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Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

苦痛について

2017/2/20

 無意味という毛布に包まって眠ってしまえ。

 

 めちゃくちゃ久々の投稿です。自分でもこのブログの存在をすっかり忘れていた。放置していた理由はこの文章を書く理由と同じで特にない。強いていうならこのブログのトップに広告が出ていたので、なんか悔しかった。

 

 変なタイトルをつけてしまった。岩波文庫じゃねえんだぞ。

 このタイトルで書こうと思ったのは筆者が「苦痛」が好きだからに他ならない。別に殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのが好きとかそういう嗜好を持ち合わせていない。むしろメンタルが弱いのでやめてほしい。まったく別の話だけどよく「性的嗜好」が「性癖」という語に置換されてることを目撃するのだけれどこの書き方あんまり好きじゃない。こういう文句ばかり垂れる大人にはなりたくなかった。寛容の心を持て。

 

 話が逸れすぎている。「苦痛について」。自分でもよくわからないけれど、苦痛が好きだ。自覚しているので先に言っておくとここで言ってる苦痛は結局のところ苦痛のストーリーであって我が身に降る苦痛は先程申し上げました通りご遠慮願いたい。

 だから、じゃあ、それなら、あんたの言う苦痛とは何なんだ。テーマとなる概念の明確な定義がない以上、論ずるに値しない文章だ。

 無意味、とりあえず一言で済ますならこの一語だと直観する。虚無だとかまた別の言い方があるかもしれない。無意味ってなんだ?

 この世界(フォカヌポゥ)はあまりに意味が溢れすぎていて、意味のハザールだ(デュフフ、拙者、つい)。

 人は生きる意味やら働く意味やら、家族を持つ意味、少し文脈を変えると国家の意義や歴史の意義を考えたがる。こういう超越論的な語り方はよくない。俺は村上春樹じゃないし、村上春樹は超越者じゃない。村上春樹と言えば今度また新作出るんすね。

 無意味に人は耐えられないとか、そういう古代ギリシアから言われてそうな論を蒸し返す気はない(アリストテレスがそんな話をしているかどうかは知らないが、万物について語ってる連中だからそういう話もしてるはずだ)。

 問題は、「苦痛」「無意味」には面白さがあるということだ。

 これくらいしか話せる分野がないのでこの話になるのだけれど、「無意味」を題材にした映画はやっぱりあって、どれもこれも見応えがある。無意味をテーマに据えてんならそれ有意味じゃんとか突っ込みはやめろ。

 前にブログで紹介したかもしれないが、ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』(最近BD出たよ)、それとアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』、タル・ベーラの『ニーチェの馬』がこのテリトリーのトップ3だ。リンチの『イレイザー・ヘッド』を加えてもいいかもしれないがなんか違うのでやめた。

 これらの作品が示すのは人生やら人類やら世界やらはどうしようもなくどうしようもなくて、ただひたすらにつらいね、とそんなお話だ。抽象的すぎる。でもそんな感じだから仕方ない。

 この意味希求的世界を吹っ飛ばしてくれる。それが個人的にどはまりで、最高なのだ。性格捻じ曲がりすぎだろ。でも世界観を吹っ飛ばす(される)というのはこれ以上ないほどに心地よいものがある。そうして無闇矢鱈に破壊しつくしていくと何もなくなる。他人の信条を破壊するのは何物にも変えられない趣きがある。俺が戦後日本の具象化だ。

 「無意味」の心地よさはそれだけでない気がこの文章を書きながら湧いてきたのでこのまま続けます。

 V・E・フランクルは「生きることに意味があるんじゃなくてお前がお前の人生に降りかかる問題に応えていくことが人生なんやで」と言ってた気がするが、これを悪用すると結局のところ人生は無意味でつらーい現実だけが目の前に横たわっていると、そう考えることもできる。

 なんとなく、それでええやんと思えてしまうし、苦痛に抱擁されることで逆に楽になれるんじゃないかと思った。

 どうせこの世は苦痛なのだ。幸福は仮初でしかなくて、端的に言えばそれは現実に生じたエラーだ。バグと言い換えてもいいかもしれない。一羽の蛾がハーバードMk2に偶然にも侵入してしまったためにコンピュータは正しく計算できなくなってしまったが、現実もそんな感じで動いてんじゃねえかと。これだと幸福とエラー出力の因果関係が逆だ。でもまあそんな感じ、フィーリングで理解してほしい。

 ちょっと一歩だけ引く。お前が無意味を「好きだ」と言えるのは別にお前がそんなに苦しんでないからじゃないの?甘い人生送ってるからじゃないの?パレスチナの壁の中で、ダルフールの砂漠のうえでお前同じこと言えんの?

 また一歩引く。別に筆者はパレスチナ難民でもフール族やバッガーラでもない。またそれか。でも、それは事実でこの筆者はこの筆者しかいない。日本の工場プロレタリアのしょうもない苦痛とパレスチナ難民の民族的苦痛はまったくの別物なので、並列化することはできない。この話今までのブログでもTwitterでもやったからやめていいよね。

 この世は苦痛、これから目を背けると痛い目を見るんじゃねえのかと。その意味ではこの筆者の思考はただの苦痛への逃避に過ぎない。キリスト教がなんやかんやで世界宗教になってるのわかりみあるな。

 自己啓発的なことは大嫌いだ。苦痛と向き合って生きていけなんて言うヤツは信用ならない。てめえに他人の苦痛はわからないだろ。とりあえず、どっか社会の片隅で、だいたい神奈川県で、「この世はつらい」と言って、それで終わり。

 

 書けば考えもまとまるかと思ったけどそうでもなかったのでまたこのテーマでなんか書く予定にしておく。予定はいつだって無料なのだ。

  そんなこんな。

 

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アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年・ロシア)

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タル・ベーラニーチェの馬』(2011年・ハンガリー)

 

2017/2/21

 上の文章のほとんどは2月20日の深夜にスプリントミサイルの勢いで書かれたもので、今こうして投稿前に眺めてみると深夜テンションとはかくも恐ろしいものかと戦慄している(スプリントミサイルと「かく」の掛詞)。

 別に精神を病んでいるわけではないので安心してほしい。至って心身ともに健康、体重が結構増えたのが悩みだ。矛盾しているようだけれど、筆者はネガティブな思考が大嫌いで、「這いつくばってでも生き延びてやるからな」と割と生命への執着は激しい方だと自負している。簡単に人間が死ねると思うなよ、一体お前の家族と社会はいくらお前に投資したと思ってるんだ。いくら日本政府の教育への公的支出がOECD最低レベルって言ってもGDP比3.5%だぞ。防衛予算の3.5倍かよ。子供一人育てる(出産から大学まで)のに1世帯3,000万円以上掛かるからな。

 フランクルの悪用が見られるが、フランクルはほぼ確実に「現実は苦痛である」と知っている。そりゃお前ホロコーストを経験したらそうなる。そのまま端的なアナロジーを言ってしまえばこの世は壮大なアウシュヴィッツだ(こういう物言いは歴史学者に滅茶苦茶怒られるので真似しないでください。特にフランクフルト学派の前で言うなよ)。

 繕えばアウシュヴィッツの中にも意味を見出せるかもしれないけれど、みなさんご存じの通りアウシュヴィッツにそんなものはない。無限深の虚無があるだけで、あらゆる存在から意味は剥ぎ取られる。それなのに、意味を見つけようとすると高圧電流の流れる鉄条網に飛び込むのだと思う。「ぼんやりした不安感」の正体はそういた意味への欲求によるものなのではないか。相変わらず輪郭は茫漠としたままなのだけれど。

 上述の通り、「意味なんか見つけるな!」とは言わないしそんなことを言うのはこじらせ文系野郎かキチガイだ。世の文系野郎はここでキチガイと一応区別がつけられていることに感謝するように。

 ただ、高圧電流の中に飛び込みたくはないなと思う。それだけです。

 

 とりあえず、文章が長くなりすぎるのでここで一旦止める。2/20の文章では続きを書くと言っているがどうなるかはわからない。

 

 

 

 あっ、そうだ(唐突)

 去年の冬コミ出たんですけど小説サークルの現実を見せるかの如く在庫があります。

 いつも通りBOOTHで通販してるから見るだけ見ってやってください。

juken.booth.pm

面白さを共有できない人(々)

 

 

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を見た。滅茶苦茶面白かった。なので、滅茶苦茶悔しかった。

 なんで悔しがる必要があるんですか、と賢明な読者は思うだろうけれど、そういう性分なので仕方がない。

 公開初日(7/29だったっけ?)にTwitterで「『シン・ゴジラ』が無茶苦茶に面白い」というつぶやきが連発されたとき、嫌な予感がした。

  その翌日

  なにやってんだこの池沼……。

 とりあえず、29日時点で『シン・ゴジラ』が面白いというつぶやきを展開している人々の様子を見ると、『パシフィック・リム』や『マッドマックス』、『ガールズ&パンツァー』のときと同じことが起きていると直観したのだと思う、当時の筆者は。

