Besteh! Besteh!

印象論で何かが語られる。オタク、創作、時々、イスラエル。

ノイズ、シューゲイザー、低体温。

いつも映画のことばかり書いているので今回は別のことを書きたいと思った。いつも、なんて言うほどブログを更新しているわけではないけれど、そう思う自由と権利を筆者は保有しているはずだ。

それと、そんなに映画も観ているわけではないので、話のネタを広げておくためにも別の引き出しを用意することが重要だと思考する。ブログを書くために趣味やるのだけはやめろ。なんか腹立ってきたな。

この記事の目的は上記のように映画以外にも継続的にテーマとして書けるものを用意すること、加えて映画以外について書くという行為について慣れておくこととしたい。したいが、以下の目的もある。本題に入るのが遅れるがお付き合い願いたい。

筆者がクソ天邪鬼のせいで普段あまり好きなことについて語ることが少ないのでその矯正も目的に含める。バカなのか?けれども、好きなことについて語るというのは非常に難しくて、安易な賞賛はチープさから皮肉に読めることさえあるので、慎重になりたい、そういうことには慎重でありたいんだよ。お前は「母さん父さんじいちゃんばあちやん俺を育ててくれた家族のみんなそしてお前にありがとうyeah」なんて言葉に感動するのか?それはともかく家族と地元は大事にしろよ。大学出るまでに大体養育費3000万円くらい掛かるからな。

嫌いなものを語る言葉は何万遍と用意できるが、好きなものを語る言葉はそう多く用意できない。枕草子の「をかし」って意味込められすぎだろ。エスキモーが雪を幾百もの語彙から表現するように、(筆者は)嫌いなものについては幾らでも表現することができるが、好きなものについてはそうでない。最近そのことをよく痛感する。

なので、好きなものについて語ることにしたかった。それで筆者が何か得するのかどうかはよくわからなかった。

前置きが長くなった。とりあえず筆者の趣味の一つであるっぽい音楽について好きを書いていきたい。

趣味というのはなんかしっくりこない。

音楽を聴く、という行為そのものはあまりしない。どちらかという生活の中で聴き流してる方が遥かに多い。びっくりしたんですが一人でいるときにイヤホン付けなくて大丈夫な人って結構いるんですね。筆者は基本的に私的な時間はイヤホン付けてないとダメになる人間です。耳元から音楽が流れていないと不安定になる。いや病気じゃないが、病気なのか?はっきりしない曖昧な映像。

というわけで筆者は私的な時間以外、基本的に音楽を聴き続

 

随時おすすめのバンド・アルバムを紹介していきます。

 

死んだ僕の彼女『hades(the nine stages of change at the deceased remains』(2015年、n_ingen RECORD)

 「hades 死んだ僕の彼女」の画像検索結果

音楽の感想の書き方全然わかんねえ。

 

2,3年前から国内シューゲイザーにはまって、その時ちょうど始めた音楽配信サービスで見つけたバンドだった。それまではcoaltar of the deepersやきのこ帝国といったメジャーバンドを、または教養としてmy bloody valentineを聴く程度の認識だったシューゲイザーだけれど、このバンドで一気に加速したと勝手に記憶してる。

 

ノイジーなギターに浮遊感のある男女ツインボーカルを基調とするバントで、ジャンル的には先述した通りシューゲイザー、ドリームポップ(だと思う、音楽ジャンルの定義よくわかんねえ)。

 

特に好きなのはバンドのテーマ性で、今回挙げているアルバム他作品にも色濃く反映されているそれは「死」や「喪失感」だ。アルバムタイトルの"the nine stages of change at the deceased remains"が意味しているのは死体の変遷を無常観から描く九相図のことだそうです。

ある種、安易なクソサブカルが好みそうなテーマではあるけれど、少なくともこのアルバムにおけるテーマの一貫性には浅薄さを感じない。どろっとした血の池を白いサンダルでスキップするような感覚にやみつきになる。デカダンとポップの融合、確かに「サブカル」のそれではあるがサブカルチャーであることの醍醐味を十分に発揮していると思う。

筆者が特に気に入っているのは「彼女が暑くて腐ったら」と「吐く息(the last stage oh change at the deceased remain)」の2曲。前者は軽快ながらどこか鈍さを残すメロディに明るい男女ボーカルが彼女の死体その腐敗と喪失を歌う。ラストに駆け抜ける矛盾する喪失感が本当に良い。後者はそれまであったポップさを抜いて、冬の夜みたいな低体温のままひたすらに虚無を歌う。とんでもないエモーショナル。これも後半から高まってくるノイズが一層に低体温を引き立てる。ノイズの中に溶けそうな澄んだ旋律とボーカルをマジで感じてくれ。九相図の終焉に相応しい一曲と言える。

 

"死んだ僕の彼女"はこのアルバムのほかにもいくつかの作品を発表しており、imusicに加入している人ならだいたい聴けるはずだ(2012年のミニアルバム『underdrawing for three forms of unhappiness at the state of existence』はimusicに入ってないけどitunesで買えるから買ってください)。2017年に一度活動を休止したみたいだけど2019年現在はライブ活動やってるっぽいですね(公式HP、Twitterで確認してください)。フロントマンのishikawa氏が企画している"死んだ僕の石川"名義でリリースされているアルバム『幸せの谷の死体』(2016年)もあります。こちらは死んだ僕の彼女のメンバーにゲストを加えたアンソロジー形式の作品。

 

手軽に手に入る・聴くことができるのは下記の作品だと思うのでまとめておきます。

2songs + Cassette Tape E.P / 6songs From The Happy Valley,2007年

https://img.discogs.com/en-tzXWi2nGJPQyeQLa7ivbkCgg=/fit-in/300x300/filters:strip_icc():format(jpeg):mode_rgb():quality(40)/discogs-images/R-3479859-1332035300.jpeg.jpg

 

ixtab, 2010年

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underdrawing for three forms of unhappiness at the state of existence, 2012年

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幸せの谷の死体,2016年(※"死んだ僕の石川"名義)https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51zHRIfkQVL._SY355_.jpg

 

レーベルはすべてn_ingen record。

 

とりあえず一回聴いてみてください。

youtu.be

 

なんか後半布教色が強かったな。

極めて個人的な映画関連メモ⑥

まえがき

 昨年あたりから映画のDVD・BD、いわゆる円盤を買うようになった。

 

 それまでは余程「面白い!」と感じない限り円盤を買うようなことはなかったのだけれど、ふと「そんなにコストかからなくね?」と気づいたのでそうすることにした。発売直後のBDやプレミア付きのものはやっぱり高価だけれど、公開・発売からそれなりに時間が経っている作品は新品でもそこまでお高くないし、なんならレンタル落ちとか格安でネットショッピング・オークションに落ちている。

 そういうわけで、最近は「これ面白かったな」と感じたヤツでネットで割と安く買える作品は積極的にDVDを購入するようになった。

  この流れの中で購入したのがE・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』で、今回の記事は本作品と同じくクストリッツァの『アンダーグラウンド』との比較を交えながら感想をだらだら書いていきたい。

 

 ちなみに『パパは出張中!』のDVDはプレミア付きで若干高かった。レンタル落ち品で8,000円くらい。高騰する前に買え!!!!!

 

 ふと、円盤をあまり積極的に購入してこなかったのはメディアがいつか利用不可能になること、永久に保存できるものではないことを(我々の世代は)経験しているからかなと思った。小学生の頃、実家の本棚や収納ボックスの中に大量に入っていたVHSはどこにいったのだろう?実家の自室にはまだアジカンやオアシスのアルバムを焼いたMDが結構残っている。メディアは永遠でなくて、いつか買い溜めた円盤を視聴する手段も失われてしまう、そのことを我々は知っている。

 

 『パパは出張中!』/『アンダーグラウンド』比較—政治と家族、記憶化するユーゴスラヴィア

 ※ここからエミール・クストリッツァ監督の『パパは出張中!』と『アンダーグラウンド』についてネタバレを含んだ記述がありますが俺はネタバレするな云々とかそういうの大嫌いなんだ。ネタバレでつまらなくなる作品は最初からつまんねえんだよ。"漢"なら作品全体の構成とワンカットワンフレームその一瞬に魂<お前>を燃やせ。

 

E・クストリッツァ『パパは出張中!』(1985年)パパは、出張中!

