated』が初めてかもしれない。

 今キーボードを打っているときもそうだが、基本的に何かを表現しようとするときって全体を説明しようと努めがちな気がする。背景は何か、画面の中で何が大事か、この文章はどういう意味を持っているのか、色々考えて、説明したくなる。説明しなくとも、受け手が察すること・察することができることを考えて表現したくなる。意識的に説明を省く際には、その中から省いてよい・省くことで効果が出ることが期待されるものを省く。

 けれど『Elevated』では一切が説明されない。何も説明されないまますべてが進んでいく。しかも空間はエレベーターという密室で、外界とはまったく切り離されている。登場人物どころか視聴者さえこの「説明の不在」によってそのパニックに巻き込まれてしまう。かっこいい言葉を使うと不条理極まりない空間がそこに展開、むしろ密封されていく。

 それと関係して重要なこと、筆者が気に入っている点がもう一つある。それは「結局のところ背景説明等に意味はない」ということである。

 エレベーターの外で一体何が起きているのか、唐突に乱入してきたこの血まみれの男は何者なのか、様々な疑問が沸き起こり、かつ説明が拒否されて登場人物も視聴者もその答えを渇望するようになる。謎を解きたいという願望はまあだいたい仕方ない。余談ではあるけど『CUBE』はシリーズ化されていていくつかの作品が出ている(ナタリは監督していないけど)。その中にCUBE ZERO』という『CUBE』の外から謎を解こうとする、つまり作中のCUBEの存在理由を明かそうとする作品があるのだが、人はやはりそういう欲望には勝てないのかもしれない。

 でも『CUBE ZERO』を見なくとも(むしろ見ない方が)初代『CUBE』を楽しめる。それはやはり『CUBE』にそんな説明が不必要だからであって、それと同じように『Elevated』も背景説明は実は不要だったりする。あんなに喉から手が出るほど欲しかったのに、いざ手にしてみるとゴミなのだ。『CUBE』も『Elevated』も背景の存在を信じてしまいつつも、その背景に価値はないことが作品を視聴していく中でわかっていく。

 逆説的に言うと、背景に価値がないこと、背景がゼロであることが背景とその説明に価値を与えているのかもしれない。ゼロの背景に登場人物も視聴者もあれこれ思いを巡らせるがしかし、最後の最後にその思考が無駄であったことを悟らせる。その落差がたまらないのだ。パニック映画、色々勉強させられる。

 なんだか『Elevated』の感想というより『CUBE』との比較みたいになってしまった。けれどこの『Elevated』の中に『CUBE』の本質は詰まっているので是非この二つは比較しながら見てほしい。

②トム・マッカーシー『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)

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 『Elevated』の感想に労力使いすぎたので前にtwitterに連投したヤツのっけるので簡便してほしい。はっきり言ってあまり記憶に残っていないのだ。

 

「見に行く価値ある?」って尋ねられたら「それは自分の目で確かめてほしい」と答える映画。アカデミー作品賞・脚本賞ってことで期待しすぎると拍子抜けするかも。

 

おわり

 映画の感想を書くのって結構疲れることに気づいた。この先これが続くか不安だしもう少し楽なトピックが欲しい。でも絶対にパスタの画像はアップロードしないから。

極めて個人的な問題

 去年12月末、新宿バルト9で「劇場版 ガールズ・アンド・パンツァー」を見たあと、ぼくはしばらく放心状態になるとともに脳内にシュプレヒコールの波が通り過ぎていった。