 それがどうして危機感に繋がるのかというと、上記の類の作品が大多数の人々に賞賛される環境にあると筆者はとても性格が悪くなるからだ。意地汚く陰湿な態度を取り始め、最近に至ってはそれでいて開き直り始める(この文章も開き直りの一種である)。筆者にとって危機的環境とは、ある作品が不特定多数の人に礼賛されている状況のことである。

 筆者個人の感覚は絶対的に筆者個人のものであって絶対にあなたは共有も共感もできないけれど、Twitterやらなんやらを見ていると似たような腐った感情を抱いている人は存外に多いようである。素直に映画を楽しめない人々。

 同調圧力なんて言葉が昨今の流行だけれど、「この作品を褒めてない人にはセンスがない」などという同調圧力は実は必要ない、そんなものは被害者面した消費者モドキが勝手に頭の中で組み立ててくれる。まあそんな言葉を見たら見たでニヤニヤしながら露悪的・俗悪的な感想を間接的に返すだろう。(※検索を掛けたら『シン・ゴジラ』は絶対に見るべき!みたいなブログやツイートがヒットして少し憂鬱になった)

 勘違いしないでほしいのは、この文章は「『パシフィック・リム』~『シン・ゴジラ』の系統に連なる映画を楽しんでいる人々を叩く」ために書かれたことではないということだ。あなたがそのように解釈するなら筆者は止めはしないけれど。

 「頭空っぽな映画」とか「快楽主義の塊」、「現代日本の消費主義の極致」とかそんな言葉で作品を楽しんでいる人を貶めるのは間違っている。映画が撮られ、上映されるのは人々に「面白さ」を届けるためであり、リュミエール兄弟の映画がスクリーンに映されたその瞬間から映画の面白さはすべて消費者の所有物だ。映画に聖俗の境界なんてないし、年間300本映画を見るような映画オタクと年に2、3回映画館に足を運ぶ人の映画を見る視線の間に優劣の差はない。

 で、あるから問題は筆者もしくは我々「面白さを共有できない人(々)」(※主語が大きすぎます)にある。人が折角面白い映画を見て興奮しているところに水を差すような人々に一粒でも論理的、もしくは倫理的正しさがあるとすれば勘違いも甚だしい。

 どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?自分で言っておきながら一方的に責任を押し付けられるのもなんか悔しいので色々自分に有利な理由を考えてみた。

 面白さを共有できない人(々)には「作品フォロワーの集団的意識についていけない」「同じ言葉ばかり呟いていてアホらしい」とかそんなのがあると思う。

 全部作品の外部の話じゃないか。作品そのものはどうした。

 まったく別のことを思いついたのでそっちに話をシフトさせる。「どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?」なんて問いはその人それぞれだし、そうしない理由、心情は理解はできるかもしれないが共有や共感は決してできないだろうからまあ勝手にやっててくれ、筆者も好き勝手にやっているからあなたも勝手にやってくれ。

 

 それで肝心の別の話だが、グダグダと書くの面倒くさいので結論から書いてしまおうと思う。

 

 映画の鑑賞もしくは消費行為は映画館に足を運ぶ前の情報を咀嚼し期待するところから映画館を出たあとに感想をつぶやいたりその映画を話題として会話するなど「面白さ」(あるいは「つまらなさ」)を自分なりに表現し他人と共有するまでの一連の行動によって成り立っている。

 

 例外はもちろんありふれているだろう。誰とも語り合わず、ひたすら作品を見るだけという映画の消費行動も可能だ。けれど、そんな人は当然のことながらあまりいない。

 映画を見たら誰かにその面白さを伝えたくなる。つまらなくても同様だ。しかも今ではSNSやらなにやらで簡単に不特定多数の人間に向けて発信可能で、同じ作品のフォロワーと遭遇する可能性も高い。

 何かを他人と共有することは面白い。それが「面白い映画」であればなおさらだ。今の社会(※舞台が大きすぎます)、消費行為は「食べる」「見る」「行く」等から延長して「語る」「共有する」までをも含む。まあ太古の昔から共感は人類にとって大事なテーマだったから本質的には何も変わっていないのかもしれないっす。

 作品について語る人々もそれを拒否する人々も結局作品の外部に目が行っているんじゃないだろうか。楽しむことを楽しんでいる、楽しむことを楽しめない。メタ的なことを書きたがるクセがあるけれどそんなもんじゃないかと思う。

 

 それで何が問題なのかと言われても、特に言葉は用意していない。ああ、筆者は後者だったなあとそんなふうに思って、それで終わりである。筆者はこれからも流行の映画に抵抗していくしそれをやめることはできないと思う。悔しいのう悔しいのう言いながら哀れに映画を楽しむ被害者面をした消費者モドキであり続けるだろう。

 

 忠告すると「私はこういう心情からこのように思います」という意見・感想は一切お待ちしていない。あなたがどのような感情を抱いていようが、その感情をどんなに素晴らしい筆致で描こうが誰もあなたの感覚を共有することはできない。共有できる、というのであればそれは共有した気になった人の頭の中でつくられた偽物のあなたの感情に過ぎない。であるから、ここに書かれている文章において筆者は「面白さを共有できない人(々)」という大きな主語を用いているが筆者は決してそうした人々と心情を共有し代弁しているわけではないし、もちろんあなたは筆者の感情を共有することもできない。とりあえず言っておきたいのは、個人の感覚は絶対に共有・共感できないということだ。筆者はあなたではないし、あなたは筆者ではない。

 ここまで読んでお気づきの方もいるかもしれないが、筆者は実際は「面白さ」も他人と共有することはできないと考えてる。あなたの感じる「面白さ」と他の誰かが感じる「面白さ」が同じでえあるとは限らないし、そもそもその「面白さ」はあなたのものであって他の誰のものでもない。言葉やイラストで何をどう表現しようが文字や画像といったメディアに載せられた時点で、もしくは他人のその文字や画像を見る視線が情報を変換してしまう。こればかりは譲れない、あなたは他の誰でもないし、他の誰かは決してあなたではない。

 

 

 

 

 

 じゃあ、なんでお前(筆者)は映画の面白さを綴った感想ブログをやっているんだ?

 

 

 

ルノワール、フィルム、フレーム

視覚とフレーム

 この文章はルノワール展の感想ではない。

 先日国立新美術館でやってたルノワール展に行ってきた。

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 正直、絵画を見るための審美眼なぞ持ち合わせていないので結局時代背景とか考えるだけで終わる。『ムーラン・ド・ギャレット』には近代市民社会における公共空間の登場と市民としての女性が描かれていて~とか必死に考えるのは絵画の鑑賞法をよく知らないからに過ぎない。絵を見ろよ。

 ほんで、頑張って絵を見ようとするのだが、そこでなんとなく気づいたのは額縁の存在感。当然ながら、展示されている絵は必ず額縁に入っている。けれど、中には肝心の絵以上の面積を持つ額縁とか、やたらと凝った意匠の額縁とかあってやたらと気になる。そこで色々また思いつき始めたのだが、だから、絵を見ろよ。

 フレーム。

 絵画に限らず、映画や演劇、アニメや漫画といった視覚文化においてフレームはガチのマジで重要だ。スクリーン、舞台、テレビ、コマ割り……。スクリーンとアスペクト比が一致してない映像を想像できる?舞台の存在しない演劇を想像できる?コマ割りの存在しない漫画を想像できる?だいたいこういうのはアヴァンギャルドな人たちが挑戦してきたことだから現代だとなんとなく想像はできてしまうかもしれない。

 フレームの機能は視線の集中と同時に境界の決定にある。フレームがあるから観客はどこに視線を向ければいいかわかる、対象が「作品」であるとわかる。絵画をひたすらくっつけるようにして並べてしまうとどこからどこまでが作品であるのかわからなくなってしまう。フレームは、対象が「作品」であるかを決定する。ここでわかることは観客は基本的にフレームの存在を前提に作品を鑑賞しているということだ。無意識的にと言い換えてもいい。額縁を見るために美術館を訪れる人間なんてそういないだろう。

 額縁・フレームというか境界に対する無意識のうちの認識。マグリットの下の絵とか例示にはちょうどいいかもしれない。

 ルネ・マグリット『人間の条件』(1933年)

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 この絵の中には絵画を絵画足らしめようとさせる積極的なフレームが存在せず、ただ周囲との違和感という消極的な理由によってキャンバス上の絵画は絵画として認識される。下のやつも同様。

ルネ・マグリット『Euclidean Walks』(1955年)

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 少し調べたら部屋の内部は人間の内面で外部を写し取る無意識・精神が云々とかいう絵画評論が一般的とか出てきてこれもうわかんねえな。

 あと、美術館で額縁見てるとほぼ必ず凹の形を取ることに気づいたけど、これも鑑賞者の視線を中心(絵画)に寄せていくためかなと思った。凸になって飛び出てくるような絵画なんて見たことない。そうすると額縁の効果が薄くなるからかなとなんとなく思ったので、誰か今度実験してみてください。