E・クストリッツァダーグラウンド』(1995年)

アンダーグラウンド

 『パパは出張中!』の感想として『アンダーグラウンド』も取り上げたのは両者には切っても切れない相関関係があると筆者が勝手に考えているからだ。だが、まずは『パパは出張中!』単体について紹介していきたい。

 

 舞台は1950年代初頭ユーゴスラヴィアサラエヴォ。主人公の少年マリクとその一家は比較的裕福な家庭で、戦争を経験したものの幸福な生活を送っている。けれども政治情勢は厳しく、当時のユーゴスラヴィアはティトーの独自路線をよしとしないソヴィエトと厳しく対立し、ユーゴ国内では親ソ的・親スターリン的な思想と言論が弾圧されていた。折しも運悪く、マリクの父親メーシャも浮気相手に何気なく呟いた言葉が災いして反体制派として逮捕、強制労働を課せられることになる。母親セナは子供たちに父親が帰らない理由を「出張中」として説明するが、家族の生活はどんどん変化していき……というストーリー。

 一見シリアスなストーリーにも見えるが、画面の中はそれほど暗くはなく、どちらかと言えばコメディドラマ的な色彩が強い。キャラクターたちは基本前向きで個性的、かつストーリーも自然なテンポで進行し視聴者にあまり心的負荷を掛けるような構成ではない。ただし口を開かせるだけの笑いに終始することもない。感情と関係の揺らぎ、人々の愚かさや懊悩も描かれており一定の枠にはまることはない。

 主人公一家に加えて好々爺という形容の似合う祖父やメーシャを逮捕する人民委員の義兄、移住先で「ユーゴ人」を自称するロシア人医師等様々なキャラクターが出演するが舞台は壊れることがない。魅力的なキャラクターたちを揃えて自然なテンポを維持しつつ時にそのフレームを超えるクストリッツァと脚本家のシドランのバランス感覚に辟易してしまう。

 上記のように本作はユーゴスラヴィアという国家・体制批判を含みつつコメディ色豊かに家族を描き切ってみせる。

 

 「ユーゴスラヴィアという国家」と「そこに生きる家族、もしくは共同体」という二つのテーマは『パパは出張中!』(打つの面倒くさいので以下"パ!")から10年後に撮られた『アンダーグラウンド』(以下"UG")と非常に共通しており、演出の面からも両作品の関係性は明瞭だ。一方でその共通性ゆえに差異も見えてくるし、そこからクストリッツァの1985年から1995年に掛けての思想の変化も捉えられるかもしれない。

 

 まず共通点から見ていく。マクロな視点に立てば、先述した通り両者には「ユーゴという国家」と「そこに生きる家族」の二つがある。パ!はただのノンポリ親父がただの譫言が原因で政治犯として逮捕され家族が引き裂かれる。UGでは戦争の中で家族が離散し、主人公クロは権力や富に固執するもう一人の主人公マルコに騙される形で地下に幽閉されてしまう。パ!は1950年代ユーゴにおける国家の弾圧を、UGは二度の戦争と共産主義者同盟体制下における抑圧を大きなテーマ背景がある。

 どちらも体制に対して批判的だ。パ!では父親のしょうもない理由での逮捕の他に、マリクの友人の父親が国家警察に逮捕されその後死亡する顛末が描かれる。虚飾にまみれた宣誓が読み上げられる共産党の地域大会にも性格の悪さが滲み出る。UGはパ!よりも少し薄いが、大根役者が演じる大げさなプロパガンダ映画の撮影や空虚な詩が詠われる共産党主催イベントなど、党と国家をよいものとしては描かず、皮肉の対象としている。

 

 ちなみにUG公開当初は「ユーゴスラヴィアを過度に称賛している」という批判があったらしいけれど、UGは共産主義者同盟による支配をシニカルに描いているし、パ!のより明確なユーゴ批判を見てたらクストリッツァがそんなお気楽ユーゴスラヴィア人でないとわかるんだよな。クストリッツァは確かに「ユーゴスラヴィア」をいい感じの意味で使ってたりするけど、ここで言う「ユーゴスラヴィア」は国家や地域についての語ではなくて「多様性を包括すること・共存すること」に基盤を置く文化・精神の一種だとおじさんは思うんだ。

 

 そして家族・共同体だが、このテーマをもっとも前面に押し出すのは両者ともラストにある。両方ともそれまで劇に出てきたキャラクターたちが一堂に会す結婚式を舞台をラストのそれに選ぶ。そこでは家族・親族・友人と様々な関係を持つ人々が集結し、問題の清算・総括(またはその逆)が展開される。パ!はなんとか元の住処に帰ってきたところを親族や友人らが出迎え、UGでは戦争の中で離散していった共同体が(現実ではないどこかで)復活し過去の清算を行う。離散からの集合大好きか?

 

 他にも気になる点はいくつかあるけれどキリがないし、共通点の列挙というのは本来もっと慎重にやるべき行為だと思い出しました。

 ともあれ、ユーゴという国家とその舞台の中で離別を経験する家族・共同体、そしてラストにおける過去の清算という構造が両者に共通していることはわかると思う。いや作品見ればわかるんだが。

 それで、ここからが書きたかったことなんですが、両者の違いについて、そこから勝手に妄想するクストリッツァ作品の思想の変化。

 

 文章が長くなるので簡潔にまとめるけれど、最大の相違点はラストの結婚式で交わされる許しについての質問への回答だ。どのような質問か?パ!はメーシャを逮捕し家庭をめちゃくちゃにしてしまった義兄がメーシャに許しの可否を問う。UGでも、血はつながっていないが兄弟のようなクロとマルコの二人が盃を交わし、クロを騙していたことについてマルコが許しを請う。流れはほとんど同じだ。

 兄弟分の所業によって苦難を味わったメーシャとクロ、二人の回答は以下のようになる。

 

メーシャ「忘れる。許すのは神だ」

クロ「許そう。だが、忘れないぞ」

 

 この違いは決定的だ、少なくとも筆者はそう思う。

 メーシャは許しの主体は自分にないと宣言してしまうし、罪そのものについての忘却さえ言い切ってしまう。許す/許さない、でなく罪そのものをなかったことにしてしまう。メーシャにとって義兄から受けた苦渋の経験はもはや彼にとって意味を持っておらず、ただ元通りにサラエヴォでの家族生活に戻るだけである。

 パ!は原則的に責任の所在を明確にしない。上記のように義兄の罪は罪そのものがなかったことにされるし、メーシャ逮捕の遠因となった浮気相手は自殺を試みるが失敗する。罪に対して明確な罰が下されることはない。もっともらしく言えば、義兄の罪が永遠に許されないこと、浮気相手は贖罪できずに生き続けることはある種の罰かもしれないが、ラストにそこまで悲壮感はない。誰も悪くなかった、すべて国家と時代が悪かった、「政治なんてクソくらえだ」、というのが結論と言えるかもしれない。

 他方、UGのクロはメーシャとは異なり、明確に許しをマルコに与えている上に、その罪について「忘れないぞ」とまで言い切ってしまう。劇中においてマルコが後半から確実に罪人・悪人として位置づけられている点もパ!とは異なる。

 パ!では許しもしないし記憶もしなかった政治による苦痛が、UGでは許しと記憶の対象となっている。この差は非常に大きい。

 

 ここで一度作品背景に立ち戻る。1985年から1995年の10年間にユーゴスラヴィアクストリッツァが体験したのは祖国の崩壊だ。

 1985年は既にティトーが死去し政治経済に不穏の影が差し迫っていたが、84年にはサラエヴォ五輪が開催されるなど、まだ安定した社会情勢を保っていた。けれども同時期から悪化する経済情勢と相まって民族主義が台頭し始める。これが90年代初頭に暴発しユーゴ構成国家・民族間での紛争へと発展していく。ボスニアは1992年に独立を宣言し、これを認めないセルビア人勢力と独立派のボシュニャク人(ムスリム)勢力、クロアチア人勢力による三つ巴の紛争が勃発する。

 紛争は3年ほど続き、国際社会の介入もあって1995年に一応の決着を見せる。しかし、紛争による死者は20万人(当時の人口の5%弱)、ボスニア各地は戦闘によって荒廃、ユーゴスラヴィア国家もセルビアモンテネグロを残してほぼ分断されることになる。

 

  UGが公開されたのは1995年5月のカンヌで、同年10月にボスニア紛争は停戦に至る。既に旧ユーゴ構成国家の大半が連邦を離脱し、「ユーゴスラヴィア」は完全に解体されていた。