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ガルパンにストーリーはない」
 
 そんなことをTwitterでつぶやいたり、アニメ好きの友人と会話すると予想に反して首肯してくれる人が多かった。
「起承転結もスポ根という土台もあるだろ!いい加減にしろ!」とツッコミを入れたくなる人もいるかもしれない。けれど、ガルパンのストーリーを楽しんでいる(面倒な言い方だと"消費している")人ってどれほどいるのだろう?
 言いたいことははっきり言おう、ガルパンという作品において「ストーリー」は前面に出てこない。確かにあるにはある、起承転結、主人公の成長、主人公たちの目的と努力と達成……けれど、「ガルパン」という作品の主題はそこにはない、既にタイトルが示してる通り「ガールズ・アンド・パンツァー」が主題だ。
 ガルパンの何が面白いかって(もちろんそれは人それぞれだろうが)女の子が戦車に乗って戦車で戦うことだろう。当然過ぎて笑えるな。けど、アニメとしてそれだけやってたらつまらないだろう。戦車、女の子、ぽいっ。バカか?そこでその床に散らばった戦車や女の子をうまく見せるための枠、フレーム、額縁が必要になる。ガルパンにおけるそれが「スポ根もの」や「西住みほの成長譚」なのではないだろうか。
 つまり、「戦車と女の子」という絵画(=アニメ)を飾る際にストーリーが額縁となっている、額縁があるがゆえに絵画の形は決定、安定しぼくたちはその絵画に視点を集中させることができるということだ。ただし、額縁は絵画を見るときに注目されない、無意識に見てはいるけど。
 
 ぼくの意図は別に「ガルパンにストーリーはない!クソアニメだ!」などと糾弾することではない。ストーリーがないからクソ、というのは成り立たない。
 問題は劇場版ガルパンを見てぼくがショックを受けたという極めて個人的な問題である。普遍的な何かを求めてる人はここまで読んでもらって申し訳ないがブラウザバックをオススメする。今更すぎる。
 
 閑話休題。問題は、そう、何でショックを受けたかということだ。そしてそのショックとは「ストーリーがない」(厳密に言えばストーリーが前面化していない)ことだった。いや、そうでなくて「ストーリーがないのにクッソ面白かった」ことだった。
ストーリーがないのに面白い映像作品は確かにある。
 個人的にその代表格としてW・ヘルツォークの「小人の饗宴」を挙げたい。ただこの作品はひたすらにニヒリスティックな映像を垂れ流し「重厚な虚無」を描き出すことを目的としている(少なくともぼくはそう思ってる)のでガルパンのようなエンターテイメント作品と比較することはできない。ただ面白いのでこの場でちょっと紹介がてらオススメしておきたい。鑑賞によつて生じた問題について筆者は責任を負いかねます。
 エンターテイメント作品にも関わらず、ストーリー不在で面白いガルパンという映画は一種の特異点だった。ぼくにとって。
 そこで何が面白いのか考えてみるとそれは結局「女の子が戦車に乗って戦ってる」映像そのものが面白いのではないかと思う。
 読者諸賢は「さっき戦車と女の子だけならつまらないとか言ってたじゃん」と思うかもしれないけれど、そうなのだ。あの厳しい戦車たちに乗って女の子たちがドンパチやる、その映像にひたすら見とれていたのだが、問題はそれが純粋であることだ、雑味がない。戦車に乗った女の子たちのその背景が真っ白だから、文句をつけられないのだ。
例えば戦車戦の中に恋愛要素をぶち込んだら?例えば戦車戦の中に戦いの悲惨さ(もしくは楽しさ)をぶち込んだら?クッソつまんなそう(小並感)
 テレビ版では主人公の成長とか友情とかそういう要素が戦車戦の中に入っていたかもしれない、ただそれでも"それによって"勝利することはなかった(はず)。絶体絶命のピンチ、友情パワーで敵戦車を撃破とか。プラウダ戦は友情で奮起したけど最後の方は戦術の勝利であって友情要素は薄いんじゃないですかね。そういうことにしておいて。
つまり、ガルパンにおける戦車戦って純粋に戦車戦。そして劇場版だと最初のエキシビションも大学戦もその性格が強くなってただ「女の子たちが戦車に乗って戦う」になっている。スポ根を額縁にしてるからそうたろうけど、戦車戦そのものはスポーツであり純粋であり、背景はない、あったとしてもそれはほとんど描かれない。
 ガルパンにおける戦車戦の消費は、つまり、スポーツ観戦と似ている?ちょっとここらへんは色々と考えたい。
 