 映画とフレーム

  既に述べているように映画においてもフレームは重要な存在だ。スクリーンはどこからどこまでが作品なのか、広い映画館の中でどこに視線を向ければいいのか教えてくれる。(「映画館でスクリーンに目を向けないバカがいるかよ」)。

 スクリーンは額縁じゃなくね?と思うかもしれない、実際スクリーンのみを映画におけるフレームとして定義するのは無理があると思う。映画におけるフレームとなるとまた面倒なのだが、個人的には映画館という空間そのものがフレームになるのではないかと思う。演劇における舞台と同じっぽいけど演劇は全然わからないのでその道の人に聞いてください。

 フレームとしての映画館は現代よりも映画が出現したばかりの20世紀初頭の方が顕著でわかりやすい。下の画像は1930年代アメリカの映画館、演劇用の劇場をそのまま映画館に改装したような空間だ。

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 重要なのは、今の映画館と比較して装飾が仰々しいほどに施されているにも関わらず結局視線は中央の真っ白な平面(スクリーン)に無意識に向けられるということだ。

 ちょろっとだけ先に話を出していたが、絵画の額縁は凹の形を取る。それは中心に視線を集めるため、光の井戸として機能するためだが映画館にも同じことが言える。上のような装飾マシマシ映画館も現代のシンプルなつくりの映画館も構造的には絵画の額縁と一緒なのだ。視線がスクリーンの方向へ集中する錘の形をしている。スクリーンはキャンバス、映画館そのものは額縁として考えることができるかもしれない。

 

 うだうだとした話をしよう。映画におけるフレームの構造がここ最近どんどん変化してきている。3D、4DX、IMAXとか、なんか色々出てきた。またこの話かよ。一応付け加えておくと3D映画自体は既に1920年代に劇場で上映されたことがあるし1953年にもヒッチコックの3D映画『ダイヤルMを廻せ!』が上映されている。とりあえず最近の3D映画の潮流の源としてはたぶん2009年の『アバター』かなと思っている。

アルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』(1953年)

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 話を元に戻す。4DXやIMAXといった新しい上映形態が目的としているのはだいたい”臨場感の増幅”だろう。立体映像・立体音響による抱擁、4DXに至っては触覚まで刺激してくる。観客は映画の世界に連れ込まれることを強制される。

 スクリーンから観客へ、この方向性は今までになかったものだ。今まで観客は勝手にスクリーンに映る映像を勝手に見ていればよかったから、むしろ逆に”観客からスクリーンへ”という方向性があったんじゃないかと思う。

 臨場感の増幅はフレームの破壊に他ならない。フレームが生み出す境界なんて臨場感を目指す立場からしたら邪魔でしかない。映画館が破壊されてしまうとなると、あと観客に残ってるのは身体しかない。映画館というフレームをふっ飛ばして身体で直接感覚する映画。身体がフレームとして機能するかどうかはまた別の話ということで。

 「フレームを破壊するからIMAXも4DXもクソ」と言いたい気持ちがないわけではないけれど言ったところで何も意味はないのでやめておく。むしろ、今までの映画は美術や演劇と同じ視覚文化としてそれらと並列になって存在していたが自らフレームを破壊することで今後どのような形態を取っていくのか、さらにはフレームの消失に対して観客の無意識はどのような対応を取っていくのかということだ。映画館で席に座ったらスクリーンに視線を移すのが当たり前、その当たり前が変わる可能性がある。言い過ぎか、でも映画が生まれてたかだか100年ちょっとでしかない、100年で形成された伝統やら慣習なんてものは簡単に吹き飛ぶ。10年後、映画館の観客はどのように映画を見ているかなんて誰にもわからないだろう。でもやっぱり筆者はアトラクションとしての映画館には耐えられそうにない(クソザコ

 

 そんなこんなを国立新美術館で考えていた。だから、ルノワールの絵を見ろよ。

 

極めて個人的な映画関連メモ⑤

まえがき

j-makino.hatenablog.com

 これのつづきです。
 
 改めて前回書いた記事を読んでみると「邦画はクソなのか?」という問いが如何に不毛なものか実感してしまうしそんなものを書いて貴重な休みを削る愚かさに辟易する。
 別に邦画がクソだろうが何だろうが筆者の人生には何一つ関係ない。「邦画がクソ」と言われようが別にその業界に勤めているわけでもないのでどうでもいい話だ。
 一時のテンションに身を任せてこんな不毛な問いに手を出したことを深く反省している。
 いつものクセで「そもそもこのブログ自体が不毛だろ」という文章を打ってしまった。一体このブログの意味はなんなのだろうか?意味を求めるのは人間の悪いクセだと思うけれど、無意味な行動を繰り返せるほど人間は強くなかったりする。
 でもまあ一度手を出してしまったものなので一応最後までやってみようと思う。
 
 前回は確か北野映画の暴力について色々こねくり回してた気がする。「『座頭市』や『BROTHER』について言及してねーじゃん」と言われそうなアレだったけど許してほしい。初期原理主義者なので。そういや最新作を見てない。評価はそこまで悪くないので少しだけ期待しておく。
 それで、前回の終わりに紹介した気がするけど今回のスタート地点は石井隆の『GONIN』だ。まあたけしがキーパーソーンとして出演してるということで、安直な連想なのだけれど。
 

GONIN・「殺し」の映画

石井隆『GONIN』(1995年)

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  『GONIN』は一応ヤクザ映画になるのだろうか。軽くストーリーを紹介しておくと、借金まみれの社長佐藤浩市がクレイジーサイコホモ本木雅弘、頭のネジが吹き飛んだいつもの竹中直人、激強ハードボイルド根津甚八なんかを仲間に、ヤクザとそのヤクザの放った殺し屋ホモカップル(たけしと木村一八)と戦っていくというものである。何がなんだかわからんから、あらすじが知りたいのならwikipediaに行ってくれ。
 
 ほんで、この映画の何がいいかと言うとそれはやっぱり暴力と殺しの描写が良い。
 先ほど説明した登場人物たちはやはりどいつもこいつも一癖も二癖もある奇人変人ばかりで、セリフがなくともとりあえず立ってるだけでストーリーを組み上げられる怪人どもである。雰囲気がありすぎてそれぞれに与えられている設定とかどうでもよくなる。
 けれど、こいつらは一瞬で呆気なく死ぬ。佐藤浩市根津甚八はやっぱ強キャラなのか割と生き残るがその他はだいたい一瞬で死ぬ。本木雅弘はヒロインなので結構生き残る。
このギャップがたまらない。あれだけキャラ立ちさせておいて死ぬのは一瞬、そりゃ「キャラ」は銃弾もドスも防げない、スタンドじゃないんだから。
  そして、殺し殺されるその関係の空疎さが凄まじい。物語が展開すればするほど、なんでこいつら殺し合ってるのとか、そういう問いが不要になってしまう。まさしく「殺す」ために互いは「殺し」合う、この理由のなさが最高に暴力を映えさせる。最高に暴力 is Godって感じだ。
 こういう暴力がいちばん、来る。目的のない暴力、自己目的化する暴力。
 これってヤクザ映画全般に言えることじゃないかなと思った。組のためとか兄弟の契りとか色々理由はあるけど、結局のところそれらの暴力は映画的な考え方・ 手法から暴力のための暴力に転化させられている。言ってることがよくわからない。なんとなくだが、スクリーンの中で広げられてる暴力は今まさにスクリーンに映るその映像のための暴力なんじゃないか、と。当たり前だ、映画なんだから。監督がいて演出家がいてカメラマンがいて脚本家がいりゃそうなる。
 しかし、しかしだけど観客は暴力のその先に何か期待してるのだろうか。極めて個人的な意見を言えば筆者はそんな見方はしたことがないように思う。
  わかりやすく言えば、画面の中で奮闘する主人公を見ながら「勝ってほしい」と願うことはまずない。別に映画の主人公が勝ったから俺の人生が少し上方修正さ れるということはない(これは別にそういう見方を否定しているわけじゃないが)。そうじゃなくて、画面の中の主人公には「最高に戦って、最高に死んでほしい」と欲している、そんな気がする。
 幼稚な発想かもしれないけれど、人が死ぬシーンというのは物語を映えさせる重要な要素だ。間違えた。キャラクタの死が物語を映えさせるのではなく物語がキャラクタの死を映えさせる。私論じみているが、そんな感じ。前回の北野映画云々でも言った気がするけれど、どんなふうに生きるかではなく、どんなふうに殺されるかを描くことに邦画の暴力映画は注力している、それが得意な気がする(もちろん洋画がそうではないということではない)。
 『GONIN』はまさしくそれだったように思う。各キャラクタは様々な人生を持っていて、それを背景に戦ったり生き残ろうとするけれど、戦闘シーンにおいては正直そんな背景は関係なく、どうやって殺すか・殺されるかだけが画面を占領する。
 画面は冷たい。若干に映される人間ドラマはどこか薄っぺらい。暴力は唐突にやってきてあっという間に殺される。殺しの理由は確かに用意されているけれど、それが殺しに相当するかは微妙だ。けれどすべての殺しには説得力がある。嘘、最初から説得なんぞ期待していない。「殺し」の画面に理由なぞ要らないということを視聴者は思い知る(思い知らない人もいるだろう)。ただ、誰がどう誰を殺し・殺されるのか、注視する。
 『GONIN』と同じ時期に見たから連想しただけだが、『激動の1750日』にもそんな要素が多分に含まれていたと思う。