 UGもこの祖国解体の顛末が描かれている。WW2から始まり、ユーゴ紛争に終わる国家の歴史を寓話的に描き出すことによって、UGはユーゴスラヴィアという過去・記憶を総括しようとする。その総括として、UGでは主人公クロは「許そう。だが、忘れないぞ」と言葉にする。クストリッツァにとって既にこのとき「ユーゴスラヴィア」は記憶するべき、または歴史的判断を下すべき過去になっている。

 それと比較してみると、パ!は過去ではなく現在の話をしている。1950年代という舞台は撮影より30年も前の話ではあるが、ユーゴスラヴィアの国家・社会に生きる市井の人々を映し出す。まだユーゴはあるし、生活は続いていく。メーシャが義兄から許しを問われても、許しと記憶どちらも選択しないのは過去を総括する必要がないからだ。

 現在・現実としてのユーゴスラヴィアと家族を描く『パパは出張中!』、過去・記憶としてのユーゴスラヴィアを描く『アンダーグラウンド』、共通性を持ちクストリッツァ作品の醍醐味ともいえる要素を孕んだ両作品だが、ユーゴスラヴィアという時代への対照的な視点と変化に、ユーゴスラヴィアもしくはクストリッツァが経験した過去と記憶の総括が多分に含まれ、表現されているのではないだろうか。

 とりあえず筆者はメーシャからクロへの、この思想と視点の変化にエモーショナルを感じずにはいられない。今回の記事はそれが言いたかっただけです。

 

 今なんとなく思いついたことだけれど、パ!とUGの現在・過去の比較には演出の魔術性も深く関与しているような気がする。具体的に。現実にはありえないファンタジックな演出がUGでは多く見られるが、パ!では少年マリクの不可思議な夢遊病を除いてそうした演出はあまり見られない。ある種の寓話として描かれるUGと、現在について語るパ!を比較する上でクストリッツァ作品で多用されるそうした魔術的演出の有無は割と重要な意味を持っているだろう。ただ、魔術的なそれは1989年の『ジプシーのとき』、1992年の『アリゾナ・ドリーム』から決定的にクストリッツァ作品に現れてくるのでUG特有の表現ではない。どちらかというと魔術的なそれはUGが到達点で、UG以後は代わって動物のモチーフが多用されてくる(『黒猫・白猫』(1998年)『ライフ・イズ・ミラクル』(2004年))。特に2016年の『オン・ザ・ミルキーロード』では非常に動物のイメージが画面に現れる。筆者個人としては、コメディ的な動きと人間に対するシニカルさを同時に表現するUGから連なる寓話性の連続の一部として見ているけれど、考えがまとまらないのでここらへんにしておく。

リハビリテーションと2018年上半期映画私的ベスト3

はじめに

 実に一年ぶりのブログ投稿になる。

 どうして今更再開したのかというと、ここ1年専らtwitterばかりやっていて、twitterばかりやっていると、twitterをやるときの思考形式で物事を考えてしまうから、つまり、多様性の確保、とは言い過ぎだが、自分の言葉を伝えるメディア・選択しが多いには越したことないし、先述した通りにtwitterをやるときとはまた別の思考で文章を書く、という行為の必要性をなんとなく感じたからこうしてブログ文章を書いているというわけです。

 

 今の一文でなんとなく書き方を思い出してきた気がする。

 

 物を書く上で一番難しいのはそのテーマを決定することだと個人的に思う。語彙の選択や文章の構成を考えたりすることよりも、何を書くか、これを決定することが一番重要で一番難しい。

 アナロジーで書く。筆者はごくまれにイラストを描く。アマチュアのアマチュアなのでそんなにテクニックや知識・経験があるわけではないけれど、イラストの中で一番時間を要するのはキャラクターのポーズや表情を決めることである場合が多い。作業ペースがべらぼうに遅いというのもあるが、ペンタブを握っている時間の大半はペンも動かさずにポーズや表情を考えている、もしくは考えるのを諦めている。

 アナロジーが長すぎる。確かに書く(描く)目的を考えるのは重要で難しいのだが、それよりももっと重要で意義のあることはとにかく手を動かすことだとも思う。嘘か真かは知らないが、池波正太郎は弟子になりたいと希望してきた若人に「とにかく文章を書くことだ」と諭したらしい。事実かどうかはともかく、筆者もそう思う。

 イラストもそのはずなんだからもっと描けよ。

 なので今回の記事の目的は最初に述べたもの、思考の多様化とメディアの確保、を文章それ自体のメタ的な目的として、文章の内容はとりあえず描きやすい映画の話にする。もう既に8月に差し掛かろうとしているけれど、とりあえず個人的にも総括したいので2018年上半期に筆者が見た映画について簡単ではあるけれど文章化していきたい。

 とりあえず、この記事はそうした構成になっているので消費者の方々はご安心ください。生鮮食品の生産者情報に生産へのモチベーションを表記する必要はどこにもないが。

 

 筆者も含めてブログを途中でやめてしまう人って文章を書く理由を見失ってしまうからなのかなとなんとなく思う。他人のことはわからないが。

 

 今年からキネマ旬報のやってる映画鑑賞記録サービスで視聴履歴をつけることにしました。筆者がそんなに映画を見ていないことがわかるかと思いますのでご参考までに。

マキノ猶一さんのKINENOTE

 

 2018年上半期映画私的ベスト3

 最初に結論から書く方が性に合っている。

 

1.『ビューティフル・デイ

監督:リン・ラムジー、配給:クロックワークス、制作国:イギリス・フランス・アメリ

 

2.『ラッカは静かに虐殺されている

監督:マシュー・ハイネマン、配給:アップリンク、制作国:アメリ

 

3.『ラブレス』

監督:アンドレイ・ズビャギンツェフ、配給:クロックワークス・アルバトロス他、制作国:ロシア

 

 正直に言うと、どれがベストワンでも問題ない。なので1位の『ビューティフル・デイ』から順々に書いていく。ベスト3の意味あんのかよ。

 

1.『ビューティフル・デイ』 ―観客不在の共感覚不可能性

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 とりあえず、今年上半期で「良かった」と言うとまず最初に、反射的にこの作品を挙げることになる。

 元々はアメリカの小説家ジョナサン・エイムズの短編小説で、これをイギリスの映画監督リン・ラムジーが映画化した作品だ。ジョナサン・エイムズについては邦訳も本作のものしかなく、あまり情報がない。コロンビア大卒、わかりみ。

 映画のあらすじ。ホアキン・フェニックス演じる"ジョー"こと元軍人のカタギでない男が、ある日御偉い議員さんから誘拐された娘の救出を依頼される。ジョーは殺しと誘拐救出のプロだ、娼館に跋扈する薄汚い男どもを抹殺せよ!……となるはずが、ある時点からストーリーは大きく転換しジョーは血生臭い陰謀に巻き込まれていく。

 あまり細かいことは言わないし、もし本作を観ることがあったら細かいところを見る必要はないと助言したい。ストーリーはシンプル、画面もシンプル、特に考察がどうとかそういうものではない。

 では見たらだいたいわかる映画かと言うと、そういうものでもない。むしろ何もわからん。フラッシュバックするジョーの過去も、ジョーの思考や行動も、何が何なのか皆目わからん、理解できないし、答えは用意されていない。

 いや、答えは確かにあるのだろうけど、それは観客の手に届くところにはない。だから、答えを見つける必要はない。ただ観客はスクリーンに映し出される映像に追随していくしかない。次のカットを予測するどころの話でない。俺はジョーでない。ジョーの思考も感情も俺が知るはずがない。ない、ない、ない。はい好き。

 なんか何も言ってない感想だな。でもそんな感じなので困る。思うに、「面白い」という感覚は理解不能/共感不可能性と密接に結びついてると思う。わかってるものを見たって仕方がない。想像の上を行かれるから我々は面白いものを面白いのだと感じるのだと、なんとなくそう考えている。

 その意味で、本作は共感不可能性を多分に秘めた作品だ。置いてきぼりにされる観客はひたすらにジョーの行方を追う。気が狂ったようなジョーの行動一つ一つに観客は見とれてしまう。突如現れる暴力に反応して、緊張感を孕んだ音楽が脳髄に染み渡れば、次には幻想的な映像。3分前の映像と整合性が取れない。なんでこんなことしてんだ/なってんだ?とひたすらに画面を追い続ける。

 ジョニー・グリーンウッドの音楽は耳に心地よく、また同時に鼓膜に障る。非現実的な幻想シーンではきらきらと輝いて、重苦しい暴力と殺人の空間では胸をざわつかせる。情緒不安定で、完璧な映画音楽だ。レディオヘッド聞き直すか。