 重要なのは、ガルパンの戦車戦を楽しむときの視点の在り方、マクロ的に見るかミクロ的に見るかだ。わかりづらい。言いたいことは、楽しむ対象は戦闘全体の趨勢ではなくその場その場のシーン、端的に言えば光と音。
 あるチームの戦闘とその帰結、カット、あるチームの戦闘とその帰結、カット、あるチームの戦闘と帰結、カット……。
 観客(ぼく)は戦闘全体の動きを、飴を舐めるように恒常的に楽しんでるのではなく、口の中で弾け続けるパウダーを楽しむように消費している。つまり、視聴する上での"楽しみ"は細分化不可能な一個ではなく幕の内弁当みたく分けられた個々のシーンの集合体である。
 ガルパンにストーリーはない、と冒頭で言ってしまったがここにもそれと似た、というかそれそのものの構造はこれ。指示語が多すぎる。ガルパンは快楽の集合体、またはパッチワーク。その集合体の爆発四散を避けるための額縁としてのストーリー。はい。
貶めてるように聞こえたら申し訳ない。けれど、ガルパンの何が面白かったか、感想とか聞くと「あのシーンが良かった」なんて答えが返ってくることは少なくないような(印象論で語ってはいけない)。もしくは「あのシーンのあのネタ」「あのキャラクターのあのシーン」っていうの多い……多くない?ぼく個人としてはエキシビションのカチューシャとダージリンの掛け合いが好きです。
 
 ここに来て、この文章のテーマであるはずのガルパンに対するショックの内容について些か無理矢理ではあるけれど修正を迫らなければいけない。だらだらと書きながら薄々気づいていたけれど、小っ恥ずかしい自意識トークになりそうだから避けたかった。ただ既に小っ恥ずかしい自意識トークは始まっているのであり、だから、遅すぎたと言ったんだ。
 ショックの内容は「ストーリーかなくとも面白い」のその先、「ストーリー不在の作品が受容される時代の実感」だったのだと思う。
 さっきも言ったけれど、そうした作品は既にいくらでもある、日常系とか言われる作品群はそれだし時代の象徴と言っても過言ではないかもしれない。
 ぼくも好きだし(今は『大家さんは思春期!』にはまってる)、そうした潮流があるのはわかっていた。

 

 

 

 

大家さんは思春期! 1巻 (まんがタイムコミックス)

 

 

 (日常系と一括りにして語るのは色々と難しいけれど)日常系もストーリーがない。数コマ単位、もしくは一コマ一コマを断続的に消費するのが日常系の形だ、異論は認める。
 日常系は大部分がその名の通り日常を映し、そこで消費されるのも「戦闘」だとか「悲恋」だとか大味のものではない。言ってしまえば薄味だ。
 しかし、ガルパンは違う。ガルパンで消費されるものの中には女子高生たちの平凡な日常も含まれるが、何度も言ってるように主題は「戦車で戦う女の子たち」もしくは「女の子たちが乗る戦車」だ。これを薄味だと思う奇異な人はいないと思う。
 けれど、ガルパンに対する消費形態は日常系とそう変わらないのではないか。つまりその場その場のシーン、断続的な消費の集合、「〜的」と言うと語弊を招きがちだが、ガルパンは日常系的消費形態下にある、と言いたい言ってみたい。
 そして、ガルパン劇場版は日常系的消費形態の下で、劇場で、大スクリーンで、爆音で、視界と鼓膜を揺さぶって快楽を生む!身体的快楽!それも断続的な集合体として!
 