中島貞夫『激動の1750日』(1990年)

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 ストーリーは山一抗争をモデルに(というかほぼそのまま)したもので、跡継ぎ問題から組が分裂し、中井貴一率いる神岡組と夏八木勲や渡瀬恒彦らの八羽会が全面戦争を繰り広げるというものになっている。
 山一抗争自体が日本全国を巻き込んだ大規模なヤクザ抗争なので、この映画の登場人物もかなりの数となっている(そのためあんまり誰がどの役で何をやってたかあまり覚えてない、すんません)。役名を与えられた者も殺されれば、役名のないモブキャラもどんどん死んでいく。
 個人的に印象に残っているシーンとしては、陣内孝則が逃げるシーンでそれを庇った組長だったがこれでもかと銃弾を撃ち込まれるシーンだ。スローモーションの中、そんなに撃たんでも死ぬべと思うほどに銃撃が続く(他のヤクザ映画でもそうだけれど、銃弾を10発以上撃ち込まれても死なないヤクザの人々は本当に人間なのか?)。
 この映画はそんなシーンが連続する。突然街角に刺客が現れては銃をぶっぱなし敵対する組の幹部を殺したり、組の事務所にダンプで突入して皆殺しにしたり、とにかく暴力が氾濫状態だ。
 確かに山一抗争の背景なども説明されてはいる。誰がどの立ち位置で、今どんなパワーバランスなのかとか。けれど、あまりそうした政治的な展開は薄い。ヤクザたちがどんなふうに戦い殺されていくかを描いたのがこの映画なんじゃないだろうか。あくまで個人の感想だが、そんなふうに思う。
 某ニンジャスレイヤー風に言うと「ヤクザが出て死ぬ!」みたいな映画だ。
 なんかあまり褒めてないっぽいように書いているけれど、筆者はこの映画が結構好きである。ヤクザ政治の話は薄いといってもしっかり書けているし、「殺し・殺され」の関係へのこだわりも感じられる。この映画も、どのキャラクタがどんなふうに死ぬのか、それが楽しみ、というか映画を盛り上げる要素になっていると思う。
 
 結局前回と同じ結論になってしまいそうだけれど、邦画の「暴力」は人の死に方に凄まじいこだわりと持っており、またその独特の映し方が良さになっていると思う。撃たれてはい終わり、ではなく撃たれてから(撃ってから)が本番だ。戦闘は生き残るための手段ではなく死ぬための過程になる。これは言い過ぎかなと思うけれど、そう思わざるをえない。
 そういえばここまで『仁義なき戦い』とかないっすね。まあいいや。
 

野火・アプリオリの死

 ここまで北野映画や『GONIN』とか90年代映画が多かったのでそろそろ最近の映画についても触れておきたい。邦画の良さを説くのであればもちろん黒澤明岡本喜八市川崑マキノ雅弘とかそこらへんを触れておくべきだと思うし、ここまでに説明した「暴力」の魅力は上に挙げた名監督たちのフィルムでも映し出されていたはずで、それを見逃すことはできない。でも一応今回の話題は「邦画はクソ」という言葉を出発点としていて、これはたいてい「最近の」という枕詞が抜けているものなのでどちらかというと最近の方がについて話しておきたい(枕詞なので「最近の」という言葉にももちろん何の意味はない)。そういえば『日本のいちばん長い日』がリメイクされてたけど見てないので触れません。

 なので、ここ最近(2010年代?)の中でよいと思った邦画を挙げるとこれになる。

塚本晋也『野火』(2015年)

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 原作は大岡昇平の同名小説で、既に1959年に市川崑が映画化しているので「なんで今更映画化してんねん」と思いながら渋谷にユーロスペースに足を運んだ記憶があるのだが、その完成度の高さに度肝を抜かれるとともに「やっぱ……邦画の暴力を……最高やな!」なんて気分に浸っていた。若干グロデスクなシーンが多くて吐き気はしてたけど。

 そんなこんなで『野火』と暴力について色々考えてみたい。

 まず『野火』は「殺し」の映画ではない。純粋なまでに「死」の映画だ。そりゃあ戦争なんだから米軍の機銃掃射にバッタバッタ殺されるシーンはあるけれど、それは「殺し」というより不可避的な災害のようで、「殺される」というわけではない。映画の中に米兵はほとんど出てくることはないが、米軍はあらゆるところから瀕死の日本兵たちを狙ってやってくる。それはまるでギミックのようで「殺し」「殺される」という関係性にはない。こう書くとヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』っぽいな。

 日本の兵士が遥か南方のニューギニア(あれ、フィリピン戦線だったっけ?)という土地で銃も持たずに餓死していくという状況はどう考えても不条理だけれど、『野火』の中の死はほぼすべてが必然的だ、そう思わせる説得力がこの映画にはある。

 それは何故かと考えてみる。端的な言い方をすると、スクリーン中の登場人物は最初から既に死んでいるからではないかと思う。劇中で兵士たちは泣いたり笑ったり怒ったりするけれど、戦争とニューギニアのジャングルはすべてを飲み込みゼロにしてしまう。スクリーンの中の世界で兵士たちは先に死んでいる。

 映画の中ではたびたびニューギニアの美麗な大自然がこれでもかと映し出されるのだが、その滅茶苦茶綺麗な風景の下で泥沼を這いずり回る兵士たちは、まるで地獄の井戸の底にいるようにさえ見えてしまう。その中で、次々に飢えや機銃掃射により斃れていく日本兵たちはもはや生きていると言えそうにない。兵士たちが語る故郷の情景はおとぎ話のようで、「生きたい」という意思は軽薄に映る。

 スクリーンの前で観客が見るのは有象無象の日本兵の死のその過程である。その意味において、この映画には「死」が蔓延している。

 というと、スプラッター映画のようだが(実際そういう見方もできるかもしれない)、『野火』はそうした枠に留まっていない。銃弾に吹き飛ぶ四肢や鼻孔や眼窩から湧き出る蛆虫は確かにグロデスクだけれど、それ以上に人間性の限界という倫理的グロデスクがこの映画の中に待ち受けている。

 先に言った通り、この映画は根底から不条理である。徴兵された日本の一般男性が遥か南方に駆り出されて餓死するというのは不条理以外の何物でもない。そしてその不条理の極限として人肉食というテーマがやってくる。

「肉だよ!猿の肉だよ!」

 生きるために日本の兵士は現地人や同胞を殺す、それだけでも割とクるのだけれど、実は最初から彼らは死んでいると考えるとこれ以上の限界はないんじゃないだろうか。死者が死者の肉を食べるという地獄の様相、死と死が混在して蔓延して限界過ぎる。

 食料にするために人を殺す、というのは他の「殺し」とは一線を画す。「殺し」はお金や矜持、組織のために行われるものであって直接的に「腹を満たす」「生きる」ための行為ではない。「暴力」というのがある程度の社会性が基盤にあって初めて成立するものだと考えると、『野火』に現れるのはもはや暴力を超えた何かと言わざるを得ない。

 つまるところ、『野火』は肉体的・精神的両面から人間に限界を迫っていく映画であり、同時に壮大な数の人間の死とその過程を映す映画でもある。

 静かに、けれど熱く人間の死が究極的に映されていくこの映画は、2015年に公開されたものの中でトップクラスに面白かったと記憶しているし、こんな言い方はあまり好きではないけど「世界で競える」映画だと思う。もし「邦画はクソだな」と思ったら是非見てほしい作品である。ただし見るとむちゃくちゃ疲れるので各自ベストコンディションで見ることをオススメするし、視聴して気分が悪くなっても筆者は一切責任を取れないのであしからず。

 

おわりに

 本当はもっといろいろ触れるべきものがあるはずなのだけれど筆者の教養不足からここで終わりになってしまう。結論は最初から「邦画の暴力サイコー」というクッソ頭の悪いものでありそれ以上でもそれ以下でもないので特に総括らしい総括はない。

 ただ少し物申してみると、邦画は確かにレベルが落ちているかもしれない。その原因が「監督や脚本家の育成不足」とか「無能な制作会社・広告代理店」なのかは筆者には判断つかないけれど、テレビや劇場で流れる邦画の予告を見ると少し不安になる。

 しかし、今回紹介した『野火』のように素晴らしい作品を撮れる監督はそこかしこに隠れているのかもしれない。筆者自身、この『野火』を見て初めて塚本晋也という映画監督を知った。目につくものだけ一括りにして「邦画はクソ」と判断を下すのは時期尚早だし、そうした先入観があると邦画を見なくなって名作に出会える可能性も低くなってしまう。もったいない。

 最後に、ここでは触れられなかったけれど個人的に気に入っている邦画をいくつか挙げてみたい。あまり「暴力」というテーマにはこだわったセレクトではないが、こうした作品に触れて「邦画」に対する見方を一新して頂ければ幸甚である。

 

岡本喜八『激動の昭和史・沖縄決戦』(1971年)

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原一男ゆきゆきて、神軍』(1987年)

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黒木和雄『浪人街』(1990年)

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曽利文彦『ピンポン』(2002年)

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沖田修一『南極料理人』(2009年)

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 他にも色々紹介してみたいのはあるけど、今回はこんな感じで。時代が新しくなるほど暴力要素減ってね?