 KINENOTEのレビューにも書いていたが、この作品はPCゲーム『Hotline Miami』を想起させる。共感不可能なキャラクターに暴力の嵐、情緒不安定な音楽、何処にも用意されていない答え、劇はプレイヤーを差し置いて勝手に飛んでいく。映画館で途中から感じていたのは、あのゲームをやっていたときの心地よさ(もしくは心地悪さ)だったのだと思う。

 共感不可能性が表現する面白さ、それを体現した作品ということで、極めて個人的な動機に基づいて上半期トップに挙げておきたい。

 

 ちなみに最初に書いたジョナサン・エイムズの原作だと、映画では断片的にしかスクリーンに登場しないジョーの過去・経歴や、確実ではないが陰謀の実態が説明されていたりする。筆者は映画を見た後に読んで楽しめたが、逆の場合は、どうだろうか、スクリーンに映されていないことを知っていると筆者の感じていた面白さが薄れてしまう気がする。しかしやはり、映画同様シンプルな文体に無駄のない構成と、雑な感想だがアメリカ文学っぽさを感じられるのでこちらもオススメしておきたい。

 

2.『ラッカは静かに虐殺されている』  ―想像の限界を超えるメディア戦争

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 申し訳ないことにいきなり愚痴から入ります。本作を観る前に同じ劇場で同じくシリアを題材にしたドキュメンタリー映画カーキ色の記憶』(名作、眠いが)を観たんですけどなんか前方のおっちゃん?がガチャガチャ機械か何かを動かしていてめっちゃうるさかった。タイピングしているような音だったが、シリア人のトラウマと懊悩を前にしてよくそんな行為に及べるなと感心した。だから俺はミニシアターに来るような人間が嫌いなんだ。以上。

 

 本作は名前の通りシリア紛争の中でイスラム国に占領された都市ラッカでの虐殺や抑圧をテーマに、それを世界に報道しようとしたシリア人ジャーナリストたちの活動を映したドキュメンタリー映画だ。

 最初はアサド政権に対する市民の抗議運動だったはずだが、あれよあれよとエスカレーションしていき政府軍vs市民軍の内紛になって、何処からやってきたのか、何故かラッカは黒装束のイスラム過激派集団に占領されてしまう。そして暴力による抑圧が始まり、ラッカのジャーナリストたちは立ち上がる。

 なんと言っても衝撃的だったのはジャーナリストとイスラム国との間で交わされるメディア戦争その様態だ。ジャーナリストらはラッカで情報収集に務める国内組と、国内組からの情報を世界に発信するためにトルコやドイツで活動する国外組に分かれる。どちらのチームも、大規模な通信設備は必要なく、パソコンとスマートフォンが専らの武器になる。それだけあれば、世界に虐殺の情報を発信する能力になる。実に現代的だが、おおよそ現代で為されたものとは思えないイスラム国の前近代的な処刑、晒し首、市中引き回し、その他暴力がスマートフォンの画面に映し出される倒錯性には眩暈を覚える。

 更に異常なのはジャーナリストに対する報復行為だ。中近東だけでなく、EU圏でもテロが起きていることが示す通り、イスラム国の構成員は国外にも潜伏している。そうしたテロリストがジャーナリストたちの後を追い、拠点や隠れ家を見つければ写真に収めてSNSに殺害予告とともに投稿する(本当に映画の悪役みたいなキャプションが付くので悪い笑顔が出てしまう)。

 加えて、イスラム国のインターネットを用いたプロパガンダもなかなかクオリティが高い。先述の殺害予告による恫喝だけでなく、イスラム戦士の募集のためのPVの出来には目を見張るものがある。映像の中でイスラム戦士たちは統制の取れた精強な兵として映り、また別の映像ではFPS視点で悪いヤツらを射殺していく戦闘映像が流れる。発展途上国で制作されたアクション映画のような演出で、十分な教育を受けていない青少年なら間違いなく影響を受けるだろう。やってること、言ってることは反近代的でややもすれば蛮族だなんて形容したくなってしまうが、持ってる技術は明らかに高度に現代化されている。この歪な構造(!)。

 筆者や読者のみなさんが今もこうして利用しているインターネット空間は、上記のような戦争や虐殺と直結している。「世界中の人と繋がれる」などという陳腐なインターネット観はもう見飽きた。繋がった先に出てきたのは処刑映像と生首と殺害予告だ。「何を今更、昔からそんな情報はインターネットに氾濫していただろう」と言う方もいるかもしれないが、個人的には、狂気と暴力に満ちた凄惨な現実がそのままインターネットにリンク・直結していくこと、相手もインターネットを多分に用いた戦略を展開して政府や公的機関の介在しない情報戦争が起きている、という事実に陳腐さは微塵も感じない。

 現実は明らかに我々の想像力を超えている。高度な通信・映像技術を持つ反近代虐殺集団と林檎印のついたスマホとノートブックPCを武器に戦うジャーナリスト集団……。不謹慎な言い方だけれど、起きている現実はそんじょそこらのフィクションよりもずっと想像力に富んでいて面白さを感じてしまう。

 歪な現実とネットを介して我々に隣接する戦争、異様な現実・現象に圧倒されるこの映画は間違いなく今年の私的ベストに入る。

 

3.『ラブレス』  ―性愛をやめろ、性愛をやめろって言ってんだよ

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 ニコニコ動画の広告で目に入って見に行くはめになった。なんでニコニコで広告やってるんだ。

 

 3位っぽく書いてるけどこれが一番でも良かった気がする。事実、気分によってはこれがベストに上がる。ランキングなんてそんなもんです。

 あらすじ。現代ロシア社会、自己愛が強くSNS中毒のためにスマートフォンを片時も手放せない嫁と、子供にも無関心で家庭を忌避する仕事第一の夫というエゴイズムに満ちた夫婦関係は破綻して離婚に向けて話が進む。家も売りに出して夫婦はそれぞれの交際(不倫)相手と次の人生を進もうとしている中、突如として子供が失踪。夫婦は互いを口うるさく罵り合いながらも、警察やボランティアの力を借りつつ子供の行方を捜すというストーリー。

 人間の性愛についてこれでもかと愚劣・醜悪に描いた傑作。性愛と生殖の果てに憎悪に満ちた夫婦と不幸な子供は生まれ、惨憺たる有様になっても夫婦はまた別の異性を見つけて性愛を繰り返す。最悪。性愛をやめろ。

 ストーリーにそれほど起伏はなく、暗色の絶望感がスクリーンを支配する。曇天のロシアは冷たく、鈍重な気分にさせる。ただどこか、冷たい画面に映る構造物たちは美しく見える。共産主義を想起させる集合住宅や巨大なパラボラアンテナ、冬の森に崩れたままの廃墟、超然と佇むそれだけは美しく、その下で人間たちは無力に動いて愚かに罵り叫ぶ。この退廃的な対比が非常にエモーショナル。

 先述した通りストーリーに大きな展開があるわけではなく、緩やかに降下しながら最後に着地点を見つける。特に何かが解決するわけではない。ネタバレになるが、発見されたそれが夫婦の子であるとは誰も断言しないし、どうしてそうなったかまでの経緯も不明で、ただ子供は永遠に夫婦の下には戻らないだろうということだけが判明する。

 そうして夫婦は不倫相手と新しい生活を始めるのだが、結局のところこの新しい性愛も不幸を生むだけだ。画面は再び色彩を欠いて暗色が支配し、元夫婦の二人はただ空虚な表情を顔面に張り付かせる。

 ラストシーン、個人的にはウクライナ紛争のニュース映像が流れる演出が非常に気に入っている。人類は愚かなので性愛も戦争もやめられない。性愛をやって憎しみをやってまたウクライナで戦争が起きて人間が死んでいく。監督の人類嫌い感が伝わってきて非常に良かった(小並感)。

 鳴りやまない性愛と憎悪の繰り返し、人間は辛い。生殖をやめろ。ロシアの冬は寒い。冬に佇むアンテナは美しい。静かで退廃的で、ロシアと人間の感情が大好き(大嫌い)な人は是非視聴してほしい。

 
おわりに

 3作分も一気にレビュー描くのキツい。ベストワンだけでよかった。いやでも『ビューティフル・デイ』も傑作だし『ラブレス』も名作なんだよなあ。

 とりあえず目的を決めて文章を書くこと、という一連のワークを完遂できたので内容のクオリティ如何に関わらず満足でした。完璧を目指すよりは完遂する方が重要だとどこかのオタクは言っていた。