 ……これがぼくの、ショックの原因なのだと思う。戦車戦の大味を日常系を見るときのような形で断続的に身体にぶち込まれる。そして、それが楽しかった、周囲も楽しんでいた。ぼくはコンテンツにおける時代の変化を身体で直接感覚させられたのだ。
 もうストーリー、そんな凡庸な言葉で隠すのはやめよう、"大きな物語"は作品から消えて、一瞬一瞬の刹那的な快楽を断続的に消費し続ける、そんな時代なのだと無意識に悟った。
 
 これでぼくの小っ恥ずかしい個人的な問題についての供述は終わりである。ここからは蛇足。
 
 ショックの内容について、許されるなら付け足したいことがある。
 バルト9から出た後、放心と焦燥を感じながらぼくは作品について色々と思い出そうとしていた。けれど、何について思い出すべきか、皆目見当がつかない、端的に言えば、何も覚えてなかった。
 読書に読後感があるように映画を見終わったときも何かしらの余韻があり、その意味で作品の消費は継続している。
 けれど、ガルパンはそれがなかった。劇場の灯りが点いたとき、ぼくはもうガルパンを消費することをやめていた。何も覚えていないのだ。誰が、映画のラストを語っている?覚えている?というかどこがラストになるんだ?
 ガルパンを消費するためには、劇場に足を運ばなくてはいけない。銀幕の前に座り、一瞬一瞬の映像に注視し、音響に耳を傾けなければいけない、過去も未来も参照してはいけないその必要はない。
 そして、消費は一瞬で終わるから、身体を震わせてもすぐに消えてしまうから、何度も劇場に通うことが可能ではないか、そんな風に考える。
 
 話題が逸れるが、どうして「ガルパンはいいぞ」という言葉が流行ったのか(このフレーズはぼくは非常に嫌いである)、その答えもここに隠されてるような気がする。あくまで個人の感想です。
 結論から。ガルパンに本質はないから。より突き詰めて言うと、本質が分散してしまって多元化しているから。
 例え話。一枚のステーキについてその感想を言おうとすれば、肉の食感とかソースとの相性とかそのステーキを中心に語るだろう。
 では、幕内弁当の感想はどう言えばいいだろうか。一つの惣菜ばかりを褒めるわけにもいかない、それでは幕内弁当の感想にならない。他の惣菜についても語らなければいけない、もしくは惣菜全体のバランスについて語らなければいけないかもしれない。
 ガルパンは、後者だ。様々な惣菜が入っている。ただここで注意したいのは惣菜は物語上の要素(戦車とかキャラクターとか)を意味せず、各シーンのことであるところ。シーンが分節化されシーンはそれぞれの文脈で消費される。それがガルパンの幕内弁当的構造だ。
 なので、ガルパンについて語るとき、その人は何について語るべきか明確な答えを持たない。一つつまみ上げてそれについて語るのはいいだろう、また別のものを挙げてもいい。だが、作品全体を語ることは難しい。あまりに惣菜が多すぎる上に全体を整えるストーリーの味はないし、そもそもストーリーの味が強かったら幕内弁当ではなくステーキになるだろう。
 結局のところ、語るべき点が拡散していて本質的な語りが不可能になっているのだ。そうしたときに、ある程度全体を掬い上げる形で語れる感想が「ガルパンはいいぞ」になるのではないだろうか。
 
 最後になるが、もうすぐ公開される4DX版は恐怖の対象としか言いようがない。既に劇場でとんでもない身体感覚をぶち込まれてるのに、4DXなんて見たら(感じたら)発狂しかねない。
 恥ずかしいことに1週間ほど前に初めて3D映画を見た。舐めてかかったら痛い目にあった。劇場内における身体感覚の変革の時代とかかっこいいこと言っておきたいし、そのことについて考えることは十分に意義あること……意義なんかねえよ!!!!!!!アニメやら映画見てうだうだ言うことにアクチュアリティなんてねえよ!!!!!!!
 
終わり!!!!!