極めて個人的な映画関連メモ④

まえがき・「邦画はクソ」なのか?

 今回は特定の作品についてだらだらと書き記すのではなく、特定のジャンルについて書いてみようと思う。ジャンルの区分け、そもジャンルとは何かという不毛な定義論争は吹っ飛ばしていくのでそういうのは期待しないでほしい。
 んで、何故そんなことをするのかと言えば、最近周りで(と言ってもネット上の話なのだが)「邦画はクソ」という言葉をよく目にするからだ。そんな言葉はずっと昔から言われてるだろうし、それに対する反駁も昔から行われているだろうから今更筆者がごにゃごにゃ小うるさいペダンチズムを展開する必要は全くないのだが、相変わらずこのブログは極めて個人的なモチベーションに基づいて書かれているのでそういった外的な状況は考慮されていない。
 話が逸れている。「邦画はクソか?」と問われても筆者は首を縦にも横にも降ることはできない。そりゃそうだ。人はそれぞれ好き好みがあって、人によって好きな映画も異なる。前にも言った気がするけど、映画は観客それぞれの主観の中で完成する(こんなことを言った覚えはない)。なので「邦画はクソである」という客観的判断を下すことはできないし、そんなことは映画の神様にも無理だろう。
 けれど、そんなことを言ってると「では『邦画はクソである』という言葉も主観上では成り立つのだな?」と言われてしまうかもしれない。言われてしまう、でもいいけれど、ちょっと待ってほしい。それは些か性急すぎるというものだ。このブログを発端にそんな言葉を安易に口をして誰かと口喧嘩になられたら別に困りはしないけど筆者の良心が痛む。筆者はこれでも人並みの倫理観を持っていると自負している。
 筆者の良心を傷つけるためにそんな言葉を吐くのは構わないけど、本当に「邦画はクソである」と思って「邦画はクソである」と宣言するのは、だから、性急すぎると言ってるんだ。「邦画はクソである」という言葉を見たとき、筆者はなんとなくそんな思いがしたのでこのことについて考える必要があると思った。「本当に邦画はクソなのか?」と考える必要があると思った。
 先に言っておくと、先に言ったようにこの問いは不毛である。先に言ったから理由はそれを参照してほしい。ここには有意義な議論も主張も存在しない。あるとすれそれはあなたが勝手にそう思ってるだけだ。
 いい加減本題に入ろう。そんなわけで今回は「邦画はクソ」というか「邦画」に対する筆者なりの考えを述べていく。次からすぐに本論。論と呼べるようなものじゃないが。前書きが長すぎたことを謝ておく。既にあなたはここまでに1000文字強も読んでしまってるではないか!
 

邦画と「暴力」

 極めて個人的な意見なのだが、「暴力」を描くことに関しては日本映画はピカイチのセンスを持っていると思っている。
 別にフランス映画の暴力は下手くそだとか、ハリウッドの暴力は安っぽいとか言うつもりはないし、ましてや『暴力を描かないから、安直なラブロマンスしかやらないから最近の邦画はつまらないんだ!暴力を描け!BPOもPTAも地獄に堕ちろ!』と言う気は毛頭ない。
 じゃあ何が言いたいんだと言うと「日本映画は暴力を描くのがうまいなあ」という極めて素朴な感想である。それ以上でもそれ以下でもないし、それ以上にもそれ以下にもならない。
 予防線はここまでにしておく。
 暴力を描いた邦画って何?と問われるとそらもう一杯ある。海外だって一杯撮ってるし日本で撮られてない理由はない。でもまあ日本独特というとヤクザ映画とかそれなんじゃないかなと思う。『ゴッドファーザー』や『パルプ・フィクション』、『グッドフェローズ』とかマフィアものは海外にたくさんあるけど、マフィアとヤクザがイコールかと言えばあまりそうも言えなさそう。そこらへんは社会学者にでも聞いてほしい。
話を元に戻す。個人的に日本映画で暴力が軸にあるものと言うと先にも言った「ヤクザ映画」、それに「戦争映画」、加えて「時代劇」のこの3つが主要ジャンルになるかなと思った。
 注意してほしいのはすべてのこれらのジャンルが須く「暴力」をテーマにしているわけではないというところ。人情やら反戦やらなんだってテーマになる。ここで言ってる「暴力」はそんな哲学的な問いじゃない。俺はアーレントじゃない。
 でもこれらのジャンルの作品の中で「暴力」は重要なプレゼンスを持ってる。映画とは違うけど『水戸黄門』は最後必ず助さん格さんが悪代官一味をボコボコにしてから印籠を出すし(最初から出せよ)、まあ、他の2ジャンルについては例を出す必要はないかと思う。重要なのは暴力がストーリーの展開上欠かせないものかつ見せ場にもなるということだ。
 そんで、最初に戻るのだが、その暴力の見せ方が日本映画は非常にうまいなあと思うのが今回の筆者の極めて個人的な意見というか感想になっている。
個々の事例から全体の答えを見出すことは不可能なのだが、正解間違いはどうでもいいのでそんな感じに例を出していこう。
 とりあえずいちばん最初に思いついたのが北野映画なのでそこをスタート地点にしたい。個人的に邦画の中で一番好きな映画監督がたけしなのでまあそうなる。
 

北野映画・極めて感情的な無表情の暴力

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北野武ソナチネ』(1993年)

 

 北野映画はやっぱり最高の暴力映画だ。老害臭いが特に初期の頃の作品群はずば抜けて暴力を書くのがうまいと思う。『その男、凶暴につき』『ソナチネ』『HANA-BI』……。気に入ってるのはたけしや主要人物の暴力が大抵無表情な暴力となっているところだ。「ナンダトコノヤロー!」と絶叫しながらたけしがグーパンかましても、あんまりその人間の感情は拳に出てこない(気がする)。たけしの演技が下手なのかもしれない、でもあれわざとやってる、演技なんじゃないかと筆者はそう思っている。出てこないから、むしろ暴力の裏に隠れた哀愁とか不条理とか様々なものを垣間見ることができる。無表情な暴力、先に挙げた3作のラストはまさにそれだったんじゃないかなと。
 北野映画の中でいつもプレゼンスを持っているのはあの「哀愁」だ。それが暴力の演出に生きている。どんなに苛烈な暴力であっても、その背景には茫漠としたメランコリーが潜んでいる。『HANA-BI』は特に「哀愁」について意識的だったように記憶しているし、『キッズ・リターン』も「暴力」と「哀愁」が密接した作品だった。
 無表情の暴力は、逆説的ではあるけれど極めて感情的な性格を帯びる。何もないからこそ、逆に茫洋とした意味が与えられるのかもしれない。
 「無表情の暴力」「静寂な暴力」を撮れる映画監督はそう多くないと思う。前回ユーゴスラヴィア映画の話をしたときに紹介しておけばよかったのだが、『沈黙の戦場』のクリスチアン・ミリッチはそれだったかもしれない。無表情に、また静謐に暴力が展開されていく点、また画面内の色彩に統一性がもたらされている点では北野映画と雰囲気を同じにするものがあるかもしれない。

 

クリスチアン・ミリッチ『沈黙の戦場』(2007・クロアチア)

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 ただし、『沈黙の戦場』が徹底して無表情なのに対して北野映画はどこか「笑い」を、つまり表情にバリエーションを富ませていることを見逃すことはできないし、今更ではあるけれどこの「笑い」も北野映画の中では暴力と関連して重要なトピックだ。元々コメディアンなんだからまあそうなのだが。
 なんかの本で読んだ気がするのだが、「笑い」も「暴力」も本質的には不条理を出発点としている点で同じだ。風雲たけし城とかを持ち出す気はないけれど、やはり人が笑うのは不条理があるからだ。
 北野映画での「笑い」を思い出してみる。そりゃそんなシーンはいくらでもあるけれど、個人的にやっぱりコレと言いたくなるのはたけしがロシアンルーレットを試して笑うところだ(『3-4x10月』の事務所襲撃シーンも悪くないけど)。