 上半期ベスト3を書いてしまったからには下半期ベスト3と年間ベスト3もやらなくてはいけないだろう。めんどくさいですね。気になるのは『ブエナビスタ・ソシアル・クラブ』の続編とテンギス・アブラゼ監督(グルジア)の『祈り』3部作……でもまだ『カメラを止めるな!』とか見れてない。そんなに時間はない。大人1枚1800円は結構高い。

 ほどほどに飽きない程度にテーマを見つけながら、文章書いていこうと思います。

IMAGINARY ZEGEN VS URBANSCOPE

 会社から帰ってからこんなことは考えたくない。

 

 最近、「表現規制」にまつわるインターネット上の動きでかなり引っかかることがあったので(正直に言えば不満に近い感情だけど、ここではあまり関係ない)考えをまとめるためにこの文章を書くことにした。ちなみにネタバレするとこの文章を書いた結果考えはまとまっていない。

 

 事の発端は人気アニメの性的な2次創作を気に食わない人が、それを、つまり性的なイラストや漫画といった同人的な創作をやめろと提言したことらしい。

 インターネットやめろ。

 端的に言って、これは「個人的に嫌いな表現を禁止してほしい」というある種の価値観の押し付けであるので、まあバッシングを受けても仕方ないかなと思う。

 けれど、筆者が不満を抱いたのはその点ではなくて、上の意見に対するバッシングの在り方と、反論の論理的根拠についてだ。

 

 この種の表現規制に相当する批判が持ち上がったときに必ず湧き上がるのは「嫌なら見るな」と「一度表現規制を認めれば他の表現も危うくなる」という2つの根拠だ。

 本当にそれでいいのか?「嫌なら見るな」の一言で事は済まされるのか?それは、そのフレーズに凝り固まった思考停止の一種ではないのか。単純な言い方をすれば、思考がネットに支配されてないか?と、徒然疑問に思ったので色々と考えてた。

 詳しくは後述したいのだけど、別に筆者は表現規制に賛成しているわけではない。ただ、上のような言説が氾濫したり、性的2次創作を擁護する人々が数的優位を持って反対意見をぶっ潰してる(ように見える)現状がなんか気に食わない。もっとなんかあるだろ、とそんな気分なだけ、つまり結果どうこう正しさどうこうではなく表現規制に対する言説と運動の在り方について疑念があるだけです。

 まあ前置きはいい加減にして、とりあえず「嫌なら見るな」論について批判的に考えていきたい。

 

強制情報都市

 「嫌なら見るな」論の前提には、インターネットはユーザーである自分が情報を取捨選択できるので自分が不快に思う情報をディスプレイ上から切り捨てることは可能である、という論理がある(っぽい)。

 嘘じゃん。インターネットでは見たい情報だけをピックアップすることはできない。例えばtwitterFacebookのタイムラインについて考えてみる。そこにある情報は本当に全てお前が選んだもの?そのプロモーションはもちろん選んでないだろうし、フォローしてるアカウントの投稿がすべてユーザーのニーズを満たしてるわけではない。過度な単純化かもしれないが、ユーザーはフォローしてるアカウントの言説が予測できないからこそフォローしているはずだ。基準となるのは、「この人はこんな情報を提供してくれるだろう」というユーザーの憶測に過ぎない。

 また、あるアカウントが提供してくれる情報の種類は多岐に渡るので、競馬の予想情報を提供した後にラーメンの画像をシェアしたり、有名人の訃報や日経平均株価の情報を提供したりするかもしれない。botじゃないんだから当たり前だ。

 自分が欲しい情報が得られるなんて保証はどこにもないし、逆のことだって当然ある。好きな小説家をフォローして作家の私生活や新作の概況を知ろうとしたら、見たくもないその作家の日頃の生活の愚痴や奇天烈な政治観の情報が降ってくることだってある。

「それならそのアカウントのフォロー外せ」とご尤もな意見もあるだろうが、先ほど言った通り一つのアカウントから提供される情報は多岐に渡る。「この漫画家つぶやきを見たい!時々不快な情報が混じるけどそれでも有益な情報がある」という場合における選択に正解も不正解もないだろう、それは個人の問題だ。

 広大なネット上に氾濫する情報をコントロールすることなんてできない。中国共産党エルドアンだってできてないんだから、日本の一般人にできるはずがない(極論からのアナロジーは詭弁の一手段です)。

 まあSNSなら設定いじくってブロックやミュート設定をいじればある程度はコントロールできるのかもしれない。恐らく、完璧にそれを設定したときあなたのタイムラインは極めて平坦で面白みのないものとなるだろう。

 

 とりあえず、そんな中で、「嫌なら見るな」は無理がある。インターネットやめろ。

 

 派生として「見てもスルーしろ」もあるようだけどこちらも厳しいんじゃないかと。 「不快」の感情は見た瞬間に発生するものだし、そもそもその類の表現が「嫌い」という積極的な感情を持ち合わせている場合スルーすることは難しかったりする。「荒らしはスルー」なんて昔言われたのが懐かしいですね。SNSでの「荒らし」の定義なんて無理じゃね?せいぜいスパムアカウントとクソリプ製造機くらいやろなあ。

 問題を一気に難化させてしまうのだけど、「不快なものが目につく」ことが既に問題だったりする。極端に言えば「不快なものが存在し、目につく可能性があること」がそもそもの問題だ。そいつは輪郭を持った存在でないのに敵意を持ってしまうものなんてこの世の中いくらでもある。

 結論は最初から出てる。「嫌なら見るな」はあまり意味ないぞ。お前が何かストレス溜まってて何か言った気になりたいなら構わないけど。俺もこの空虚で何もない深夜の天井に得体の知れぬ感情を抱いている。

 

倒れよ我がベトナム、と国防長官は言った

「ある規制を認めれば別の種類の規制も認めることになる」論について。

 これはまあ危惧するべきことなんだろうなあと個人的にも思う。ニーメラーの言葉を引用するのは散々やられているっぽいのでここでは割愛する。

 留意するべき点は、こうしたドミノ理論は詭弁や誤謬、もしくは盲信に陥りやすいというところであるし、そうであるからこの言説への批判的視点は怠ってはいけない。冷戦期アメリカ外交を追体験したいならそれでいいと思う。

 

 レベルの問題。また極論だけど、世間一般であまりに少数派かつ非倫理的な表現(具体例なんて出したくないが特定の紛争の難民の少年少女の死体を陵辱したり損壊したりするような表現とか)は、それがいいか悪いかは別として公開を停止させられたりするだろうが、だからと言って別レベルの表現が規制されたりはしないだろう。

 自分でも何が言いたいのかこれもうわかんねえな。要は、「これが規制されたらこっちも規制されるぞ!」なんて妄想に囚われずにいること、他の表現との関連について考えることが重要だということにしておく。そうでないと、「これ規制したからこっちも規制ね」と言われたときに「その表現は以前の規制とはここがこうでこうだし関係ないからその規制は不当」とか反論できないし、上述したような極めて公開(範囲は知らん)するのが不適当と思われる表現への歯止めが効かなくなってしまう。

 混乱を防ぐためにもう一度例を。「福島県の農産物は放射能の影響で食べると三年以内にガンになると説明する、ちょっと露出の多い衣装を着た女の子のイラスト」(なんじゃそりゃ)を規制する必要があるのはどの点なのか。そんな感じで、いい感じで読み取ってくれ。俺はまだ人類のリテラシーにだって絶望しちゃいない。

 

 当初の問題あんま関係ねえなこれ。まあいいや。

 

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No one hurt

 

スタンス・スタンス・スタンス

 最初にこれ言っておくべきだったと後悔してる。

 言いたいことは最初に言っておくべきだ。

 問題に対する対処とは主張を徹底させることではなく、対立する複数の主張を調整し妥協点を見つけること、最大公約数の実現。

 もちろん、それはイデアであって現実には存在しないかもしれないのだが、インターネットはどうにも妥協させることを知らないらしいし、誰も言ってないらしかったので言っておくことにした。

 極めて個人的な思想であるのだけれど、政治とか社会とかいうものは妥協の産物であって、妥協の産物であるべきだと思っている。誰かの主張がそっくりそのまま通るわけがない。あくまで主張とは最大公約を実現するために必要な事前情報でしかなく、そのものを実現させるべきではない。

 民主主義だなどと大仰なことは言えないが、少数派の尊重は社会運営の原則だ。自分の考えに反する意見を、自身が多数派であるからとぶっ潰すさまは見ていて気分のいいものではないし、それで最大公約が実現されるとは思わない。

 例を挙げる。国民の大多数はそれなりの収入を得て贅沢ではないが貧相でもない生活を送っている。その一方で数パーセントの劣悪な労働環境や低賃金といった労働問題に苦しんでいる人々が存在する場合、この数パーセントの人々に対する救済策の必要性は数的問題ではない。貧困に苦しんでいる人々が多数派か少数派であるかは問題ではないだろ。

表現規制と労働問題は違うとかそういう批判が予想されるけど、問題解決についての数的優位と必要性の関連性について言いたいんだ。察しろ)

 そりゃまあトンデモな少数派だっているだろう。この世は唯一神が拍手するその振動によって成立しているので人類も神のように拍手することで世界の波動と合一し幸福を得ることができると主張する連中のために人類全員が拍手する必要はどこにもない。ただ、そうした集団に出会った際に「貴様たちは間違っている」と言ってぶっ潰す必要もない。彼らがひっそりと奥多摩の山奥のキャンプの中で拍手して神との合一を得られるならそれに越したことはない。一方で彼らが神の波動を使って国民に危害を加えようとする場合、消極的ではあるけれど最大公約の実現としてこれを排除することは問題ないと思う、たぶん。

 書いてて思うけどここらへん難しいっすね。最大公約とは誰にとっての最大公約とか基準が曖昧だし、そもそも完全に客観的な基準が設定できない以上やっぱりイデアと言う他ないな。それに表現規制によってある表現を規制した場合最大公約の実現のための情報って言ってるのにそれを自ら規制してメタな矛盾っぽい。33-4

 言いたいことは最後に言うに限る。数的優位と正当性と対策、それぞれの関連性は思ったより高くない。引くことを覚えろ。頼むから一歩引いてくれ。そして、もし問題をある程度、アクチュアリティを持った形で前進させたいのであれば主張を貫徹するのではなく妥協点を探すべきだ。各主張を相対化してください。

 このページは書きかけなので加筆・訂正をお願い致します。

 

 

 

 

 じぶんがたり。

「表現」という語は色々厄介な気がする。その語の中には「創作すること」から「公開すること」まで含まれてしまっているからだ。個人的に「創作すること」自体は規制されるべきではないと思う。行為そのものがある種の思想信条を伴っている場合が多々ある(というか全部そうか)ので創作行為の規制は思想の規制と同等になる。書いてて思ったが当然のことをそれっぽく言ってるだけだなこれ。

 これも勝手な個人の考えなのだけれど、創作行為はほとんど自分に向けての行為であって極めて私的なものだ。俺は俺が読みたい小説を書いて、俺が見てみたいイラストを描く。他人のために書かれた小説とか不気味じゃないすか。

 一方で「公開すること」に関しては規制とかゾーニングが必要だと考えている。特に深い考えがあるわけではなくてネットをだらだら見てて突然エロ画像とかグロ画像見せられるのは嫌だ(この突然が本当に突然だったのかがまた難しいのだけれど)。それはお前の個人的経験と好き嫌いじゃんって言われればそうなのだけれど俺は今個人的経験と好き嫌いの話をしているし表現について個人的経験と好き嫌いに踏み込まず語るヤツがいるんか。さっきお前最大公約がどうとか言ってなかった?

 エロ画像を見たいヤツはpixivなりなんなりで探してお気に入りに入れて閲覧してそれでいいじゃないんですか。描くヤツもpixivなり個人サイトで公開すればええやん。pixivの回し者かよ。

 人に文句ばっかり言う大人にはなるなよ。

苦痛について

2017/2/20

 無意味という毛布に包まって眠ってしまえ。

 

 めちゃくちゃ久々の投稿です。自分でもこのブログの存在をすっかり忘れていた。放置していた理由はこの文章を書く理由と同じで特にない。強いていうならこのブログのトップに広告が出ていたので、なんか悔しかった。

 

 変なタイトルをつけてしまった。岩波文庫じゃねえんだぞ。

 このタイトルで書こうと思ったのは筆者が「苦痛」が好きだからに他ならない。別に殴られたり罵詈雑言を浴びせられるのが好きとかそういう嗜好を持ち合わせていない。むしろメンタルが弱いのでやめてほしい。まったく別の話だけどよく「性的嗜好」が「性癖」という語に置換されてることを目撃するのだけれどこの書き方あんまり好きじゃない。こういう文句ばかり垂れる大人にはなりたくなかった。寛容の心を持て。

 

 話が逸れすぎている。「苦痛について」。自分でもよくわからないけれど、苦痛が好きだ。自覚しているので先に言っておくとここで言ってる苦痛は結局のところ苦痛のストーリーであって我が身に降る苦痛は先程申し上げました通りご遠慮願いたい。

 だから、じゃあ、それなら、あんたの言う苦痛とは何なんだ。テーマとなる概念の明確な定義がない以上、論ずるに値しない文章だ。

 無意味、とりあえず一言で済ますならこの一語だと直観する。虚無だとかまた別の言い方があるかもしれない。無意味ってなんだ?

 この世界(フォカヌポゥ)はあまりに意味が溢れすぎていて、意味のハザールだ(デュフフ、拙者、つい)。

 人は生きる意味やら働く意味やら、家族を持つ意味、少し文脈を変えると国家の意義や歴史の意義を考えたがる。こういう超越論的な語り方はよくない。俺は村上春樹じゃないし、村上春樹は超越者じゃない。村上春樹と言えば今度また新作出るんすね。

 無意味に人は耐えられないとか、そういう古代ギリシアから言われてそうな論を蒸し返す気はない(アリストテレスがそんな話をしているかどうかは知らないが、万物について語ってる連中だからそういう話もしてるはずだ)。

 問題は、「苦痛」「無意味」には面白さがあるということだ。

 これくらいしか話せる分野がないのでこの話になるのだけれど、「無意味」を題材にした映画はやっぱりあって、どれもこれも見応えがある。無意味をテーマに据えてんならそれ有意味じゃんとか突っ込みはやめろ。

 前にブログで紹介したかもしれないが、ヴェルナー・ヘルツォークの『小人の饗宴』(最近BD出たよ)、それとアレクセイ・ゲルマンの『神々のたそがれ』、タル・ベーラの『ニーチェの馬』がこのテリトリーのトップ3だ。リンチの『イレイザー・ヘッド』を加えてもいいかもしれないがなんか違うのでやめた。

 これらの作品が示すのは人生やら人類やら世界やらはどうしようもなくどうしようもなくて、ただひたすらにつらいね、とそんなお話だ。抽象的すぎる。でもそんな感じだから仕方ない。

 この意味希求的世界を吹っ飛ばしてくれる。それが個人的にどはまりで、最高なのだ。性格捻じ曲がりすぎだろ。でも世界観を吹っ飛ばす(される)というのはこれ以上ないほどに心地よいものがある。そうして無闇矢鱈に破壊しつくしていくと何もなくなる。他人の信条を破壊するのは何物にも変えられない趣きがある。俺が戦後日本の具象化だ。

 「無意味」の心地よさはそれだけでない気がこの文章を書きながら湧いてきたのでこのまま続けます。

 V・E・フランクルは「生きることに意味があるんじゃなくてお前がお前の人生に降りかかる問題に応えていくことが人生なんやで」と言ってた気がするが、これを悪用すると結局のところ人生は無意味でつらーい現実だけが目の前に横たわっていると、そう考えることもできる。

 なんとなく、それでええやんと思えてしまうし、苦痛に抱擁されることで逆に楽になれるんじゃないかと思った。

 どうせこの世は苦痛なのだ。幸福は仮初でしかなくて、端的に言えばそれは現実に生じたエラーだ。バグと言い換えてもいいかもしれない。一羽の蛾がハーバードMk2に偶然にも侵入してしまったためにコンピュータは正しく計算できなくなってしまったが、現実もそんな感じで動いてんじゃねえかと。これだと幸福とエラー出力の因果関係が逆だ。でもまあそんな感じ、フィーリングで理解してほしい。

 ちょっと一歩だけ引く。お前が無意味を「好きだ」と言えるのは別にお前がそんなに苦しんでないからじゃないの?甘い人生送ってるからじゃないの?パレスチナの壁の中で、ダルフールの砂漠のうえでお前同じこと言えんの?