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 このシーンで別にロシアンルーレットをすることに意味なんてない。命を張ることに意味は一切ない。けれど、気まぐれに自分の命を弄んでみせる、そのたけしの不条理な「笑い」は人間的でもあるけれどまた逆説的に究極的に無表情だ。
 また変なことを書いているので少し頭を使って書くことにする。
 自分のこめかみに銃を当てて笑えるのは、自分の生命の価値をわかっているからだ。わかっているからこそ、それを吹き飛ばすこと、吹き飛ばせることが面白く感じてしまう。そうか?面白いか?多分、観客は劇中のこのシーンのたけしを理解できないように思える。共感の対象なんかではなく、圧倒的にかけ離れた別次元の存在のように認識してしまうだろう。映画が始まってからそんな雰囲気はずっと続いているけれど、たけしは人間としてみなすのが難しいキャラクタとなっている。あまり表情変わんないし。
 非人間的な存在が「笑い」という最高に人間的な表情を見せる。この「笑い」は薄っぺらではあるけれどその薄っぺらの下には無限深の霧が満ちている。比喩表現で申し訳ないけれど、北野映画の構造はそんな感じじゃないかと思う。
 あと『その男、凶暴につき』を見返しながら思ったのはアクションシーンにそれほど華はないということだ。たけしが白竜を殺すシーンは到底「アクション」と呼べるようなものではない。それは徹底して「殺し」のシーンなのだ。他作品でもそうだけれど、スマートなアクションシーンは北野映画にはそれほどない。正直言って『ソナチネ』ラストの銃撃シーンはそんなにかっこよくはないだろ。それよりも最後の最後の車内での自殺シーンの方が最高だ。
 北野映画は徹底的に人を殺す。主人公だろうがヒロインだろうがモブキャラだろうがそこにいたら殺される。『ソナチネ』のエレベーターシーンを持ち出すのは野暮かもしれない。北野映画の「殺し」のシーンは「アクションシーン」の皮を被っている。「アクションシーン」なら俳優がどんな動きをするか、どんなふうに敵を倒し倒されるかと過程を重要視しながら撮られる(のだと思う)。けれど、北野映画の「殺し」はアクションは一応やるけどそれはオマケで「人がどんなふうに殺されるか」、つまり結果のその瞬間を徹底的に描こうとしているように思う。
 
 北野映画には「感情的な無表情の暴力」やら「無感情な人間的表情」だったり矛盾しているようだけれどそんなものたちが潜んでいる。そしてそれらがあの哀愁と静謐さを醸し出すと同時に暴力とのコントラストを生み出しているのではないかなと、ここまで書いてそんなふうに考えた。
 微妙に本題とズレるけれど、『あの夏、いちばん静かな海。』は極めて暴力的な映画だと思う。言葉を話せない・耳の聞こえない二人の悲恋というか別離を最高に静謐に、哀愁的に描いて「良いお話」にしてしまうのは、メタな見方だけれど他の北野映画と比較しても遜色ないほどに暴力的だ。個人的には『ソナチネ』『キッズ・リターン』に次いで好きな作品です。
 それと老害なので最近の北野映画はあんまり見てません。あしからず。
 

おわり

 本当はこのあと石井隆の『GONIN』とか他のヤクザ映画、もしくは東宝東映戦争映画を紹介しながら邦画特有の最高な「暴力」たちを紹介したかったのだがそれやると一万字くらい行きそうなのでやめてまた次回ということにした。長い映画が嫌われるように、長いブログも嫌われるものなんじゃないの。それと続きを書くかどうかはわからない。ただ北野映画について数千字語ったところで邦画の暴力を語れたとも思わないのでたぶんやる。
 ただし『帰ってきたヒトラー』やってるしそれを見る方が早いかも。
 
つづく

 

極めて個人的な映画関連メモ③

まえがき・モチベーション

 酒が回っているうちに下書きを書いてしまおう。

 筆者はそんなに頻繁を映画を見ない。最後に映画に見に行ったのは4月の終わりか5月のはじめだったかに渋谷のアップリンクで『サウルの息子』を見たのが最後である。かれこれ一か月は劇場に通ってないっぽい。ついでに言っておくと『サウルの息子』はホロコースト映画として本当に名作なので機会があれば見てほしい。

 

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 いやまあ映画を見る時間がない訳ではない。新入社員にそんな大きな仕事も任されないし定時に上がって列車に揺られて駅前の映画館に行ってレイトショーを見たり、そんなこともできないわけではない。

 でもそうしないのは筆者にそんな映像に対する飽くなきモチベーションがないからである。1時間も2時間も映像の前に座ってられるかってんだ。それ相応のモチベーションか、もしくは空前絶後の退屈にない限り筆者は映画を見ない。仕事が終わったら自宅に戻ってtwitterニコニコ動画をだらだら見て寝る時間になってそれで終わり。その時間を使って本を読むなり映画を見るなりすればいいのだがそこまで張り切れない。映画を見るのも本を読むのも労力が要る。死ぬのか、俺は。

 なんで映画を見るってそれは暇を潰すためだ。映画を見ることを目的にして映画を見るのは、なんか違う気がする。「俺は映画を見るために映画を見るんだ!」って人がいるならそれを止めはしない。そういう楽しみ方もあると思う。コンテンツの楽しみ方なんて人それぞれだ。本を読むために本を読んだっていいしアニメを見るためにアニメを見たっていいと思う。最近はアニメを見るにも労力が要るようになってきた。俺は、死ぬのか。

 暇を潰すためとはいえなんで映画なんて見るのだろう?TUTAYAなんかで借りればそりゃ旧作100円だったりするけど劇場では1500円やら1800円取られたりする(もう学生料金じゃない)。そんな大金を払って2時間近く席に縛り付けられて映像を見て、何が楽しいんだろう?俺は何を買っているんだろう?ハイソな人類への切符がチケットについてくるなら喜んで買うだろうけど、生憎そんなものはついていない。

 「この映画を見て人生についての見方が変わった」なんて感想は聞きたくない。たかが数時間の映画を見て変わる人生観とかそんなものははじめからゼロに等しい。映画に影響されまくりな筆者の言えたことじゃないけど、映画なんてそんなものだと思う。リュミエール兄弟は別に人類の生を変えるためにシネマトグラフを手に『ラ・シオタ駅への列車の到着』を撮ったわけじゃないだろうし、ジガ・ヴェルトフは確かにフィクションの在り方を問いながら『カメラを持った男』を撮影したかもしれないが人類のことなんて一つも考えていないだろう。

 どうして映画なんて見るのだろう、このことについては深く考える必要はないかもしれないし深く考えるべきではないのかもしれない。「そこに映画があるから」なんて陳腐な答えは期待してないし拒絶するべきだ。

 この前劇場に足を運んだとき、予告で『シン・ゴジラ』の映像が流れた。監督を務める庵野秀明がその中で「面白い映画を撮ろう」みたいなことをスタッフに言っていたが、面白ければぼくら(注:大きな主語)は劇場へ足を運ぶのだろうか。よくわからない。つまらないことは考えないことにする。

 

 今回は感想ではなく筆者のオススメ映画を何作か挙げていきたいと思う。面白いってことがよくわからなくなってしまったのでそれぞれの作品の感想を書いたり紹介をすることで作品の魅力を筆者に再認識させることが今回の目的となっている。最近は小説を書いても何が面白いのかわからなくなってしまった。鬱かと言えばそんなことはなく筆者の精神も肉体も極めて健康なので安心してほしい(あなたが安心する必要はない)。

 紹介する順番に特に意味はないけれど、思いついた順なので無意識的に筆者のランキングになっているかもしれない。一応映画監督一人につき一作というきまりはある。

 また、ここで映画をオススメする理由は先述した通り極めて私的な理由によるものなので誰が見ても面白いとかそんな普遍性は考えていない。このブログを見て該当の映画を見たがつまらなかった、なんてことに対して筆者は一切責任を負わない。その点をご了承願いたい。

 とりあえず、思いついたのは下の5本。その内1本を紹介させてほしい。たぶん全部べた褒めになるのでそういうのが苦痛な人はブラウザバックしてほしい。

 

エミール・クストリッツァアンダーグラウンド

アレクサンドル・ソクーロフエルミタージュ幻想

北野武キッズ・リターン

原一男ゆきゆきて、神軍

ヴェルナー・ヘルツォーク『小人の饗宴』

・ヴァルター・ルットマン『ベルリン・大都市交響楽』

 

エミール・クストリッツァアンダーグラウンド』(1995年)

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 今まで見てきた映画で最高のヤツは何かと尋ねられれば、筆者は間違いなく『アンダーグラウンド』を第一に挙げる。前回の記事では繰り返して見るとつまらなかったりする映画、そんな話をした気がするがこれは10回見ても飽きない映画だ。上映時間も170分と結構長いがそんなものは関係ない。最後まで映像の中に引き込まれながら見続けることができるし、見終わったあとには凄まじい感覚(感動とはまた違うかも)が残る。

 そこまで褒めておいて、じゃあ具体的に何の映画なんだというとかつてバルカン半島にあった地域・国家ユーゴスラヴィアの歴史を題材にした映画である。ユーゴというと内線・紛争が直観的に思い出されるかもしれないが、紛争に至る前も第二次世界大戦中の対独パルチザン社会主義時代といった重厚な歴史を持っている。『アンダーグラウンド』はそんな重厚な歴史を、クストリッツァの濃厚な映像技法で映画としてまとめたものだ。

 こう言われると、「ユーゴスラヴィアなんてよく知らんしハードル高そうだしペダンチスト死ねや」と言われるかもしれないが、筆者自身この映画を見るまでユーゴスラヴィアについてちゃんと理解しようとしたことがなかったので安心してほしい。周囲の人に勧めてみたところ、みんなユーゴを知らなくてもかなり楽しんでもらえていた記憶がある。

 それもそのはずで、この映画には「ユーゴスラヴィアという国家への追憶と語り」という性格がある。紛争という歴史から、外国人からは「悲しい」とか「陰鬱」とかそんなイメージの跋扈するユーゴスラヴィアだが作中で描かれるユーゴスラヴィアには笑いがあり怒りがあり喜びがあり悲しみがある。感情豊かなユーゴスラヴィアの人々が描かれ、単なる歴史叙述ではなく「記憶の中のユーゴスラヴィア」を描き出しているように思う。だから、ユーゴの歴史を知らなくとも視聴者は一人一人のユーゴスラヴィアの人々に接近することが可能だ。

 余談、監督のエミール・クストリッツァは「ユーゴスラヴィア人」を自称するほどのユーゴスラヴィア主義者で、この映画もそんな性格から政治的論争に巻き込まれてしまった。それが理由でクストリッツァは一時映画を撮るのをやめてしまった。その後、政治的・歴史的性格を排した黒猫・白猫を撮影するがこちらも最高に面白いのでいつか紹介したいと思う。

エミール・クストリッツァ黒猫・白猫』、1998年

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 ユーゴとそこに住んでいた人々の歴史・記憶がクストリッツァのカオスな喜劇・悲劇手法をもって次々に展開されていく。荒唐無稽、ナンセンス、そう思う人もいるかもしれないがこの無限に殴られ続けるような映画がクセになる。

 しかし、先述した通りユーゴスラヴィアには「紛争」という歴史がついて回る。紛争がどんなものだったかはよく記憶していなくとも視聴者のほとんどはそれを念頭にスクリーンに視線を送らねばならないだろう。第二次世界大戦社会主義時代を経て「戦争」という章題が画面に映った瞬間「ああ、やっぱり」という気分にならざるをえない。

 紛争によってそれまで主人公たちが構築してきたものは決定的に、完膚なきまでに破壊されてしまう。それまでにも多くの犠牲があったが、紛争はその上を行く。救いはどこにもない。戦火に燃える教会では自殺者が鐘を鳴らし、キリスト像の周りをガソリンに焼かれる死体が電動車椅子に乗って回り続け、ユーゴスラヴィアの血は大地に染み込んでを流れる。もう最悪である。全てが絶望の中にあり、これで物語はすべて終わったと思う。「ああ、やっぱり」と思いながら視聴者はエンドロールを待つだろう。

 そうじゃない。ラストシーンは度肝を抜く。初見の視聴者は「なんじゃこりゃ!?」と思い、既に視聴していた観客は「これを待っていた!」とニヤニヤするだろう(個人的な感想)。詳細は省くが、最後の最後に語られる「苦痛と悲しみなしには、子供たちにこう伝えられない。『むかし、あるところに国があった』、と」という言葉はこのラストシーンとともに映画史に残る最高のセリフだろう。

 

 個人的な話、筆者が歴史好きで特に歴史・記憶論(歴史を記憶するとはどういうことか、記憶はどのように表現されるか、みたいなヤツ)が大好きだったのでこの映画はそりゃもうドツボだったのだが、先にも述べた通り誰が見ても面白い映画となっている。

 そこで、なんでこれが面白いんだろうと考えてみるとそれはたぶんこの映画が理解可能/不可能の境界上にあるからだろうととりあえず思った。

 クストリッツァの映画はどれもリアリティとファンタジックの間を行くようなものばかりだ。『ジプシーのとき』『ライフ・イズ・ミラクル』『パパは出張中!』……これらの作品群はいつもこちらの想像力を上回ってくる。常に観客はクストリッツァのカメラに殴られ続ける。しかしそれは不条理ではない。殴られながら、なんとなく観客はカメラが映すそれを理解できる。なんじゃそりゃ、と殴られながらもなんとなく納得する。マゾヒストかよと思うかもしれないが長時間イスに縛られ続ける映画を見るヤツなんてたいていマゾヒストだしその指摘は的を得てると思う。

 この、理解不能から理解可能への越境こそクストリッツァ映画の面白さなんじゃないかなと個人的に考えている。理解できることばかりの映画なんて見ていてもつまらないだろう。逆に不条理に殴られ続ける映画はやはり辛い。余談。ふと思ったのはアレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を!』だ。一応、映像とセリフへの注視に全身全霊を掛ければ画面の中で何が起きているか理解できないこともないのだが、それでも全体の10%くらいしかわからないし(そも全体が把握できないのだが)そんなことを140分近くやってられない。殴られ続けるのが趣味、という方は見るといいなじゃないかな。筆者もそんなところが少しあるので一応オススメしておく。

アレクセイ・ゲルマンフルスタリョフ、車を!』(1998年)

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 理解の範疇の境界線上にある、これが面白さの理由の一つかなと思う。ハリウッド批判みたいで嫌なのだが、ユーゴスラヴィアをはじめ第三世界映画にはそうした想像力を超えてくる作品が多いように思える。読者の方も、こんな駄文からクストリッツァ作品や第三世界映画に触れてもらえればと思う。もちろん、つまらなくても筆者は責任は取らない。けれど『アンダーグラウンド』の面白さだけは保証したい。

 

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SUPER8』は、そこまでオススメしない。ただラストの情景だけは一級品。それくらい。

 

おわり

 一作品くらいの紹介がやっぱりちょうどいい気がする。労力もそこまで必要にならないし。二本書こうとするのはやはり無謀だった。いつも二本立てで上映してくれる早稲田松竹様やキネカ大森様には頭が上がらない。

 どうでもいい個人的な話をすると筆者は『アンダーグラウンド』からユーゴスラヴィアに興味を持って色々調べたりユーゴスラヴィアラノベを書こうとしたりしている。もし文フリやコミケでそんなものを売っているところを見てもセルビアボスニア・ヘルツェゴヴィナの大使館に通報したりせずそっとしてあげてほしい。

極めて個人的な映画関連メモ②

まえがき・感想を書くということ

 映画の感想ってどのタイミングで書けばいいのか困る。そりゃ見た直後が内容も細部も覚えてるから精度の高い感想が書けるだろう。精度の高い感想ってなんだ。でもまあ「思い出補正」なんて言葉が示す通り視聴してから時間が経つとノイズが入り込んでやっぱり正確な評価はできないらしい。

 論点は循環する。正確な評価ってなんだ?正確、というのは客観的正しさを持ってるということになると思うけど映画は個々人の視点から成り立つものだからそんなこと言っても不毛なんじゃないか(この文章がそも不毛であるという抗議はもちろん受け付けている)。
 論点がずれているので修正する。感想を書くタイミング、これが難しい。一度楽しんで見た映画でも、数年後また見返して見るとつまらなかったりする。以前にホドロフスキーの『リアリティのダンス』を新宿のシネマカリテで見たとき、筆者は最高に楽しんでたのだがその何カ月後かに早稲田松竹でやってたのを見たら何故か退屈で苦痛な映画になってしまっていた(ちなみに同時に上映していた『ホドロフスキーのDUNE』も退屈だった。完成しなかった作品が「傑作になったはずだ」と言われ続けるのホント腹立つ。だったら完成させろよ)。もちろん、逆に後から見たら面白かったなんて例もあるかもしれない。まあつまんないと思った映画は二度と見ないだろうけど。
 

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これ見るんだったら『エル・トポ』を見返した方がマシだと今はそう思ってる。
 
 『リアリティのダンス』の例は2度目を見たから発生したものだ。早稲田松竹が『リアリティのダンス』を上映しなければ、後輩の映像オタクに誘われなければ、筆者の中での『リアリティのダンス』に対する感想はポジティブなもののままだったはずだ。早稲田松竹様にも後輩の映像オタクにも罪はない。
 「感想」なんてものはいくらでも変化する。ブログや雑誌に書き記されたそれはその瞬間のその人の感性から切り出したものでしかない。「評論」となるとまた別のものになるからここではそれは省く。筆者は評論を書けないし。
 そんなわけで、映画の感想を書くのは難しいなと思った。筆者は元から厳密性だとか反証可能性を考えて文章を書くタイプではないので何を今更と言うところだが、こうしてみると結局何のために映画の感想を書くのかよくわからなくなる。
 だから、映画の感想を書くという行為は映画を筆者の感性が切り出すというより映画が筆者の感性を切り出す、と言った方がいいのかもしれない。これでまたこのブログの私性が高まってしまった。
 