 また一歩引く。別に筆者はパレスチナ難民でもフール族やバッガーラでもない。またそれか。でも、それは事実でこの筆者はこの筆者しかいない。日本の工場プロレタリアのしょうもない苦痛とパレスチナ難民の民族的苦痛はまったくの別物なので、並列化することはできない。この話今までのブログでもTwitterでもやったからやめていいよね。

 この世は苦痛、これから目を背けると痛い目を見るんじゃねえのかと。その意味ではこの筆者の思考はただの苦痛への逃避に過ぎない。キリスト教がなんやかんやで世界宗教になってるのわかりみあるな。

 自己啓発的なことは大嫌いだ。苦痛と向き合って生きていけなんて言うヤツは信用ならない。てめえに他人の苦痛はわからないだろ。とりあえず、どっか社会の片隅で、だいたい神奈川県で、「この世はつらい」と言って、それで終わり。

 

 書けば考えもまとまるかと思ったけどそうでもなかったのでまたこのテーマでなんか書く予定にしておく。予定はいつだって無料なのだ。

  そんなこんな。

 

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アレクセイ・ゲルマン『神々のたそがれ』(2013年・ロシア)

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タル・ベーラニーチェの馬』(2011年・ハンガリー)

 

2017/2/21

 上の文章のほとんどは2月20日の深夜にスプリントミサイルの勢いで書かれたもので、今こうして投稿前に眺めてみると深夜テンションとはかくも恐ろしいものかと戦慄している(スプリントミサイルと「かく」の掛詞)。

 別に精神を病んでいるわけではないので安心してほしい。至って心身ともに健康、体重が結構増えたのが悩みだ。矛盾しているようだけれど、筆者はネガティブな思考が大嫌いで、「這いつくばってでも生き延びてやるからな」と割と生命への執着は激しい方だと自負している。簡単に人間が死ねると思うなよ、一体お前の家族と社会はいくらお前に投資したと思ってるんだ。いくら日本政府の教育への公的支出がOECD最低レベルって言ってもGDP比3.5%だぞ。防衛予算の3.5倍かよ。子供一人育てる(出産から大学まで)のに1世帯3,000万円以上掛かるからな。

 フランクルの悪用が見られるが、フランクルはほぼ確実に「現実は苦痛である」と知っている。そりゃお前ホロコーストを経験したらそうなる。そのまま端的なアナロジーを言ってしまえばこの世は壮大なアウシュヴィッツだ(こういう物言いは歴史学者に滅茶苦茶怒られるので真似しないでください。特にフランクフルト学派の前で言うなよ)。

 繕えばアウシュヴィッツの中にも意味を見出せるかもしれないけれど、みなさんご存じの通りアウシュヴィッツにそんなものはない。無限深の虚無があるだけで、あらゆる存在から意味は剥ぎ取られる。それなのに、意味を見つけようとすると高圧電流の流れる鉄条網に飛び込むのだと思う。「ぼんやりした不安感」の正体はそういた意味への欲求によるものなのではないか。相変わらず輪郭は茫漠としたままなのだけれど。

 上述の通り、「意味なんか見つけるな!」とは言わないしそんなことを言うのはこじらせ文系野郎かキチガイだ。世の文系野郎はここでキチガイと一応区別がつけられていることに感謝するように。

 ただ、高圧電流の中に飛び込みたくはないなと思う。それだけです。

 

 とりあえず、文章が長くなりすぎるのでここで一旦止める。2/20の文章では続きを書くと言っているがどうなるかはわからない。

 

 

 

 あっ、そうだ(唐突)

 去年の冬コミ出たんですけど小説サークルの現実を見せるかの如く在庫があります。

 いつも通りBOOTHで通販してるから見るだけ見ってやってください。

juken.booth.pm

面白さを共有できない人(々)

 

 

 庵野秀明監督の『シン・ゴジラ』を見た。滅茶苦茶面白かった。なので、滅茶苦茶悔しかった。

 なんで悔しがる必要があるんですか、と賢明な読者は思うだろうけれど、そういう性分なので仕方がない。

 公開初日(7/29だったっけ?)にTwitterで「『シン・ゴジラ』が無茶苦茶に面白い」というつぶやきが連発されたとき、嫌な予感がした。

  その翌日

  なにやってんだこの池沼……。

 とりあえず、29日時点で『シン・ゴジラ』が面白いというつぶやきを展開している人々の様子を見ると、『パシフィック・リム』や『マッドマックス』、『ガールズ&パンツァー』のときと同じことが起きていると直観したのだと思う、当時の筆者は。

 それがどうして危機感に繋がるのかというと、上記の類の作品が大多数の人々に賞賛される環境にあると筆者はとても性格が悪くなるからだ。意地汚く陰湿な態度を取り始め、最近に至ってはそれでいて開き直り始める(この文章も開き直りの一種である)。筆者にとって危機的環境とは、ある作品が不特定多数の人に礼賛されている状況のことである。

 筆者個人の感覚は絶対的に筆者個人のものであって絶対にあなたは共有も共感もできないけれど、Twitterやらなんやらを見ていると似たような腐った感情を抱いている人は存外に多いようである。素直に映画を楽しめない人々。

 同調圧力なんて言葉が昨今の流行だけれど、「この作品を褒めてない人にはセンスがない」などという同調圧力は実は必要ない、そんなものは被害者面した消費者モドキが勝手に頭の中で組み立ててくれる。まあそんな言葉を見たら見たでニヤニヤしながら露悪的・俗悪的な感想を間接的に返すだろう。(※検索を掛けたら『シン・ゴジラ』は絶対に見るべき!みたいなブログやツイートがヒットして少し憂鬱になった)

 勘違いしないでほしいのは、この文章は「『パシフィック・リム』~『シン・ゴジラ』の系統に連なる映画を楽しんでいる人々を叩く」ために書かれたことではないということだ。あなたがそのように解釈するなら筆者は止めはしないけれど。

 「頭空っぽな映画」とか「快楽主義の塊」、「現代日本の消費主義の極致」とかそんな言葉で作品を楽しんでいる人を貶めるのは間違っている。映画が撮られ、上映されるのは人々に「面白さ」を届けるためであり、リュミエール兄弟の映画がスクリーンに映されたその瞬間から映画の面白さはすべて消費者の所有物だ。映画に聖俗の境界なんてないし、年間300本映画を見るような映画オタクと年に2、3回映画館に足を運ぶ人の映画を見る視線の間に優劣の差はない。

 で、あるから問題は筆者もしくは我々「面白さを共有できない人(々)」(※主語が大きすぎます)にある。人が折角面白い映画を見て興奮しているところに水を差すような人々に一粒でも論理的、もしくは倫理的正しさがあるとすれば勘違いも甚だしい。

 どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?自分で言っておきながら一方的に責任を押し付けられるのもなんか悔しいので色々自分に有利な理由を考えてみた。

 面白さを共有できない人(々)には「作品フォロワーの集団的意識についていけない」「同じ言葉ばかり呟いていてアホらしい」とかそんなのがあると思う。

 全部作品の外部の話じゃないか。作品そのものはどうした。

 まったく別のことを思いついたのでそっちに話をシフトさせる。「どうして面白さを共有できない、もしくは共有したがらないのだろう?」なんて問いはその人それぞれだし、そうしない理由、心情は理解はできるかもしれないが共有や共感は決してできないだろうからまあ勝手にやっててくれ、筆者も好き勝手にやっているからあなたも勝手にやってくれ。

 

 それで肝心の別の話だが、グダグダと書くの面倒くさいので結論から書いてしまおうと思う。

 

 映画の鑑賞もしくは消費行為は映画館に足を運ぶ前の情報を咀嚼し期待するところから映画館を出たあとに感想をつぶやいたりその映画を話題として会話するなど「面白さ」(あるいは「つまらなさ」)を自分なりに表現し他人と共有するまでの一連の行動によって成り立っている。

 

 例外はもちろんありふれているだろう。誰とも語り合わず、ひたすら作品を見るだけという映画の消費行動も可能だ。けれど、そんな人は当然のことながらあまりいない。

 映画を見たら誰かにその面白さを伝えたくなる。つまらなくても同様だ。しかも今ではSNSやらなにやらで簡単に不特定多数の人間に向けて発信可能で、同じ作品のフォロワーと遭遇する可能性も高い。

 何かを他人と共有することは面白い。それが「面白い映画」であればなおさらだ。今の社会(※舞台が大きすぎます)、消費行為は「食べる」「見る」「行く」等から延長して「語る」「共有する」までをも含む。まあ太古の昔から共感は人類にとって大事なテーマだったから本質的には何も変わっていないのかもしれないっす。

 作品について語る人々もそれを拒否する人々も結局作品の外部に目が行っているんじゃないだろうか。楽しむことを楽しんでいる、楽しむことを楽しめない。メタ的なことを書きたがるクセがあるけれどそんなもんじゃないかと思う。

 