  そんなことを思いながらも、とりあえず、また今回も感想を書いてみようと思う。この前早稲田松竹で二本立てでやっていたベルナルド・ベルトルッチの『暗殺の森』『ラストエンペラー』の二つ。
 

ベルナルド・ベルトルッチ暗殺の森』(1970)

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 タイトルがネタバレなので何言ってもいいだろう。
 ファシズム政権期イタリアのスパイがハネムーン中に反ファシズムなフランス人老教授の奥さんに恋をしたり老教授諸共奥さんを殺したりするそんなお話。
 筆者はファシズム期イタリアという背景に興味を持って見に行ったのだがぶっちゃけそこらへんは重要じゃない。テーマ、みたいなものは主人公マルチェロ・クレリチのどうしようもないクズさなのだが、視聴者は無条件に彼をなじることはできないように思う。幼少期に同性愛者に襲われそれを射殺してしまったというトラウマがあるにしても、ファシズム政権下で「正常」を渇望するクレリチの歪曲した精神はどこか他人事とは思えない。別に視聴者全員がそう思う必要はなくて、クレリチのどクズさ加減に苛立った人なんかは途中で席を立ってもいい。けれど、恋した老教授の奥さんを自分の手で殺すことなく、黙って殺される様子を見、名前を呼ばれても黙っていたり、イタリアの敗戦が決定した際に友人(この友人は視覚障碍者ファシスト党員でクレリチの入党を仲介していた)を「こいつはファシストだ!」と糾弾するそのクレリチのどクズさに筆者はどこか共感や愛着を覚えてしまう。
 そんな自虐的共感とともに感じていたのは、この映画が凄まじいモダニズムを映し出しているところで、近代主義者である筆者はたまらなく興奮していた。「モダニズム/近代」の定義論争をするつもりはないのであしからず。
 車両で移動する、カメラを傾かせる、車の移動方向の直線と鉄柵の直線が交錯する、巨大な構造物の中、床という平面と階段という立体が交錯する、ダイナミックに。ベルトルッチが意識していたかどうかはわからないが、この空間や視点の使い方に筆者は(半ば勝手に)モダニズムを見出してしまっていた。モダニズム好きでない方が見ても、この空間の魅せ方は非常に卓越していると思う。
 映像面から言うと、光の演出も巧い。クレリチと老教授の会話の中でプラトンの洞窟の比喩が出てくるのだが、その際にカメラはクレリチの影を映し出し続ける。最初はペダンチックで安直やなと思ったがじっくり見ているとこれもありやなと思うようになってしまった。他にも夕陽の差し込む列車内での濡れ場、曇天に暗いパリ(特にお気に入り)、陰鬱な森の中、ラストシーンの蝋燭など、若干ストレートだなと思いつつも光の重要さを思い出させてくれるシーンが多い。嫌いじゃない。
 
 正直、見ているときは退屈だったりストレスの溜まったりする映画かもしれない。けれど、見返したり(今こうして筆者がやっているように)思い出して考えてみたりするとなかなか面白い映画となっている。スルメ映画、オススメ。
 

ベルナルド・ベルトルッチラストエンペラー

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 アカデミー作品賞も取ってたし舞台が東アジアということで日本での知名度はかなり高いと思う。なので筆者が今更感想を書く必要もないように思えるけど既に述べている通りこのブログは極めて私的なのでそこらへんは気にしない。気にしたいのはぶっ続けで映画の感想を書くのは疲れるので筆者がこのままちゃんとした感想が書けるかどうかだ。ちゃんとした感想の存在可能性の是非については語らない。

 知っての通り「ラストエンペラー」とは清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀のことでこの作品は溥儀の生涯を映した歴史映画であるが、「どうせみんな展開は知ってるでしょ」ということなのか最初から戦後中国、つまり中華人民共和国が映し出される。戦犯逮捕スタート。ストーリーは中国での戦犯溥儀に対する尋問・強制収容所生活と清朝満州国時代を行き来しながら展開されていく。

 それを聞くとめっちゃ面白そうやんけと思うだろう。けれど、それに続く清朝時代の映像を見たときは「失敗したな」と思ってしまった。まず登場人物が一部を除いてほとんど英語で演技し始めたので「英語帝国主義許せねえ……英語帝国主義許せねえよ!」となってしまった(既に序盤で英語は使っているのだが)。まあだいたいこういうのは後々気にならなくなるのだが、つまらないことに腹を立てるオタク特有のめんどくささを発揮し掴みは著しく低かった。また、溥儀を清朝皇帝に指名する西太后も序盤で出てくるのだがそのオリエンタリズム丸出しの演出にまたしても筆者は「欧米中心主義許せねえ……欧米中心主義許せねえよ!」と無駄にアジア的憤りを感じてしまった。無駄に変な学部で無駄に変なことを学んでしまったので無駄に腹を立てることとなってしまった。こういうことは社会に出ても一切役に立たないのでさっさと忘れたい。

 そんなわけで掴みは最悪だった。皇帝の即位式において数千のエキストラが溥儀の目の前で三跪九叩頭の礼をするシーンは圧巻だったりするのだが、英語の飛び交う紫禁城の中で「アジア的」演出が映し出される。なんやねんベルトルッチ。付け加えると筆者はフィクション中に出てくる「子供」という存在が死ぬほど嫌いなので天真爛漫というか厚顔無恥に振る舞う幼少期の溥儀にも半ばキレていた。もう見るのやめろよ。

 状況が変わるのは溥儀が思春期くらいに入ったところ、辛亥革命の勃発から。筆者が国家の滅亡やら革命やらといった要素が好きなのもあるが、こういう衰退を見るのは本当に楽しい。辛亥革命紫禁城に閉じ込められ、北京政変では逆に追い出され溥儀は妻の婉容・文繍とともに天津に逃げる。

 どうでもいいのだが思春期の頃から溥儀に仕えていた家庭教師ジョンストンさんがいい人すぎる。欧米人はやはり知性と人間性を兼ね備えているのか、それに比べてアジアのイエローモンキーどもは……とまた無駄なことを考え始めてしまう。どうでもいい。

 こっからはもう凋落アンド凋落の連続である。ジョンストン先生は「イギリス政府が助けてくれる」言ってたのに手を伸ばしてくれたのは結局日本だけだし下心丸見えだし、側室の文繍にも逃げられるし、溥儀に構ってもらえない婉容はメンヘラをこじらせるし。そうして満州国建国へと進んでいくのだが、ここらへんになるともうすべてが空疎である。皇帝即位の儀式もおままごと、婉容はアヘン中毒、皇帝の権威も見かけ上だけで実権はすべて日本のもの、最高かよ。

 あとはお察しのように世界大戦が終結し日本は敗戦、溥儀も逮捕され最初のシーンへと繋がる。王様気分の抜けない溥儀が収容所内で根性叩き込まれるシーンは性格が悪いようだがすかっとする。その後、収容所内での「教育」を終えた溥儀は北京で一般の植物園職員となるのだが、この後のラストシーンがこの映画屈指の名シーンとなっている。半世紀ちょっとでここまで時代が変化するものなのか、20世紀が最高だった理由の一つを垣間見ることができる。

 映像面から見ると主演のジョン・ローンの演技が非常に良い。溌剌とした青年期からどんどん生気が失われていくも、戦後になるとどこか解放されて悟ったような表情をする溥儀、そうした変化を巧く表現していると思う。そういえば音楽は坂本龍一だが、少しベタつく。久石譲もそうだが、この二人の映画音楽はなんだか映像より前面に出ようとしている気がする。音楽自体はいいけど。

 実験的にあらすじと一緒に感想を書いてみようと思ったが、やけに長くなる。映画も長い。劇場公開版だと3時間弱、オリジナル版だと200分を超えるとかなんとか。個人的に映画は120分を超えると一気に面白さのハードルが上がるのだが、これはそのハードルを越えていたと思う。でも長い。疲れる。なのでもう二度と見ないだろう。けどあのラストシーンをもう一度見たいという欲も湧き上がる、そのためには再び160分見ないといけないのだが。

 

おわり

 感想を書くのがどうだこうだ言っていたが今ここで思うことはやっぱり多分に労力が要るということ。もう少し楽に書けて面白いトピックはないのか。適当に考えていたのは映画版『バーナード嬢、曰く』みたく「見ているとかっこいい映画・通ぶれる映画」とか紹介できたらと思うのだがああいうのは書いている人が通だからできるわけでこの企画もなかば諦めている。