 それで何が問題なのかと言われても、特に言葉は用意していない。ああ、筆者は後者だったなあとそんなふうに思って、それで終わりである。筆者はこれからも流行の映画に抵抗していくしそれをやめることはできないと思う。悔しいのう悔しいのう言いながら哀れに映画を楽しむ被害者面をした消費者モドキであり続けるだろう。

 

 忠告すると「私はこういう心情からこのように思います」という意見・感想は一切お待ちしていない。あなたがどのような感情を抱いていようが、その感情をどんなに素晴らしい筆致で描こうが誰もあなたの感覚を共有することはできない。共有できる、というのであればそれは共有した気になった人の頭の中でつくられた偽物のあなたの感情に過ぎない。であるから、ここに書かれている文章において筆者は「面白さを共有できない人(々)」という大きな主語を用いているが筆者は決してそうした人々と心情を共有し代弁しているわけではないし、もちろんあなたは筆者の感情を共有することもできない。とりあえず言っておきたいのは、個人の感覚は絶対に共有・共感できないということだ。筆者はあなたではないし、あなたは筆者ではない。

 ここまで読んでお気づきの方もいるかもしれないが、筆者は実際は「面白さ」も他人と共有することはできないと考えてる。あなたの感じる「面白さ」と他の誰かが感じる「面白さ」が同じでえあるとは限らないし、そもそもその「面白さ」はあなたのものであって他の誰のものでもない。言葉やイラストで何をどう表現しようが文字や画像といったメディアに載せられた時点で、もしくは他人のその文字や画像を見る視線が情報を変換してしまう。こればかりは譲れない、あなたは他の誰でもないし、他の誰かは決してあなたではない。

 

 

 

 

 

 じゃあ、なんでお前(筆者)は映画の面白さを綴った感想ブログをやっているんだ?

 

 

 

ルノワール、フィルム、フレーム

視覚とフレーム

 この文章はルノワール展の感想ではない。

 先日国立新美術館でやってたルノワール展に行ってきた。

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 正直、絵画を見るための審美眼なぞ持ち合わせていないので結局時代背景とか考えるだけで終わる。『ムーラン・ド・ギャレット』には近代市民社会における公共空間の登場と市民としての女性が描かれていて~とか必死に考えるのは絵画の鑑賞法をよく知らないからに過ぎない。絵を見ろよ。

 ほんで、頑張って絵を見ようとするのだが、そこでなんとなく気づいたのは額縁の存在感。当然ながら、展示されている絵は必ず額縁に入っている。けれど、中には肝心の絵以上の面積を持つ額縁とか、やたらと凝った意匠の額縁とかあってやたらと気になる。そこで色々また思いつき始めたのだが、だから、絵を見ろよ。

 フレーム。

 絵画に限らず、映画や演劇、アニメや漫画といった視覚文化においてフレームはガチのマジで重要だ。スクリーン、舞台、テレビ、コマ割り……。スクリーンとアスペクト比が一致してない映像を想像できる?舞台の存在しない演劇を想像できる?コマ割りの存在しない漫画を想像できる?だいたいこういうのはアヴァンギャルドな人たちが挑戦してきたことだから現代だとなんとなく想像はできてしまうかもしれない。

 フレームの機能は視線の集中と同時に境界の決定にある。フレームがあるから観客はどこに視線を向ければいいかわかる、対象が「作品」であるとわかる。絵画をひたすらくっつけるようにして並べてしまうとどこからどこまでが作品であるのかわからなくなってしまう。フレームは、対象が「作品」であるかを決定する。ここでわかることは観客は基本的にフレームの存在を前提に作品を鑑賞しているということだ。無意識的にと言い換えてもいい。額縁を見るために美術館を訪れる人間なんてそういないだろう。

 額縁・フレームというか境界に対する無意識のうちの認識。マグリットの下の絵とか例示にはちょうどいいかもしれない。

 ルネ・マグリット『人間の条件』(1933年)

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 この絵の中には絵画を絵画足らしめようとさせる積極的なフレームが存在せず、ただ周囲との違和感という消極的な理由によってキャンバス上の絵画は絵画として認識される。下のやつも同様。

ルネ・マグリット『Euclidean Walks』(1955年)

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 少し調べたら部屋の内部は人間の内面で外部を写し取る無意識・精神が云々とかいう絵画評論が一般的とか出てきてこれもうわかんねえな。

 あと、美術館で額縁見てるとほぼ必ず凹の形を取ることに気づいたけど、これも鑑賞者の視線を中心(絵画)に寄せていくためかなと思った。凸になって飛び出てくるような絵画なんて見たことない。そうすると額縁の効果が薄くなるからかなとなんとなく思ったので、誰か今度実験してみてください。

 映画とフレーム

  既に述べているように映画においてもフレームは重要な存在だ。スクリーンはどこからどこまでが作品なのか、広い映画館の中でどこに視線を向ければいいのか教えてくれる。(「映画館でスクリーンに目を向けないバカがいるかよ」)。

 スクリーンは額縁じゃなくね?と思うかもしれない、実際スクリーンのみを映画におけるフレームとして定義するのは無理があると思う。映画におけるフレームとなるとまた面倒なのだが、個人的には映画館という空間そのものがフレームになるのではないかと思う。演劇における舞台と同じっぽいけど演劇は全然わからないのでその道の人に聞いてください。

 フレームとしての映画館は現代よりも映画が出現したばかりの20世紀初頭の方が顕著でわかりやすい。下の画像は1930年代アメリカの映画館、演劇用の劇場をそのまま映画館に改装したような空間だ。

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 重要なのは、今の映画館と比較して装飾が仰々しいほどに施されているにも関わらず結局視線は中央の真っ白な平面(スクリーン)に無意識に向けられるということだ。

 ちょろっとだけ先に話を出していたが、絵画の額縁は凹の形を取る。それは中心に視線を集めるため、光の井戸として機能するためだが映画館にも同じことが言える。上のような装飾マシマシ映画館も現代のシンプルなつくりの映画館も構造的には絵画の額縁と一緒なのだ。視線がスクリーンの方向へ集中する錘の形をしている。スクリーンはキャンバス、映画館そのものは額縁として考えることができるかもしれない。

 

 うだうだとした話をしよう。映画におけるフレームの構造がここ最近どんどん変化してきている。3D、4DX、IMAXとか、なんか色々出てきた。またこの話かよ。一応付け加えておくと3D映画自体は既に1920年代に劇場で上映されたことがあるし1953年にもヒッチコックの3D映画『ダイヤルMを廻せ!』が上映されている。とりあえず最近の3D映画の潮流の源としてはたぶん2009年の『アバター』かなと思っている。

アルフレッド・ヒッチコック『ダイヤルMを廻せ!』(1953年)

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 話を元に戻す。4DXやIMAXといった新しい上映形態が目的としているのはだいたい”臨場感の増幅”だろう。立体映像・立体音響による抱擁、4DXに至っては触覚まで刺激してくる。観客は映画の世界に連れ込まれることを強制される。

 スクリーンから観客へ、この方向性は今までになかったものだ。今まで観客は勝手にスクリーンに映る映像を勝手に見ていればよかったから、むしろ逆に”観客からスクリーンへ”という方向性があったんじゃないかと思う。

 臨場感の増幅はフレームの破壊に他ならない。フレームが生み出す境界なんて臨場感を目指す立場からしたら邪魔でしかない。映画館が破壊されてしまうとなると、あと観客に残ってるのは身体しかない。映画館というフレームをふっ飛ばして身体で直接感覚する映画。身体がフレームとして機能するかどうかはまた別の話ということで。

 「フレームを破壊するからIMAXも4DXもクソ」と言いたい気持ちがないわけではないけれど言ったところで何も意味はないのでやめておく。むしろ、今までの映画は美術や演劇と同じ視覚文化としてそれらと並列になって存在していたが自らフレームを破壊することで今後どのような形態を取っていくのか、さらにはフレームの消失に対して観客の無意識はどのような対応を取っていくのかということだ。映画館で席に座ったらスクリーンに視線を移すのが当たり前、その当たり前が変わる可能性がある。言い過ぎか、でも映画が生まれてたかだか100年ちょっとでしかない、100年で形成された伝統やら慣習なんてものは簡単に吹き飛ぶ。10年後、映画館の観客はどのように映画を見ているかなんて誰にもわからないだろう。でもやっぱり筆者はアトラクションとしての映画館には耐えられそうにない(クソザコ

 

 そんなこんなを国立新美術館で考えていた。だから、ルノワールの絵を見ろよ。